六章 出る竜は打たれる(1/2)

 あたしたちは一路、王都へ向かう。

 兄はそこにいる。

 旅の終わりの気配。あたしはそれを、ひしひしと感じとっている。



 がたん、ごとん、と規則正しく振動しながら、王都行きの蒸気機関車が一面の花薫る草原をひた走る。

 王都への移動は、一度乗ってみるのも一興ではないか、というジーヴたっての希望もあり(という言い方をするとまた嫌がられるのだろうけど)、鉄道を選択する運びとなった。道中ジーヴと話したい事柄もある。竜型の彼とは会話ができないから、移動しつつ話し合いが持てる列車の利用は、あたしとしても好都合で異論はなかった。

 王都行きの列車はすべて寝台列車で、客室は等級に応じて広さが違い、ひとつの部屋につきふたつの寝床が付いている。王都へ着くまでの三日三晩、ここで寝泊まりするのだ。外観から想像するより内部はずっと広々としていて、あたしはちょっと感動を覚えた。

 寝台列車は客車全体に鍍金めっき装飾がふんだんに施された立派なもので、本来あたしのような平民に手が届く代物ではない。ひとえに黒竜の鱗さまさま、といったところだ。この旅で、あたしはずっとジーヴに頼りっぱなしだったなと思う。いまだに彼の鼻を明かすことも、一杯食わせることもできずにいる。名前も、結局呼ばれず仕舞いになるのではないだろうか。

 兄が捕らえられ、焦る気持ちもあるけれど、焦燥感で機関車の速度が上がるわけでもない。あたしは極力この旅程に浸ることに決めた。きっと二度と経験できない数日間になる。

 客車の外装や内装の豪華さにも驚かされたが、度肝を抜いたのは食堂車での食事だった。車内に上品な円卓と椅子が並ぶ様は、あたかも高級飲食店に来たようで、こぢんまりしたバーさえ設けてある。

 発車してから初めての食事時、あたしは落ち着かなく周囲を見回しながら席に着いた。客は正装した中高年の男女がほとんどだ。内面はともかく、見た目だけなら青年貴族にも見えるジーヴは、存外しっくりと豪華絢爛な客車に馴染んでいる。悠然と前菜を待つ姿も堂に入ったものだ。対して、薄汚れた服のあたしはどこをどう見ても浮いている。乗客たちがこちらをちらちら見ながら何事か囁く声も聞こえてくる。

 ふんと鼻を鳴らし、ジーヴが聞こえよがしに大きい声を出す。


「小娘よ、堂々としているがよい。お前は正規の料金を払ってこの列車を利用しているのだ。何も後ろめたいことはなかろう」


 竜の一声の効果は絶大で、ひそひそ話はぱたりとやむ。いい年をした男女がもぞもぞと気まずそうにしているのにも、ジーヴは意に介さぬ様子だ。

 しかしな、と今度はあたしに向かって眉をひそめる。


「その服装が場違いであることは確かだな。以前にくれてやった首飾り、まだ持っているか? あれを着ければ、少しは華やいだ雰囲気になるのではないか」


 いつぞや、ジーヴが気まぐれで買ってきた珊瑚の首飾り。あたしはそれを、まだ持っている。持っているが――この格好に合わせたら、それこそお笑い草ではないか。


「……首元だけ飾りたてて、何の意味があるの」

「くく、それもそうだ。なに、枯れ木も山の賑わいというだろう、何も無いよりはましかと思ってな!」

「……」


 憮然として、膝を打ち大笑いする無礼な竜を睨む。ジーヴの人を食った言い様には、一年間旅を共にしても慣れることがなく、いつまでだって腹が立つ。それに、乗客が怪訝な顔で見てくるからやめてほしい。

 前菜としてテリーヌが運ばれてくる。一瞬ジーヴは手掴みで食べるのではとひやっとしたが、予想に反し自然な所作でナイフとフォークを繰りだした。いくら批判的な視線を向けてみても、洗練されているとしか言えない仕草だった。


