零章 苦しいときの竜頼み
街のすべてが燃えている。
あたしが生まれ育った家も、兄とよく追いかけっこをして遊んだ市場も、尖塔を持つ協会も、立派な図書館も、嫌な臭いの煙を苦しげに吐き出しながら、揺らめき燃え広がる炎に舐めつくされようとしている。そこかしこで上がる火柱が赤々と惨状を照らし出す。熱風があたしの目を、頬を、喉を焼く。
とにかく、街から出なければ、とあたしは駆けた。
火は圧倒的な暴力だ。不定形の悪魔だ。
火は、あらゆるものを灰に変える。そこに慈悲はない。あるいは、灰という同一のものに還ること、それはある種の救いなのかもしれない。
なぜこんな事態になったのか、分からなかった。頭は混乱してぐちゃぐちゃだ。心はまだ、これが夢であることを信じたがっていた。この悪夢を抜ければ、優しく笑う兄との日々が、元通りになって戻ってくるのだと。
しかし、左の肩の激痛が、目の前の煉獄は紛れもない現実なのだと、あたしに突きつけてくる。
"彼ら"はどっとやって来た。報せもなく、前兆もなく。
幾度となく繰り返された、どこにでもある穏やかな晩。鍋のスープが芳しい匂いを立てる。兄はまだ図書館から帰らず、家は静かだった。
唐突に、ものすごい数の馬の足音が
なんだろう、と顔から血の気が引き、心臓が早鐘を打つ。あたしは息を潜めて、事の沈静化を待った。明日新聞の一面に、何らかの事件がでかでかと載るかもしれない。被害者が知り合いだったらどうしよう――。
だがその想像は悠長にすぎた。一息もつかないうちにドアが乱暴に蹴破られ、銀色の甲冑を着た人間たちが無遠慮にどかどかと入り込んできた。あたしは唖然として、反応できずに硬直する。
頭部を丸ごと覆う兜、胸に羽ペンの紋章が刻まれた鎧。鈍く輝く甲冑が一体、二体、三体。全員の手には銃剣が握られ、刃先は漏れなく赤黒い液体でぬらぬらとてかっていた。
「何者だ」
震える声で
「やめろ……っ」
あたしは後先考えずその腕に取りついた。兜の隙間から、ぎょろついた双眸が覗いて、ぞっとする。紛れもない人間の目だ。甲冑が勝手に動いて凶行に及んでいるわけでもなく、この内部にいるのは、確かに生身の人間なのだ。
あたしは蚊を払うような仕草で簡単に振り落とされ、床に突き飛ばされる。
甲冑を着た何者かは、躊躇なく火を放つと、すぐに踵を返した。
あっと思う間もなく、空間が炎で包まれた。容赦ない熱を感じながら、生命の危険をひりひりと知覚しながら、あたしは呆然としていた。逃げなきゃ、と思うのに、体が動かなかった。
炎と煙があたしの生まれ育った家を蹂躙する。くらくらした。吐き気がした。この世の理不尽に神を呪った。涙すら出てこなかった。
身動きできないまま、どれくらいの時間が経っただろう。ああ、自分はここで訳も分からずに死ぬんだ、と思ったとき、すさまじい轟音を立てて家の二階部分が崩れてきた。
めちゃくちゃな衝撃であたしは揉みくちゃにされ、瞬間的に気を失ったのかもしれないが、例えようもない左腕の痛みで脳が覚醒し、思わず絶叫を上げた。
激痛で滲む目で左を見れば、あたしの腕は重たい書籍が詰まった本棚で押し潰されていた。見るからに手の施しようがなかった。死ぬにしてもこんな痛いのはごめんだった。
霞む視界の隅で、何かがきらりと光る。痛さで白熱し明滅する思考に鞭打ち、目を凝らす。二階に置いていたはずの、山に入る時に持っていくナイフが、物質化した天啓みたいにそこに突き刺さっていた。
右手を伸ばすとナイフに届いた。あたしは、よく手に馴染むそれをできる限り振り上げ、機能しなくなった自分の左腕の根元に、ためらいなく突き立てた。
火の手を避け、風上に逃れる。
街から続く丘の上まで来て、あたしは災禍の全容を目の当たりにした。空恐ろしいまでの輝きの中で、街は黒い影絵と化していた。目まぐるしく形を変える赤い魔物が天を焼き、雲底をおぞましい色に染めている。街のある方から――あった方から、誰かの泣き叫ぶ声が耳に届く。
