五章 竜が通れば道理が引っこむ

 その小娘は、俺をジーヴと呼ぶ。



 丸一年ほどともに旅をしてきた人間の小娘は、約束の時間が過ぎても宿に現れなかった。

 一階の食堂で果実酒をちびちび飲みながら、竜を待たせるなど相変わらず図太い奴だと考える。集合時間を決めたのは一体どちらだと思っているのか。小言でも言いたい気分だが、その当の本人がいないのではどうしようもない。

 待ち人は一向に来る気配がなく、代わりに胸の内に暗雲が渦巻いている。竜の勘というやつだ。ここでこうして無為なひとときを過ごしていても仕方ない。やれやれと一息つき、グラスをぐいと傾ける。カウンターの椅子から立ち上がった。


「勘定」


 言いつつ金貨一枚を机に滑らせれば、それを見たマスターがぎょっとした表情になる。上質とはいえない果実酒一杯に支払うには、気でも狂ったのかと疑われて当然の金額だ。分かっているが、竜の俺にとってはどうでもよい。


「お客さん、釣りは……」

「要らん。お前の懐にでも入れておけ」


 ひらひらと手を振り言い捨てて、夜の帳が降りきった街へ歩み出る。ひんやりした夜気が顔を撫でた。通りは、どことなくざわざわと落ち着かない雰囲気に包まれている。宿に着く前の心地好い喧騒とは、微妙に質が異なるようだ。街の匂いが、風の動きが、人々のさざめきの声色が、漂う空気のかもしだす色合いが、それを俺に告げる。

 そういえば、イゼルヌ教団の騎士の姿がない。

 やはり何かあったな、と小さくぼやく。

 俺は道端で客引きをしている、酒場の店員に声をかける。


「騒動でもあったのか。聖騎士が見えないようだが?」

「こりゃあ竜の旦那。つい先刻ですがね、あっちの通りで騎士団にとっちめられた人間がいたらしいですぜ」

「それは女か」

「へえ、年若い娘だって話でさ。何をしでかしたんだかね……」

「ふむ」


 思わず嘆息が出る。十中八九、俺の契約相手の小娘だろう。木乃伊取りが木乃伊になってどうするのか。かたきが街にうろうろしているところで、危険な綱渡りをするのはまずいと言ったのに。今となっては詮なきことだが。


「騎士たちの行き先はあの城か?」

「さあ、見ちゃいやせんが、多分あそこじゃないですかい」

「そうか。話を聞かせてくれた礼にこれをやろう。俺のことは誰にも言うなよ」


 店員に金貨を握らせる。その輝きに目をぱちくりさせた後、男はその場で卒倒した。

 俺は人混みに混じりながら、その昔領主の持ち物だったという城に視線を向ける。竜は夜目が利かないから、城の輪郭もその足元の丘の形さえはっきり見えない。

 歩きながら思索をくゆらす。騎士たちは小娘の兄の行方を追っていた。小娘も兄をまた捜していることが、どういう形でかは不明だが、騎士団に知れたのだろう。そして捕らえられた。城には牢だってあるはずだ。城に着いたら、小娘はそこへ投獄されるのではないか。

 だからといって、特にどうとも感じない。

 おそらく人間ならば、意を決して助けに行くのだろうとは思う。しかし、竜は人間を助けない。小娘にも言ってある。共に旅をしてきた相手が仇の手に落ちたからといって、義理立てする必要もなかろう。あの小娘は仲間や相棒などではなく、ただの非常食なのだ。

 そう、この俺の、非常食だ。

 きびすを返す。目的地を元の宿に据える。大きく欠伸をし、肩をぐるぐると回し、ごきごきと首を鳴らす。

 今夜はたっぷりと眠らねばなるまい。

 夜が明けたら、思う存分大暴れできるように。

 

* * * *


 目が覚めると、石造りの牢獄に放り込まれていた。

 あたしはじとっとした石の床に倒れ伏していて、黴の臭いが鼻を突く。幸い体は拘束されてはおらず、節々の痛みに呻きながらも、上体を起こすことができた。三方は石壁で、目の前には頑丈そうな金属の柵がある。冷気にあてられて、あたしは全身を震わせた。