「あんた、それちゃんと使えるんだな」

「なんだ、心配していたのか? 能ある竜は爪を隠すものだ」

「あんたの爪はいつも剥き出しだけどな」


 冗談なのかそうでないのか、判別できない言葉に適当に返答する。あたしは多数の銀色にきらめく道具たちを前にし、途方に暮れた。こんな格式ばった形で使うのは初めてなのだ。そしてジーヴにはなるべく教えを請いたくない。見よう見まねで、最も外側に置いてあるナイフを手に取る。あたしの一挙手一投足を、ジーヴがにやつきながら見ている。恥をかいてなるものか、とむきになるが、片腕のあたしが食事中ずっと四苦八苦したのは言うまでもない。



 気疲れのする食事を終え、客室に戻る。これが三日間続くと思うとげんなりした。普通の人は手の込んだ料理を楽しめるとなれば喜ぶのだろうが、さっきのであたしの舌には合わないともう結論が出た。大衆食堂や宿、自分で作る大雑把な料理の方が断然好みだ。

 部屋には毛足の長い絨毯や、優美な曲線を多用した鏡台、ふかふかの肘掛け椅子などが設えてある。弾力に富んだ椅子の座面に深くうずまると、精神的な疲れが抜けていく気がした。

 ジーヴはでかい図体で二人がけのソファを独り占めしている。いつの間にか手にしていた蒸留酒のふたをきゅぽんと開け、そのままぐびぐびと口に含む。半分ほどを顔色ひとつ変えず一気に煽る鯨飲ぶりに、呆気に取られた。


「なんだ? お前にはやらんぞ。これはいい酒だ」

「飲みたい、なんて一言も言ってないから……それより、王都に着く前に話したいことがある」

「うむ。俺もだ。まずお前から話せ」

「……イゼルヌ教団の奴らに捕まった時、騎士団長が気になることを言ってたんだ。確か、"理想の世界を作る"だとか"世界は新しい秩序を手にいれる"だとか。どういう意味だと思う」


 天鵞絨ビロード張りの座面にふんぞり返り、長い足を組んだジーヴは思案げに顎を撫でる。


「それだけでははっきりしたことは分からんな。が……俺も気になる話を聞き込みで得たぞ。イゼルヌ教団の最高位は大司教という肩書きなのだが、なんでも今の大司教に代替わりしてから、教義の解釈が少し変わったようなんだと」

「……どういう風に?」


 人間こそが神に祝福されし大陸の支配者である、とするイゼルヌ教の教義。それをどう噛み砕くか。

 不穏な雰囲気を感じつつ問う。

 ジーヴは獰猛で獣じみた、それでいてどこか虚無的な笑みを浮かべる。


「嘘か真か分からんが、当代の大司教のもと、教団は竜排除の動きを見せているらしい。竜の知性を否定するだけでなく、存在をも否定しようというわけだ」


 息を飲む。話の流れで薄々勘づいていたけれど、声に出して聞くと空恐ろしいものがあった。

 無意識に握りしめていた片手の拳に、じっとりと嫌な汗をかいている。


「そんな……大司教が代替わりしたのって――」

「一年と数ヵ月前だそうだぞ」


 ジーヴは遠くを見つめている。ああ、と嘆息が漏れる。あたしの街が焼かれ、黒竜の一族が滅ぼされたあの一夜。時期がぴたりと合致する。

 黒竜の元族長はさらに言葉を続ける。


「噂話という前提は付いているが、火がないところに煙は立たぬ、というからな。どこまでかは知らんが、真実も含んでいると考えるべきだろう。なれば、連中の言う"新しい世界"がどういったものか、推測できよう」


 ジーヴは既に悟っている。あたしも、予想がついている。しかしそれを口にするのは、かなりの勇気を必要とした。口内がからからに乾いていた。唇を一舐めしてから、一句一句を喉から絞り出す。言葉で、腫れ物に触ろうとする。


「――今の大司教と、イゼルヌ教団が作ろうとしてるのは……竜のいない世界」

「そんなところだろう」


 ジーヴは低い声で応じ、木製のテーブルの上に酒瓶を乱暴に置く。ごとんと重い音が鳴った。


「竜は人間に協力もせぬし、人間が何を考えているかも興味がない。人間同士で争おうが、知ったことではないと思っている。しかし、同胞に仇なさんとする者を、野放図にするわけにはいくまい」