何もかもが遠く思えた。
あたしはどうして、こんなところまで逃げてきたのだろう。たった一人で。どうせ助からないのに。
あるべき腕のない、左腕の跡地を残りの右手で押さえる。傷口からは血が流れ続けていて、絶望的なほどに
まばらに木が生えた木立へふらふらと歩み入る。林と呼べるほどに木々が密になったところで、あたしは力尽き倒れ込んだ。もはや痛みによって、痛いという感覚が麻痺してきていた。
腹の奥から、弱々しい笑いがこみ上げてくる。あたしが、あたしたちが、何をしたっていうんだ。こんな不合理が、不条理が、許されていいもんか。自分の命がここで潰えるのなら、誰でもいい、あたしたちの街を焼いた奴らを、許さないでいてほしい。
上着のポケットの中に手をやる。いつでもそこにある、兄と交わしたおまじないの具現。その輪郭を指でなぞると、血まみれの手へと兄の無事が伝わってくる。兄はどこかで、生きている。そのことに希望を託そう。
すう、と意識が細くなる。意識が自分の体を離れ、遠ざかるのを感じた。まるで空へ浮かんでいくように。
これが死なのか。人って死ぬとき、本当に天に昇るんだ。
――兄さん。
薄れてゆく意識の中で、その名だけが一条の
やがてそれも、闇に飲まれて消えた。
頬に熱い風を感じ、目を開ける。
どのくらい気絶していたのだろうか。
意識が戻った途端、左腕の痛みでまた気を失いそうになる。ああ、生きている。この痛みこそが生だ。
ここまで炎が迫ってきたのか、と思ったけれど、熱風の原因は火ではなかった。眼前、手を伸ばせば
頭から伸びる太く長い首。巨体を支える強靭な四肢。上に百人は乗れそうな、広々とした翼。そのいずれもが、鈍くきらめく黒い鱗に覆われている。わずかに開いた口元から、あたしの掌より長く、比類ない殺傷力を持った牙が覗く。
空を我が物顔で悠々と飛び回る竜の姿は、そりゃ何度となく見ているけれど、こんなに近くでまじまじと竜を眺めるのは初めてだった。そしてこれが、最初で最後になることは疑いようがなかった。
竜が人を襲ったという話は聞いた記憶がないが、この竜はどうやら腹を空かせているようだった。瀕死の状態のあたしは格好の獲物というほかなく、抵抗する意志さえ自分の中から消えていた。
あたしは不思議と安らぎを覚えた。恐怖は感じなかった。死んでしまえば、もうこの地獄を味わわなくてすむのだ。どうか一思いに食ってくれ、と願った。凪の海面と同じくらいしんと穏やかな心持ちで、竜の顔を見つめた。
驚くほど澄んだ青い瞳が、こちらをじっと見返していた。海水を凝縮したらこんな色になるのではないか、とぼんやり考える。そこには知性が宿っていた。こんなときなのに、綺麗だなと思った。しかし青いのは左目だけで、右目の虹彩と瞳孔が白く濁ってしまっているのに気がついた。
失明している。
隻眼の竜と、隻腕のあたし。片方を失った者。なんだか、このままここで終わらせるには、勿体ない取り合わせではないだろうか。何故だか不意に、暗闇で小さなロウソクを灯すみたいに、そんな考えがぽっと心に生まれた。
「なあ……あんた、片目が見えてないんだろ」
声を振り絞る。竜の研究をしている兄から、竜は人語を解するのだと聞いたことがある。呼びかけると、竜はぴったりと口を閉じ、ぐるる、と遠雷に似たうなり声を発した。それが驚きなのか怒りなのか蔑みの意味なのか、竜に詳しくないあたしには分からない。
もうどうにでもなれ、何があってもあとは死ぬだけだ、という捨て鉢の心情で、言葉を続ける。
「隻眼じゃ竜でも獲物をとれないんだな。あたしみたいな、弱った生き物しか――。あんた、腹が減ってるように見える。ひとつ提案があるんだけどさ、あたしたち、お互いに埋め合わせができるんじゃないかって思うんだ。あんた、あたしに」