 通路部分の壁には明かり取りの窓があるのか、そこから射し込む光が、不衛生な床の上に明るい長方形を投げかけている。もう夜は明けたらしい。番をしている騎士はいないようで、耳を澄ましても静寂だけが返ってくる。

 昨夜のことを思い返す。ポカをしてイゼルヌ教団の騎士たちに気絶させられ、気がつくとゆっさゆっさと揺れるものに乗せられどこかへ運ばれていた。袋を被せられていたので何も見えなかったが、きっと乗り物は馬で、行き先は領主の城だろう。だからここは城の内部で、聖騎士の根城ということになる。道中何度か抜け出そうと暴れてみたものの、その度に押さえつけられ体力を消耗したあたしは、そのまま眠ってしまったのだった。

 隻腕で体をさする。毒槍もナイフも取り上げられていた。羊肉屋での、ジーヴの忠告が耳に甦る。

 "奴らがいる状況で、聞き込みをするのはまずいのではないか?"

 本当にそうだ、とあの時の浅はかな自分に言い聞かせてやりたい。武器となるものを奪われた今、あたしは荒野に丸裸で放り出されているようなものだ。片腕で柵を揺らしてみるが、当然びくともしない。

 なんて無力。なんて愚行。

 ジーヴがいなければ、あたしはこんなに何もできない。彼の言う通りに慎重になっていれば、こんな事態は招かなかった。きっと、もともと持ち合わせの少ない彼の愛想も尽きただろう。それに旅を始める前に言われたではないか。"竜は人助けはしない"と。ジーヴは助けになんて来ない。

 これからどうなるんだろう。尋問。拷問。凄惨な場面ばかり頭に浮かぶ。死ぬ前に、一度だけでいい、兄に会いたい。そう思った。

 コツコツと石畳みを叩く音がしてはっとする。身を固くして、何者かの登場に備える。

 現れたのは三人の男だった。そのうち二人は昨日見た騎士と同じ、革の鎧姿。もう一人は、胴部分を銀色の甲冑で覆い、大仰な編上靴を履き、深紅のマントをひるがえらせた、厳めしい雰囲気の男。甲冑には羽ペンの紋章がきらめく。酷薄な感じの冷たい光が双眸に宿っている。歳は、青年と壮年のあいだくらいか。


「あたしをどうする気」


 先手を打って声を張る。マント姿の男は不愉快そうに眉根を寄せ、氷のような目であたしを見下ろす。途端に背筋が凍りついた。まるで蛇目へびめだ。


「目が覚めたか。我々の問いに正直に答えよ、さもなくば」


 そこで言葉を一旦切り、男が腰の長刀をすらりと抜く。あたしに見せつけるためか、その動作は至極緩慢だった。刃に沿って、物騒な光が切っ先まで移動する。その鋭い切っ先が、柵のあいだをすり抜けて、あたしの喉元に突きつけられた。


「イゼルヌ騎士団長の私には、虚偽を申し立てる者に対して、剣を振るう権利がある。よいな。おかしな気は起こさぬことだ」

「……」


 握りしめた拳が汗をかいている。うなずくのは癪だったので、じろりと睨み返すにとどめた。

 騎士団長を名乗る男は意に介さない様子で、部下の騎士から受け取った紙をあたしの目の前に提示する。


「お前はなぜこやつを知っている」


 深淵から届くような、重々しい響き。

 その紙は、あたしが描いた兄の似顔絵だった。なるほど確かに、こうしてまじまじと見るとかなり下手くそかもしれない、と現実逃避めいた感想を抱く。


「それはあたしの兄さんだ。妹が兄を捜して何が悪い。あんたたちこそどうして兄さんを捜しているんだ!」

「質問は許さぬ。我々の質問に答えるだけにしろ。しかし――なるほど、なるほど。あの街に生き残りがいたとは驚きだ。して、兄の研究内容を、お前はどこまで知っているんだ?」


 騎士団長の言葉で、かっと頭に血が昇る。こいつらか。やはりそうなのか。あたしは衝動的に柵に取りついた。やかましい衝撃音、掌の痛み、それらを振り切ってがむしゃらに叫ぶ。