 いつしかジーヴの口元から笑みが消えていた。代わりに、目の奥でめらめらと激情がほとばしっている。その燃え盛る感情は、アルコールランプに灯る、青白い炎にも似ていた。

 あたしはふーっと長く息をついて、より深々と椅子に沈みこむ。

 話が大事おおごとになってきてくらくらした。竜のいない世界を作るなんて、正気の沙汰ではない。第一そうする理由がない。竜がひとたび本気になれば、赤子の手をひねるように、人間は成すすべもなく駆逐されるだろうことは想像に難くない。その可能性は脅威かもしれないが、人と竜が対立した歴史はないし、竜は絶対に人間との間に禍根を残す真似はしない。ジーヴと旅をしてきて、それははっきりと分かる。

 謎はまだ残る。そんなけったいな思想の持ち主に、兄はどうして狙われたのか。彼は、捕らえられるような研究をしていたのだろうか。あの柔和な笑顔の裏で?

 あたしは自分の気持ちがぐらつくのを感じ、座面の上で膝を抱えた。


「兄さんは、どうして捕まったのかな。あいつらに追われるようなことを研究してたのかな……」


 弱々しく客室に漂う、答えの出ない問い。あたしは兄のことになると自制が利かなくなる。簡単に視界が潤んだ。

 疑問に答えたのは、ジーヴの呆れ返ったため息だった。


「手の施しようのない愚か者だな、お前は。お前の兄はきっと今頃、捕らえられた先でたった一人で耐えているのだぞ。お前が信じてやらんでどうするのだ?」


 責めるような言葉に、はっとする。そうだ。あたしは兄のたった一人のきょうだいであり、肉親なのだ。何があっても、兄が兄であることに変わりはない。

 あたしは緩んだ鼻をすする。


「ジーヴ……もしかして、励ましてくれた?」 

「下らんことを抜かすな。お前が勝手な想像で勝手にくよくよと消沈するのに、鼻持ちがならなかっただけだ」


 酒瓶がまた大きい手底たなそこによって持ち上げられる。ジーヴはその透明な液体を、二回目ですべて飲みきった。

 


 列車が速度を落とす。ガラス屋根のアトリウムの内部へ、甲高い制動音を響かせながら、機関車は乗客を焦らすようにのろのろと進んでいく。

 終着駅に降り立つと、三日間ぐらぐらする床に慣れきったあたしは、不動の大地の上でしばしふらついた。

 人の波に従い、駅の大広間コンコースから外へ出る。初めて見る王都の壮観に、あたしは驚嘆の声をあげた。

 煉瓦造りの道路に、煉瓦造りの家々。道をひっきりなしに行き交う人々、馬車、ところどころに最新鋭の乗り物である車。都の中心は小高い丘になっていて、そこに、いくつもの尖塔を抱えた、眩しい白壁の王宮がある。あそこに、この大陸の王が住んでいる。

 しかしその城自体より、あたしの目を奪ったのは、城へ向かう荷馬車の多さだ。馬に引かれた大小様々な幌が、列をなして続々と王宮を目指している。きっと中身はほとんどが王への貢ぎ物だろう。

 といっても、王族が道具や食品や宝飾品などの品々を、強制的に献上させているわけではない。大陸全土の商人や農民たちが、ぜひ国王陛下に使ってほしい、食べてほしい、と品物を運んでくるのだ。王族御用達の箔がつけば、同品質のものより三割ほど高価でも飛ぶように売れる。あたしの街からも、物品を運んでいたから分かる。人間、みんな考え方は一緒だ 。

 駅前を散策する体を装いつつ、ジーヴとこそこそ作戦会議をする。

 

「兄さんはどこだろう、やっぱり王宮かな。どうやって助けだそうか」

「俺がまた、頭突きで壁をぶち破るのではいかんのか」


 額にまだ傷を残した竜の御仁は平然とのたまう。


「駄目に決まってるでしょ、それじゃ兄さんを助けに来たんだって教団の奴らに報せてるようなもの。兄さんを人質にでもされたらどうするの」

「ふむ。そういえば、俺たちの情報が王都まで伝わっているかもしれんな。教団の人間に見つからぬようにせねば」


 ひそひそと思案をこねくり回していると、


「お二人さん、王都は初めてかい? 記念の土産に、王都名物なんていかがかな」


 後ろから、首にたっぷりと肉を蓄えた、にこやかな商人に声をかけられる。

 見ると、彼は馬を牽いており、さらにその馬は巨大な棚型の荷台を牽いている。移動式の店舗だろうか。それぞれの棚には、香水の瓶を二回りほど大きくしたような、コルクで栓をした小瓶がずらりと並んでいた。