手を貸してくれないか、とあたしは竜に持ちかけた。
あたしの頭蓋くらいある目が、わずかに見開かれたようにも思えたが、ただの気のせいだったかもしれない。
とにもかくにも、隻眼の竜は竜の姿を解いた。
一陣の
「竜は人助けはしない」
重々しい口調で、竜は簡潔に答えた。
やっぱり駄目か、と落胆する。でも、人の姿になったということは、少なくともこちらの話を聞くつもりはあるんじゃないだろうか。
あたしはひとつひとつ言葉を選ぶ。
「なら――一方的に手を貸せとは言わない。あたしがあんたの右目になる代わりに、あんたはあたしの左腕になる。等価交換ってわけ。それでどう」
竜の男は瞑目する。しばらく思案する様子を見せる。開眼ののち、口元に不敵で獰猛な笑みが浮かんだ。
「人間が竜である俺に取引を打診するか。なかなか肝の据わった小娘だ。面白い」
「……なら」
「――よかろう。その契約、受けてやろう」
「……良かった」
張りつめていたものがどっと緩む。精神が弛緩してから、自分が緊張していたのが分かる。全身から力が抜け、安堵と引き換えに、体の自由を失う。もう指先ひとつ、動かせそうになかった。
「おい、取引を交わした途端に死ぬつもりか」
ため息とともに呆れ声を吐き出しながら、竜がしゃがんであたしを抱き起こす。
「まずその血をどうにかしないと死ぬぞ」
「分かってる……」
「分かっているだけではどうにもならんのだ、痴れ者が」
厳しい語調に反し、竜は迷うことなく自分の上質な衣服を尖った歯で引き裂いた。細割きにした布を手際よくあたしの傷口に巻きだす。あたしは意外に思いながら、彼の動作をただ眺めていた。
「これで助からなかったら、生きようとするお前の意志が薄弱だった、ということになるのだからな」
「……あたしはお前じゃない、アイシャ。あんたの名前は」
釘を指す男の言葉。それには答えず、無愛想に問う。
無知な奴はこれだから困る、と言わんばかりに、竜があからさまにふんと鼻を鳴らす。
「人の名など覚えるに足りん。それに、竜の名は人間には発音できんのだ。お前の好きに呼ぶがいい」
「それなら、ジーヴと……そう呼ぶよ」
呟いたあと、ジーヴと呼ぶことに決めた契約相手の逞しい腕の中で、あたしは気絶に近いまどろみに落ちていった。
阿鼻叫喚の夜の後でも、変わらず夜明けは来た。
朝日はいつものように真新しく、徐々に白んでいく空は清々しく、すべてはまっさらだった。けれど風には焦げ臭さの名残が混じり、変わり果てた街は覚めることのない悪夢として、そこに沈黙していた。
傷の痛みに歯を食いしばって耐えつつ、どこが何かも分からなくなった街を歩く。残念ながら、街には生存者はいないようだった。
兄はどこに行ったのだろう。
街の中で、ひときわ炭化度がひどい場所を見つける。そこだけは、何が存在していたのか明白だった。
図書館だ。広大な床面積を誇っていた図書館は、骨組みを残して見るも無惨に跡形も無くなっていた。本の一冊すら残すまい、という邪悪な執念が伝わってくるほどだった。
この街には昔から、
炭になった何かの上に腰を降ろす。海から吹いてくる潮風が、つんと鼻を刺した。
街は海から切り立つ崖の上にあって、少し内陸に入ると豊かな森が広がっている。さらに奥には、皿に似た地形のくぼんだ草原が広がっており、黒い鱗を持つ竜たちがうようよしていた。ジーヴもそこから出てきたのだろう。研究の対象には事欠かない立地だった。
訳も分からないまま亡くなっていった人たち。彼らのことを考えると、胸が締め付けられる。どんなに無念だっただろう。どんなに苦しかっただろう。とめどなく涙があふれてきたけれど、自分が今泣いていても何の意味もない、と目元をぐいと拭って立ち上がる。