「やっぱりあんたらなのか! あたしたちの街を焼いたのは! なぜ、どうしてあんなむごいことをしたッ」

「質問はするなと言ったはずだ」


 騎士団長の右手が振られる。刃の一閃。頬に焼けつく熱さを感じたあたしは、その場に倒れこんだ。

 手で触れると、ぬるりとした感触。血が伝っている。

 見上げる騎士団長の顔は少しばかり紅潮し、こめかみにぴくぴくと青筋が浮いていた。


「訊いているのはこちらだ。余計な話をするな。さっさと答えろ」

「……兄さんが何を研究していたかなんて、あたしは知らない。何も」


 観念して答える。そういえばあたしは兄の仕事をこれっぽっちも知らなかったな、と思い知り悲しくなる。

 兄は教団に狙われるような研究をしていたのだろうか? だからあたしが尋ねても、詳しく教えてくれなかったのだろうか?

 あたしの胸は沈んでいるのに、騎士団長はなぜか、口の端に引きつれに似た笑みを貼りつけている。


「おやおや、切りつけられても口を割らないとは。強情な娘だ」

「だから何も知らないって、言ってるだろ……」

「ふん。どうしても隠しだてするつもりなら、少々手荒な真似をせねばならないようだな。聖職者である我々としては、本来なら女子供相手に乱暴事はしたくはないのだが。しかし、真実を語らないのであれば、致し方あるまいな」

「何を言って――」


 さっきから嘘なんかついていない。あたしは混乱し、そこに立つ三人を順に見て、ぞっとした。

 全員の口元が、卑しい笑いで緩んでいる。闇色の光を映した三対の濡れた目が、あたしの頭のてっぺんから足の先までを舐め回す。ねっとりとまとわりつくような、嫌らしい視線。聖職者の瞳なんかじゃない、それは飢えたけだものの目だった。

 悪寒で全身に震えが走る。あたしは右腕で体をかき抱き、寒々しい石牢のなかで後ずさる。けれどすぐに壁に背が着く。

 これからここで演じられるのは地獄だ。きっと死ぬよりも陰惨な絶望だ。

 ――嫌だ、誰か助けて……。

 心は悲鳴をあげている。そしてその叫びが、どこにも届かないことを知っている。

 騎士の仮面をつけた悪漢どもが、じり、とあたしに迫る。騎士団長が鍵を持った手を錠前に伸ばし、


「騎士団長! 伝令です!」


 駆けてきた別の騎士の声が、鋭く空気を割った。三人の動きがそこで止まる。

 新しく現れた伝令役はあたしに一瞥をくれると、騎士団長に何事か耳打ちする。憮然としていた団長の顔が、みるみる喜色に染まった。

 ああ、これ以上の責め苦を、あたしに与えるのか。

 騎士団長はにやにや笑いながら口を開く。


「お前はどうせここからは出られん。あの街の生き残りを生かしてはおけぬ。だから、冥土の土産に教えてやろう。お前はなぜ、我々があのようなことをしたのかと問うたな。答えてやる、我々の理想の世界を作るためだ。この世界は、新しい秩序を手にいれるのだよ」