 コルクと瓶のあいだには色とりどりの蝋引き紙が噛ませてあって、目に賑やかだ。中身は黄金色や琥珀色、黄褐色をした液体のようである。何気なくそのうちの一本を手に取って傾けると、液面がそろりと動く。鉄道で抜けてきた王都周辺の花畑を思いだし、ぴんと思い当たった。


「なんだそれは」

「蜂蜜だよ。色んな種類の花の」


 さして興味もなさそうに尋ねるジーヴに、あたしは答える。商人が満足げにうんうんとうなずく。


「蜂蜜は王都の特産品なんだ。旅人さんには特別にお安くしとくよ」


 昔から蜂蜜は好きだった。純正の蜂蜜は独特のえぐみがあるけれほど、水飴とあわせればぐっと食べやすくなる。もちろんそのまま飲み物に入れても、焼きたてのパンに塗ってもいいし、料理に使えば味がまろやかになる。見映えよく仕上げるための、つや出しとしても使える。

 それにしても、これほどの種類の蜂蜜を一度に見たことはなかった。圧巻である。

 いつも自信たっぷりの黒竜が、不可解そうな顔をして小首を傾げる。


「花の種類ごとにそんなに色が違うのか?」

「味だって全然違うぞ。そんなことも知らないで、よく今まで生きてこれたな?」

「……」


 いつかのジーヴの台詞を真似する。さんざんあたしを馬鹿にしてきた黒竜の大男は、むっつりと押し黙った。イゼルヌ教団の時の仕返しだ。胸がすく。

 商人はあたしたちが興味を持ったと判断したのか、営業用の笑顔とともに、荷台の棚からなにがしかの商品を寄越してみせる。


「最近売り出したばかりの新商品があってね、紅茶の抽出物エキスと蜂蜜を合わせたものなんだけど。お湯に溶かすだけで、手軽に色々な味を楽しめるよ。味見だけでもしていって」


 商人魂を丸出しにした男は荷台からポットを取りだし、これは日光で温めただけだからぬるいんだけどね、と言いながら、水と蜂蜜とを木製のカップに注ぐ。

 あたしは無料ただならばと喜んで受け取り、ぬるま湯でも薫る芳香を胸いっぱいに吸い込んでから、口に含む。紅茶と蜂蜜の織り成す調和。自分好みの味だった。美味しさで酔いそうだ。

 杯を渡されたジーヴは気乗りしない顔だったが、渋々といった様子で口をつける。

 その瞬間、竜ははっとした表情を浮かべ、一口、また一口と飲み進めた。結局、蜂蜜紅茶は一滴残らず飲み干された。


「まあ、なかなかの味だな」


 と我に返って苦し紛れのように言う。あたしはそれを、にやにやと眺めた。



 街道沿いのカフェテラスにて、作戦会議を続行する。

 注文した深煎りの珈琲に、さっき買った蜂蜜をこっそり垂らしてみる。黄金の流体が珈琲の味を素敵に変える。こんな悠長に構えている場合ではないのだが、いい買い物をしたと思った。


「して、どうする」

「考えてたんだけど、あれが使えないかなって」


 あたしは煉瓦敷きの道を間断なく行き来する、幌馬車の列を指差す。

 あれらの行き先はすべて王宮だ。荷台に潜り込めば、自動的に城の入り口くらいまでならたどり着けるだろう。その後は多少荒っぽい手を使う必要があるとは思うけれど、膂力に任せて正面突破するよりよほど効率的だ。

 ジーヴも異議はないらしく、小さく顎を引く。

 

「常套手段といえば常套手段だな。それで行くか。ただし、動物が乗せられた馬車はごめんだぞ。臭いで俺の鼻が駄目になりかねんからな」

「それ以前に、動物に騒がれたら一巻の終わりでしょ……」


 竜の男は、ひどく小さく見える陶器の器をぐいと傾ける。


「さあ行くぞ、善は急げだ」

「ちよっと待て、まだ残ってるんだって……あちっ」


 二人して荷馬車の物色を始める。あんたのせいで舌を火傷した、どうしてくれるんだ、とジーヴに不平を垂れながら。

 噴水が噴きあがる公園の一角に、馬を一時休ませるための水飲み場があって、周囲には低木が集まって茂みになっている。あたしたちはこれ幸いとばかり緑の影に隠れ、手頃な荷台がないかとつぶさに観察する。地味な外装の馬車を目をつけ、あれはどうかな、よし行こう、と囁き声を交わし、御者が一時車から離れた隙に、すばやく荷台の中に忍びこんだ。