歩きながら、兜の隙間から覗いた双眸を思い出す。あれは、確かに魂の宿った人間の目だった。自分と同じ人間が、こんな
二、三日は廃墟と化した街の脱け殻に留まっていたが、兄はもう近くにいないのでは、という予想は次第に確信に変わっていった。あたしはある決心をした。
森の合間で、罠にかかっていた兎を見つける。それをジーヴに手渡すとき、話を切り出すことにした。
「ジーヴ。あたしは旅に出ようと思う。兄さんが行方不明なんだ。兄さんを捜したい」
兎を受け取ったままの格好で、ジーヴは一度、ゆっくりと瞼をしばたかせる。
「ふむ。で?」
「あんたにも着いてきてほしい」
一笑に付されることを覚悟の上で、あたしは単刀直入に言い放った。
予想と異なり、ジーヴはくすりとも笑わなかった。あたしの目を、ひとつだけ残った青が鋭く射抜く。
「なぜ人間のお前に、竜である俺が協力せねばならんのだ――と言いたいところだが、実をいうと俺も捜したい者がいる」
「え……そうなの」
「俺の一族は、お前の街が焼かれたのと同じ夜に滅んだ」
「は?」
脈絡も突拍子もない言葉が返ってきて混乱する。
滅んだ? 頑強な体と、長大な寿命を持つ竜が? そんなことがあり得るのだろうか。
ジーヴが、鋭い爪の生えた指で森の奥を示す。
「この向こうの平原に、黒竜が住んでいたのは知っているだろう。俺はその黒竜の部族の
語り口はあくまで静かだ。しかし、ジーヴの左目の中には、激情としての青白い炎が燃え盛って見えた。
竜は、この大陸で一番の
「街が焼かれたのと同じ夜に……無関係とは思えないけど」
「俺もそう考えている。だが推論の材料が何もない。今は何とも言えん」
「――それにしても、竜が殺されるなんて……信じられない。本当に、黒竜はあんたしか生きていないのか」
「竜は嘘をつかない。人間と違ってな」
「……それじゃ、捜したいのって、その犯人なの」
黒竜の集落にそっと侵入した何者か。
それが人間なのか、同胞たる竜なのか、はたまた別の生き物なのか、それは分からない。しかし、その凶悪な姿を明るみに
けれど、ジーヴはかぶりを振ってあっさりと否定した。
「そんな者を探してどうする。見つけて腹にでも収めるか? そんなことをしても、死んだ者は還らない。竜の中に、人間が持つような憎しみという感情はない。竜は常に、前方だけを見据えている」
「じゃあ、誰を」
「黒竜の一族の生き残りだ。探せば大陸には別の黒竜の集落があるかもしれん。俺は同族を見つけたい。そして俺は、我が一族を復興させる」
迷いの一切ない口調で、ジーヴが言いきった。あたしは彼の、まっすぐな視線に圧倒された。
一族の仲間と、自身の右目。全てを失ってなお、その碧眼は強く輝いていた。
ジーヴが持っていた兎をそこらに放って、仁王立ちする。
「取引の内容を変更しよう。お前は俺の右目となり、俺はお前の左腕となった。そしてこれから、お前は兄を捜すため、俺は同族を捜すための、いつ終わるか知れない遠路へ旅立つ」
あたしはジーヴに気圧されないよう見つめ返し、深くうなずく。
「着いてきてくれる」
「逆だ。俺がお前に着いていくのではない。お前が俺に、着いてくるのだ」
「どっちでもいい。いつまでになるか分からないけど、これからよろしく。ジーヴ」
「せいぜい俺の足手まといにならんよう励めよ、小娘」
傲岸不遜な竜の男は、胸を反らして高らかに旅路の始まりを宣言した。
あたしは無論、彼に手を差し出すなんて愚行はしなかった。無駄なことだと分かっていたから。
これ以上失うものなど何もない。澄みきった空に陽はきらめき、あたしたちの行く手を照らしていた。
それがあたしとジーヴの、旅の始まりだった。
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