 男の目は熱っぽく、夢見心地だった。

 どういう意味だろう。分からない。けれど、今からこんな屑みたいな人間たちに辱しめを受けると思うと、もう何もかもがどうでもよかった。


「それと、たった今王都から連絡がきた。お前の兄は捕まったそうだ。きっと奴も、過酷な尋問を受けることになろう。ただの学者風情が、それに耐えられるとは思えんなあ」


 騎士団長の高笑いが石壁に反響する。

 ――ああ、兄さん。どうか兄さんだけでも、何とか生き延びて。あたしの分まで……。

 懐に手を入れる。双宿石アジスナイトはまだそこにあった。硬い三角錘をひとなぞりして、あたしは瞼を閉じる。せめて、惨苦の光景を見ずに済むように。

 男たちの荒い呼吸音。錠前が持ち上げられる小さな音。

 そして何の前触れもなく。

 轟音とともに、城全体が強い衝撃で揺さぶられた。


* * * *


 城の巨大な扉の脇に立っていた二人の騎士たちが、ふもとの街から何かの影が一直線に向かってくるのに気づいた。


「なあ、あれ、何かこっちに来てないか?」

「んー? ああ、本当だ」


 ただの黒い点はやがて塊になり、塊は翼のある生き物となり、それが竜だと判別できる頃になると、もうすべてが手遅れだった。


「おいッ、あの竜止まらないぞ!」

「衝突するつもりか! そんな馬鹿な――」


 あたふたする騎士たちを尻目に、莫大な運動エネルギーを持った竜の強靭な巨体は、最高速度を保ったまま、凄まじい勢いで城壁に突っ込んだ。

 何のためらいもなく。まるで矢のように。

 全身をふっ飛ばすほどの衝撃と、耳をつんざく暴力的な崩壊音とが、城にいる人間を翻弄する。

 状況を飲み込めぬまま、見張り役の騎士は入口の扉を開け放ち、慌てて衝突の現場へと駆けた。城の内部はもうもうとした白煙が立ちこめ、数歩先すら白んで見えない。二人は砂埃をまともに吸い、げほげほとしこたませこんだ。


「おいおいなんだよこりゃあ、あの竜どういうつもりだ」

「まさか昨日の娘を助けようとして――」

「馬鹿言え、竜が人助けなんてするもんかよ。それに石壁に激突したんだぞ、竜といえど無事で済むはすが……」


 コツ、コツ、という靴音が響く。

 二人は霞む視界のなか、互いの真っ白けに煤けた顔を見合わせる。おそるおそる音のする方へ体を向け、背負った銃をそちらへ構えた。

 足音が近づく。

 二人は揃って生唾を飲む。コツ、コツ。ふたつの銃身は震えている。

 コツ、コツ、コツ。

 不意に、煙幕の奥から生まれ出ずるように、黒衣を身につけた長身巨躯の偉丈夫が、ぬっと姿を現した。

 その額は大きく切れ、だらだらと真っ赤な血が垂れているけれど、口元には余裕すら感じさせる、不敵で悠然とした笑みがある。その口から赤々とした舌が伸び、額から筋になって流れる鮮血を、ぺろりと舐めとった。

 男の右目は白濁しているが、残った青い目の輝きは鮮やかで力強い。そのまっすぐな視線が、人間たちを射すくめる。


「ひ、ひい……っ」


 騎士たちは発砲するのも忘れ、人を超越した者の恐ろしい立ち姿に、腰を抜かす。

 竜の男は、何かを貰い受けようとするように、尖った爪の生えた右手を、情けなくがたがた震える二人へ差し出した。


「さあ、返してもらおうか。俺の非常食を」


 猛々しい外見に反し、よく通り品のあるバリトンで、竜はのたまう。


「小娘はどこにいる。無益な殺生をしたくはない、教えろ」


 二人の騎士は歯をがちがち言わせながら、弱々しく牢の場所を指で示す。


* * * *


「騎士団長!」


 焦った様子で騎士が駆け寄ってきた。


「何だ今の揺れは! 地震か?」

「いえそれが、竜に侵入されました! こちらに向かっています!」


 騎士団長が軽く舌打ちをする。錠からは手が離され、剣の代わりに銃が手に取られた。


「馬鹿な、早く抑えろ!」

「目下応戦中ですが、何ぶん物凄い勢いでして――」

「加勢する! 総員で当たれ!」

「はっ!」


 どやどやとその場の騎士たちが離れていく。しん、と辺りが静まり返る。

 あたしは長く息をはき、冷たい床にへたりこんだ。命拾いした。極限まで張りつめていた緊張が解け、ぼたぼたと涙が溢れてくる。

 でもまだ助かったわけではない。袖で目元を拭う。

 侵入してきた竜。それは、ほぼ間違いなくジーヴだろう。どうやって城に入ったのか知らないが、彼のことだ、きっと腕ずく力ずくに決まっている。どちらかというと、なぜ彼はここへ来たのか、そちらの方が強い疑問だ。人は助けないと、あれほど言っていたのに。