 幌の中は真っ暗だった。土埃と、干し草と、香辛料の匂い。どうも食料品を積んだ馬車のようだ。床部分は荷物でごたごたしていて、ほとんど隙間がない。辛うじて底面が見えている荷台の隅っこに、ジーヴとぴっちり隣り合って座る。贅沢は言っていられないが、かなり窮屈だ。大の男と密着せざるを得ない。


「ふむ、ぴったりくっついているしかないな。この際だから我慢してやるが」

「それ、こっちの台詞だから……」


 兄以外の異性に、これほど接近されるのは初めてだった。よりにもよって、なぜこんな尊大で不遜な竜がその相手なのか。運命の神に文句のひとつでもぶつけてやりたい。

 すぐそばで馬が嘶き、びくりと体が震える。そのうち車輪が軋み、車体がぎいぎいと動きだした。王宮までどのくらいかかるのか知らないが、既に狭さで体が悲鳴をあげている。一刻も早く着けるよう、内心で祈りを捧げた。

 しばらくして、三半規管が車の傾きを察知する。王宮へ一直線に伸びる坂道へ差しかかったのだろう。ここを行き過ぎれば、そこはもう王宮の領内だ。思わず胸を撫で下ろし、安堵に一息つく。

 しかし、馬車は坂を少し登っただけで、不意に止まってしまった。体に伝わるがたごとという揺れがやむ。胸に急速に広がる不安。


「おかしいな。まだ城じゃないよな?」

「何かあったようだな」


 至近距離からの、ジーヴの低い囁き。

 あたしは息を殺し、耳を澄ました。外でがちゃがちゃと金属が鳴る音がする。温度を感じさせない平坦な声がそれに続く。


「検問だ。中を検めさせてもらうぞ」


 へえ、と御者の素直な返事。

 あたしの心臓が跳ねあがる。傍らにいるジーヴが、まずいな、と渋い口調で呟いた。



 一条の光が、荷台の暗黒を払う。

 影と化した衛兵が、暗闇に目をこらして荷物を確認する。その視線の動きが、手に取るように分かる気がした。

 あたしはジーヴの腕の中にいた。衛兵の声がけがあった直後、彼はすぐさまあたしを抱き寄せ、長い黒衣で体を覆ったのだ。二人して気配を消そうと努める。息遣いを抑えた彼の、逞しい両腕があたしの全身をぎゅっと抱き締めている。

 極限まで縮こまろうと、緊張した全身を彼に預けると、微動だにしない厚い胸板があたしを迎えた。竜の肌は冷たいのかと予想していたけど、そこは優しい温もりがあり、安心感が形を持ったらこういう感じだろうな、と考えた。これまで、竜と人間はまったく別の生き物なのだ、と実感するばかりだったのに、こうして鼓動を聴くと大して違わない気もする。ただあたしが女で、彼が男だというだけで。

 張りつめる緊迫感に、あたしの心臓はばくばくと早鐘を打っている。胸に接した耳から聴こえてくる心音は、とくん、とくん、とゆったりしていた。こんな状況でも、落ち着いていられる彼をすごいなと思う。

 兵の硬い足音が迫ってきて、ひしとジーヴにしがみつく。それで何かが好転するわけでもないのに。彼の長い腕は背中まで回され、抱擁めいた姿勢となっている。

 一分一秒が引き伸ばされたようだった。衛兵のぬめった目が黒衣を見透かしているんじゃないか、今に剣が振るわれるのではないか、という恐怖が渦巻く。こぼれそうになる悲鳴を、叫びを、歯を食いしばって押し殺す。