 錠前は未だしっかりとかかっている。開けてから行ってくれたらよかったのに、と都合のいいことを考えてみた。

 遠くから、パン、パンという破裂音と、キンキンという剣戟けんげきの音が響いてくる。ジーヴはきっと素手で応戦しているのだろうなと思う。大陸中央の火山くらい気位の高いジーヴのことだから、人間から剣や銃を奪って使う、なんて真似はしないはず。いくら竜だからって、あんまりそれは無茶だ。

 竜の鱗は刃物でも銃弾でもびくともしないが、人型になった場合はどうなんだろう。もし、ジーヴが八つ裂きにされていたら。蜂の巣になっていたら。彼が死ぬようなことがあったら、それは全部、あたしのせいだ。

 交戦の音が徐々に近づいてくる。騒乱の響きや靴音はだんだんと減っていき、やがてやむ。そして、ひとつの足音だけがこちらに向かってくる。

 あたしの緊張がぶり返す。もしもジーヴ以外だったら。その時は、体を汚される前に、舌を噛みきって自分で死のう。

 心臓がどきどきと大きく速く脈打つ。コツ、コツという音が、悠々と近づいてくる。祈るような気持ちでそれを聞いている。

 あたしは、舌を思いきり噛みちぎる用意をする。


「小娘、無事か」


 そして果たして、目の前に現れたのは他ならぬジーヴだった。

 服は切れても穴が空いてもいない。本人も至って普通の様子で、息ひとつ、声色ひとつの乱れもない。あまりにも平然とした登場に、かえってあたしは拍子抜けした。


「……これが無事に見えるのか」

「命あればこそ、そこに希望は生まれる。口が利けるなら大事ないようだな、とにかく脱出するぞ」

「逃げたいけど、鍵がかかってるんだって」

「ふむ、そうか」


 何でもなさそうな口調。竜の御仁は柵をしっかと握り、力をこめる。それだけで、あたしの腕ではぴくりともしなかった金属の棒が、やすやすとたわんで抜け道を作った。

 次元の違いに、呆れ果てるしかなかった。


「どうした。立てるか?」


 ジーヴが牢のなかに入ってくる。明かり取りからの逆光が途絶えて初めて、彼の額に傷があることに気づいた。深くはなさそうだが、かなり広範囲にわたっているため、それなりの出血量だ。顔の三分の一ほどが赤黒く染まっている。

 おでこへ手を差し伸べ、怪我してるじゃないか、と呟くと、ジーヴはからからと快笑した。


「なあにこれしき、かすり傷よ」

「どこが。……どうせまた腕力に頼ったんでしょ」

「何を言う。今回は頭を使ったぞ。城壁に頭から突っ込んでぶち破ったのだ。心配は要らん、何せ俺は石頭だからな」

「……"頭を使う"の意味が違うから」


 本当に滅茶苦茶だなと思う。ただ、あたしはその滅茶苦茶に救われたのだ。今回は心の底から、ジーヴに感謝しないといけないだろう。

 隻眼を見つめながら、あたしは疑問をぶつける。


「どうして助けに来たの、ジーヴ」

「勘違いをしてもらっては困る。俺はお前を助けに来たのではない。俺の非常食を取り返しにきたのだ。ああそれと、この怪我でお前が気に病むのもお門違いだぞ。俺は俺のしたいようにしているだけだからな」


 どこか朗らかに言い募り、ジーヴはくっくっくと笑う。少しくらい恩着せがましくしろよ、調子狂うな、と内心で八つ当たりする。でも胸がつっかえて言葉にならない。目頭が熱くなる。


「……あんたって、本当に馬鹿だな」

「馬鹿ではないぞ、竜だ」

「知ってるから……」

「? おい小娘、目から水が流れているぞ。どうしたんだ」

「うるさい黙れ見るな」

 

 不躾な竜に背を向け、袖口でぐしぐしと涙を拭く。本当に馬鹿だ。本当に、あたしは馬鹿だ。

 そうこうしているうち、遠くでばらばらという足音がした。人の怒声もする。どうやら騎士団の第二陣が到着したようだ。油を売っている場合じゃない、さっさと脱出しなければ。