 そうして、やっと足音は離れていき、再び荷台が闇に包まれた。

 よし、行っていいぞ、の声に、またも御者がへえ、と答え、車が動き始める。

 張りつめていた緊張がやっと解け、ジーヴの腕のなかで、あたしはへなへなと脱力した。


「どうやらやり過ごせたようだな」


 ジーヴもやれやれと息をつく。あたしの腰に手を回し、全身を胸に抱いたまま。

 その腕がいっこうに解かれる気配がないので、あたしは彼の強靭な体をぽかぽかと殴って抗議した。


「いつまでそうしてるんだ、離せ馬鹿!」

「なんだ、どうした。気がついたんだが、この体勢の方が楽ではないか?」

「そういう問題じゃないッ」

「ではどういう問題なんだ」


 ジーヴは心底分からないと言わんばかりに、目と鼻の先で、訝しい表情を浮かべた。

 やっとのことで、無粋な男から逃れる。

 口が裂けても言えない。その太い腕のなかが、少し、ほんのちょっとだけ、心地好かっただなんて。頬がかっかと赤らんでいる予感がある。ここが暗闇で本当に良かった。


* * * *


 淀んだ空気が満ちる石牢のなかで、冷気に身を切られながら、僕はぼんやりと考える。このまま殺されるのだろう、と。

 彼らの身の毛もよだつ計画に気づいてしまったがために。



 生まれ故郷が灰塵に帰したのは、きっと僕のせいだ。

 何が悪かったのだろう。長旅の末、新大陸を発見したことだろうか。海洋学者になったことだろうか。竜の知見に目をつけたことか。そもそも、学者にならなかったら、アイシャと二人で幸せに暮らせたのだろうか。

 狭く閉ざされた牢獄にあって、僕の眼裏まなうらに映るのは、新大陸の風景だった。深い霧の内から立ち現れた、巨大な陸の棚。険しい岸壁の上に広がっていた、果てしもなく続く手つかずの草原。

 上陸時は岸近くの荒波に揉まれ、激しく船酔いした僕は前後不覚の状態になっていたけれど、あのたった数日間の調査ほど、好奇心と知識欲を刺激する経験はなかった。僕はその時とても幸せだった。このために生まれてきたんだと本気で思った。復路の食糧がぎりぎりになるまで粘り、新大陸を去る際には、相当に名残惜しかった。心のなかで、また来るよ、と陸地に向かって呼びかけた。

 しかしその想いも、虚しくここで潰えようとしている。

 イゼルヌ教団の大司教は、我らに味方すれば命は助けてやろう、と言う。初老に差しかかった大司教の微笑みは、形こそ聖職者らしいものではあったが、その目はぞっとするほど熱がなく、どこまでも冷酷だった。

 我々の仕事は仕上げの段階に入っているのだ、と彼は告げる。


「後は陛下が、人間と竜の生活圏分割の令状を、私たちへ発布してくれれば終いだ。おかしな意地は捨てろ、小僧。お前が何を成そうと、どのみち命令は下る」

「司教、あなたは」

「司教ではない、私は大司教だ」

「……大司教。僕は、焼き討ちを経験しています。それを陛下が知ったら、どうなさるでしょう。僕の行為がすべて、無駄だとでも仰るのですか?」


 僕はできうる限りの凄みを利かせてめつける。

 なんとか国王に大司教の悪行を伝えられれば、僕に勝機はあると考えていた。僕は彼らの凶行を身をもって体感したのだ。彼らの真意は他にあるのだと、陛下、あなたは騙されているのだと、そうお教えできれば、未曾有の暴走は食い止められるのではないか。僕はそこに可能性を見出だしていた。

 陛下は民に愛されている。決して愚王ではあるまい。

 僕の思考を知ってか知らずか、大司教は僕の睨みを一蹴して高笑いした。


「その通り、無駄だよ。お前がどんな言葉を尽くそうと、根拠も無しに国王が聞き入れるわけもあるまい。国王陛下は私を信頼してくれておるのだ。何事を話そうと、所詮は竜狂いの妄想と断じられるだけだろう。分かったのなら観念して、私に従うんだ」


 最後通牒めいた威令にも、屈する気はなかった。

 これまでの耐えがたい尋問にも、研究者としての、人間としての、何より兄としての尊厳や自尊心がまさったのだ。竜をこの大陸から駆逐するだなんて馬鹿げている。抵抗が無意味だとしても、彼らの言いなりになるような真似をしたら、妹は僕を一生軽蔑するだろう。それは死よりも酷なことに思える。

 だから僕は誇りを保ったまま、ここで死ぬつもりでいた。心残りがないわけじゃない。やり残した仕事も研究も、たくさんある。そして何より、一度だけでもいいから、最期にアイシャの元気な顔を見たかった。

 静寂が支配する牢獄に、きいぃ、と入り口の扉が開かれる音が響く。

 石床をコツコツと叩く音。悪魔の靴音。そちらを振り仰ぐ気力もなく、ため息をつく。


「また尋問ですか……。何度も申し上げたとおり、僕はあなた方には絶対に協力しません。何回言えば分かって――」

「兄さん!」


 鋭い女性の声。ああ、とうとう幻聴まで聴こえるようになってしまったのか。あの、聞き馴染んだ声。懐かしい、僕が最も求めていた声。

 僕はのろのろと半自動的におもてを上げる。

 金属の柵の向こうに、衛兵の兜を被った、衛兵服姿の華奢な人物が立っている。その体は小刻みに震えている。僕の、雪に覆われた湖みたいに凍りついた心が、一瞬にして融け、喜びで沸き立った。驚きと嬉しさで泣きそうだ。

 幻聴じゃない。どういう経緯で彼女がそこにいるのかは分からない、けれど間違いようがない。一年ぶりに再会する、妹のアイシャだ。


「アイシャ! アイシャなのかい?」

「良かった……兄さん、無事で……」


 アイシャが兜を脱ぐ。くすんだ桃色の髪と、僕と同じ深い紫色の瞳が現れる。その双眸は潤んでも見えた。なんだか、顔つきが以前にも増して凛々しくなっている。


「ジーヴ、早く早く!」


 牢の扉の方にいる誰かに向かって、妹が声を放る。

 味方がいるのか、と僕は感心した。悠然とした足取りで近づいてきたのは、並外れて大きな体躯の、黒衣を纏った青年だった。尖った耳に、鋭い爪。竜だ。

 竜の青年は柵に相対し、おもむろに両腕を伸ばす。握ったその手に力が込められると、服の上からでも筋肉が盛り上がるのが分かり、太い金属の棒はまだ熱い飴細工のように、造作もなくへにゃりと曲がった。

 出現した抜け穴を通って、アイシャが僕の元へと駆け寄ってくる。僕はよろよろ立ち上がって、鉄砲玉みたいに飛んでくる妹を、心許ない腕と胸で精いっぱい抱きとめた。久方ぶりの抱擁だった。


「兄さん……会いたかった……!」

「僕もだよ、アイシャ」


 頭を撫でてやると、アイシャはすんすんと鼻を鳴らしはじめた。腕にあるぬくもりが、これが夢じゃないと証明してくれる。僕の視界も涙で滲む。

 そうしているうちに、僕はあることに気づいて愕然とした。妹の左腕が、丸ごとないのだ。


「アイシャ、腕が――」

「うん……街が焼けた夜、瓦礫に押し潰されたの。もう駄目だって思って、最後は自分で切り落とした」

「……ごめん、アイシャ。僕のせいだ……」


 壮絶な語りの内容に、抱き締めるより他に何もできない無力な自分を呪う。アイシャは胸のなかで、いやいやをするように首を横に振る。そのいじらしさに、また泣けてくる。

 僕らの様子を遠巻きに見ていた竜が、ゆっくりと牢の内部に入ってくる。片眼鏡モノクルを割られてしまっていたためによく見えなかったけれど、この距離なら分かる。彼の顔には見覚えがあった。

 竜の青年も、僕を視界の中心に捉え、おや、という顔をする。


「エイミール?」

「~~~じゃないですか!」


 僕らは互いに名前を呼びあった。

 アイシャがもぞりと動いて、無言のまま僕を見上げる。口はぽかんと半開きになり、目が点になっている。僕からなかば体を離し、驚愕に顔を染めながら、僕と竜に視線をやる。

 僕は竜を出迎えた。こんな堂々とした竜は他にはいない。黒竜の一族の、元族長だ。額に覚えのない傷ができているけれど、調査に何度も付き合ってくれた、あの彼に間違いない。

 瓦礫の山と化した故郷を命からがら抜け出し、ふらふら彷徨っているとき、さる筋から黒竜の一族が滅んだという話を耳にしたが、生き残りがいたのだ。こんなところで再会できるとは僥倖ぎょうこうだ。