「行こう、ジーヴ」

「先刻からそう言っているだろう」



 城の廊下、立派な絨毯の上に、ジーヴにのされた騎士たちが累々と横たわっていた。皆息はある。あんたたち、竜が無用な殺生を嫌う生き物でよかったな、と毒づきながら城を走り抜ける。

 追っ手はどこから湧いて出たのかと思うほど数が多かった。人数がいると面倒だな、火でも吹けたら好都合なんだが、と銃弾を防ぐためにあたしの後ろを走るジーヴが、本気か冗談か知れぬ言葉を紡ぐ。

 後ろから飛ぶ指示に従って足を動かすうち、嫌な予感が胸を覆いはじめた。もしかしなくても、城の上部へ追いつめられている気がする。上階にはもちろん出口はない。行き止まりになったら、そこでお仕舞いだ。

 あたしの息が上がってくる。ここまで来て、袋の鼠になって最期を迎えるなんてごめんだ。

 終焉は割とすぐに来た。

 右、とジーヴに言われて曲がった先は、正面に青系のステンドグラスが嵌められた袋小路だったのだ。焦りで顔から汗が噴き出す。


「ジーヴ! 行き止まりだぞ!」

「そのまま進め」


 泰然とした声が返ってくる。そのままってなんだ、進めってなんだ、行き止まりってことはもう進めないんだぞ馬鹿言うな、と振り返って抗議しようとした、その刹那。

 ジーヴの逞しい腕が後方から伸び、がっしりとあたしを抱えあげた。

 急に訪れたふわっとした感覚に脳が混乱する。地面を失い手持ち無沙汰になった足が、中空をかいた。

 陽の光を受けて美しくきらめくステンドグラスが、急速に近づく。もう目前だ。


「え、待ってジーヴ、ぶつかる……!」


 ジーヴは当然、待たなかった。

 そのままの勢いで、あたしたちはガラスをぶち破った。幅広の肩をぶつける直前に、ジーヴは長い黒衣であたしの体を庇う。ガラスが粉々に砕け、破片はきらきらと周りを彩り、舞う。まるで細かい氷の粒みたいに。

 そして、足の下には何もない。

 丘の上にある城の、ほとんど最上階から飛び出したのだ。景色がミニチュアに見えるほどの途方もない高さだ。ここから地面に叩きつけられたら、命がないどころかぺしゃんこだ。

 勢いを失い、重力方向へと、あたしたちの体が落下を始める。

 内蔵が浮かびあがるような不快な感覚。生来体に備わった恐怖心が、このままでは死ぬ、と雄叫びをあげる。うわあああ、と知らずあたしは叫び、力一杯目を瞑る。

 永遠にも等しい数秒。

 体が、ふっと軽くなった。怖々と薄く目を開く。景色がものすごい速度で後ろに流れている。あたしは、竜型へと変じたジーヴに抱えられ、とてつもなく広い空間のど真ん中を飛翔していた。

 そう、まるで、自分が飛んでいるみたいだった。

 騎士たちの魔の手などもう届くはずもない。

 翼を力強く羽ばたかせ、ジーヴはぐんぐん加速していく。彼の背には何度となく乗っているけれど、そうすると景色の六割ほどは竜の体で隠れてしまう。ところが今はどうだろう。

 地平線のその向こうまで、眼下に遙々と展開する大パノラマ。

 あのかわいらしい街並みも、あの豊かな草原も、陽の光にきらめく川辺も、遠くに青々と立ち並ぶ山だって、この光景すべてが自分のものだと感じた。だってこんなにも手が届きそうなのだ。

 耳元で風が唸り、歌う。目が潤むのは、冷たい空気がぶつかるからではない。これがいつもジーヴの見ている景色。なんて壮麗な、なんて美しい、なんて雄大な、圧巻の情景。あたしは今、彼をとても羨ましく思う。


「すごい、すごいすごい!」


 太く力強い腕のなかで、あたしは子供にかえったようにはしゃいだ。どうせジーヴ以外聞いてもいない。あたしの歓声に応えてか、堂々たる黒竜が、雄々しい空の王が、雷鳴のような咆哮を轟かせる。

 あたしにはそれが、彼の笑い声だということが、なぜだかはっきりと分かった。

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