「よかったあ、無事だったんですね」

「なんだ、兄とはお前のことか。小娘とまったく似ていないから、分からなかったぞ」

「いやあ、よく言われます」


 僕は頭の後ろを掻き掻き、苦笑した。

 それまで絶句していたアイシャが、混乱の極みに立たされたように、僕と竜を交互に指差す。


「え……二人とも知り合いで……ジーヴ、人の名前は覚えないって言ってなかった? それに兄さん、何て言ってるの……?」

「~~~だけど? 彼の名前だよ」

「全然聞き取れない……」


 アイシャががっくりと項垂れる。

 妹が驚くのも無理はない。通常、竜の名前は人間には発音できないからだ。

 アイシャがジーヴと呼ぶ竜の青年は、胸を反らしてふんと鼻を鳴らす。僕を鉤爪の生えた指で指し示す。


「こいつが俺の竜名を呼ぶものだから、礼儀として呼び返さぬわけにはいかなくてな。竜は礼節を重んじる生き物なのだ」

「いやあ、研究で彼にはお世話になっててね。調査で何回も聞いているあいだに、言えるようになっちゃって……」


 我ながら言い訳がましいなと思いながら、照れ隠しに頬を掻く。呆れ果てた表情の竜は、横目でちらりとアイシャを見やる。

 

「だからといって、普通は発音できるようにはならないんだがな。お前の兄は変わり者だ」

「あんたに変わり者とか言われたくない」


 アイシャが噛みつく。竜は不思議そうに首をひねる。


「それはどういう意味だ」

「分かるだろ」

「分からない」

「分かれよ」


 会えない月日のあいだに、アイシャは竜と相当親しい関係になったようだ。

 僕は二人を、温かい思いで見つめる。


* * * *


 まんまと王宮の敷地に忍びこんだあたしたちは、こっそり城の門扉に近づき、そこにいた門番の衛兵を気絶させた。彼らの制服を奪い、自らの体に纏う。竜の翼に荷物をくくりつけるのに使っていた縄で、衛兵をぐるぐる巻きに拘束し、庭園の茂みのなかに彼らを放置した。これじゃまるで悪役だよな、と内心ぼやきながら手を動かす。ジーヴはどことなく楽しんでいる雰囲気さえある。

 竜と女という、どこにいても目立つ組み合わせのあたしたちでも、衛兵の革帽を被ると性別すら判別がつかなくなった。申し分ない擬装だったがしかし、こんなにやすやすと牢までたどり着けるとは驚きだ。

 兄の無事な姿に、あたしは感無量だった。一年の空白を経た兄は少しばかりやつれていたが、怪我もなく健康体で、そのことに心底ほっとした。

 それにしても、兄とジーヴが知り合いだったことにも、兄がジーヴの本当の名を発音できることにも、ジーヴが兄の名を平然と呼んだことにも驚いた。あれだけ竜の名は人間には発音できない、人の名など覚えるにかないと言っていたくせに。

 兄に今日までの経緯を語る。ジーヴもイゼルヌ教団のせいで右目が見えないんだ、隻眼と隻腕の二人で欠けたところを埋め合わせて、ここまで旅をしてきたんだ、と話すと、兄はにこにこと微笑んでくれた。それだけで、王都への波乱に満ちた旅の一切が、報われたんだと思えた。兄はあたしの髪を撫でながら、逞しくなったねアイシャ、と嬉しそうに言う。

 これで、あたしの旅の目的は達せられた。イゼルヌ教団の目指すところは気になるけれど、まずは安全な場所まで逃げなければ。王宮から脱出するのが先決だ。

 とにかくここから早く逃げようと兄を促す。けれどなぜか、彼の反応は鈍い。その場を動こうとしないまま、じっと考え込んでいる。

 こういう兄の姿を、あたしは何度も見てきた。何か確固たる考えがあるのだ。こうなった彼の意志は強い。文字どおり、梃子てこでも動かなくなる。


「今逃げ出したとしても、奴らの真意を知っている僕はきっと追われる。いたちごっこになるだけだと思うんだ。何か方法はないかな……」

「どういうこと、兄さん」


 呟きの本意を図りかねて、兄の瞳を覗きこむ。好奇心と知性の塊である彼のまなこが、一瞬強い光を放つ。


「イゼルヌ教団のこと、君たちがどこまで知っているのか、予想がついているのか、教えてくれないかい。――君たちに、僕が知っていることをすべて、話そうと思う」


 兄の顔は、これ以上はないほどに引き締まっていた。

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