第4話
殺し屋の提案で、彼らは八番街のバーに入った。午後の四時ごろだ。そこの客や店員に聞き込みをするらしい。運転手は半信半疑ながらも、他に良いアイディアもなく、とりあえず言われるままにした。
店内に入ると、突然、昼から夜へ世界が変わったような錯覚に襲われた。天井からの照明は弱く、部屋全体をぼんやりと浮き上がらせるのみ。部分的に、フロアスタンドが置かれ、ぽつんと暖色系の明かりを放って、壁に掛けられた絵を照らし出していた。そういった光が、まばらに集まった客たちの姿に陰影を作り、一人一人をミステリアスに映している。殺し屋は、ちょっと聞いてくるから座ってろよ、と言い、カウンターへ向かった。
運転手は適当な席に着き、店内を見渡した。ぽつぽつと席を埋める客たち。まだ早い時間なのにな、と頭で言葉にしながら、この町の変わりように、僅かに心を痛めた。昔は、こんな手の込んだ雰囲気のあるバーなんてなかったし、この時間にバーに屯すのは、失業者か、隠れてひっそりと仕事をするギャングくらいだった。今はヘルズ・キッチンのギャングは皆、消えてしまった。しかし、ギャングが水面下で幅を利かせていたあの頃は、食人鬼が少女を喰らうなんてことは、なかった。
「何人かに聞いたけど、近所の腐敗臭に悩んでるってやつはいないな、今のところ」
背後からの声にはっとし、振り返ると殺し屋がいた。おどかすなよ、と言うと、殺し屋は笑った。
「でも、ここは情報が集まりそうだ。この時間から夜中過ぎまで、人の出入りが絶えないらしいから、いろんな奴に話が聞ける」
それから彼は口の右端を吊り上げ、こう付け加えた。「ゲイの客も多いらしいし」
それから、二人は適当に酒を飲み、新しく客が入ってくると、ナンパする振りをして聞き込みを行った。運転手が女から、ゲイだという殺し屋が男から聞いた。二人がバーから切り上げたのは、夜中の一時過ぎだった。ビックに乗り込むと、運転手の案内で近場のホテルへ向かった。個室は一泊70ドル、相部屋なら40ドルの格安の宿だ。
「相部屋はまずいな、内緒話ができなくなる」
殺し屋はそう笑ってから、後で返せよ、言い、フロントで金を払った。
指定された部屋に入り、電気をつけると、頭上から昼白色の眩しい光が降ってきた。小ぢんまりとした室内、それに壁やカーペットの染みが照らし出される。置かれるもののほとんどがくすんだ白色か、色落ちした薄い茶色をしていた。淡白な光の色合いも相俟って、何とも味気ない印象だった。しかし、一応整理は行き届いているようだし、染みだらけであっても、不清潔なわけではなさそうだった。
「まあ、70ドルじゃ、いい方だな」殺し屋はそう言い、ソファに腰掛けた。
その後、二人は簡単に明日以降の段取りを決めた。昼間は前日の聞き込みを元に町を歩き、夕方頃から再びあのバーで聞き込みを行う。毎日繰り返せば、ホシに辿り着くだろう、という楽観的な見方を、殺し屋はしていた。
話し終えると、彼らは床についた。運転手がソファ、殺し屋がベッド。明日は逆にすることにした。
運転手はソファに体を横たえ、天井を仰ぎ、特に何を考える訳でもなく心を泳がせていた。すると、ふと、その心に異物感が生まれた。いや、心が泳いでいるうちに、しこりみたいなものに行き当たったような感じだ。昔から、ずっとあった、しこり。そのまま暗い穴のような天井を見ていたが、しばし置いて、
「なあ」殺し屋に呼びかけてみた。
「なんだ?」
すぐに返事があり、まだ彼も眠っていなかったのだと分かった。少し安心し、運転手は続けた。
「オレもちょっと話したいんだ。聞いてくれるか?」
「ああ」
運転手は、ふうと息を吐くと、語り始めた。
「オレはお前みたいに人を殺したことはない。でも、殺したいと思ってた奴はいる。親父だ。本当に屑だったよ。下衆野郎だった。あいつは――」
彼は一度言葉を切り、視線を暗闇に彷徨わせた。
「――妹をレイプしてた。まだ小学校の低学年くらいの頃から、ずっと。まだ小さかったからな、妹は痛い痛いって泣き叫ぶんだけど、奴は止めなかった。今思うとな、痛がる妹を見て興奮してたんだよ。変態野郎……」
そこで運転手は声に詰まった。次に出そうとした言葉が重く、喉元につっかかったのだ。彼は一度、ごくりと息を呑みこみ、小さく意を決すると言った。
「オレは、ただ、それを聞いてた。つまり――妹が泣いてるのを、ただ、自分の部屋で、聞いてるだけだった。やめさせたかったけど――ガキだったから、ガキだったから、何もできなかった。いつか殺してやろうと思ってたし、妹にもそう言った。いつか奴を殺してやるから、安心しろって。でも、そのいつかは来なかった。オレが次殺そう、今度殺そうって思ってるうちに、あいつは勝手に車に轢かれて、死にやがった」
運転手は息を吐き、誰に言うでもなく、くそ野郎、と呟いた。
「殺せなかったことは悔しかった。汚いと、卑怯だと、思った。けど、一番あの男のことで嫌だったのは……」
再び声が詰まった。言葉にしようと思ったことが、彼にはあまりにも残酷だった。声に出すことが、怖かった。しかし、
「――オレにもあの男の血が流れてるってことだ」
言ってしまうと、運転手は自分の胸に刺さっていた、鋭く大きな刃が抜かれるような感覚を覚えた。奇妙な解放感が生まれた。しかし、同時に傷つきもした。だらだらと心から血が流れ出した。彼は、もう寝る、と言い、目を瞑った。ああ、と言う殺し屋の声が遠くから聞こえた。
目を閉じながらも、運転手の頭の中では様々なことが巡っていた。ロリコンの父親、レイプされた幼い妹、たかが成績のために体を売り人を殺したベッドの男、少女を喰らう食人鬼、欺瞞に満ちた世の中、ミルウォーキーの食人鬼、モーテルで会った少女――その驚くほど華奢な体、押し倒した時の小ささ、寄り添ってきた時の花の茎みたいなしなやかさ――モーテルで殺された男、そして、「普通」の人間を模った皮、その下の異様な怪物。それに思い当たった時、彼の背に、再び悪寒が走った。やはり、人間は皆、怪物なのかもしれない。必死に「普通」を装っただけの。彼自身――彼の父親と同じ、少女への性的嗜好を持った怪物なのかもしれない。死体の写真を撮ることを趣味とするサイコな殺し屋と同じ、死体を犯してその肉を喰ったダーマーと同じ、そして、彼の妹を殺した犯人と同じ。
次々に浮かぶ多様な異常性に研がれるように、運転手の頭の中で神経が鋭利になっていった。体はくたくたなのに、神経の方はギンギンに目覚めているのだ。眠ろうとしても瞼の裏でいろんなものが見えてくる。どうにもならない。仕方なく、彼は思い出に心を馳せることにした。その方が異常者ばかり脳裏に浮かぶより、ずっと良かった。
思い描いたのは、妹のことだ。
父親にレイプされた後、彼女はよく、彼のベッドへ入ってきた。何も言わず、ただ、下の方から布団の中に潜り込み、その身を縮めていた。彼は足元にもぞもぞとした気配を感じると、黙って体を端にずらした。そうすると、やはり無言のまま、妹の体はちょっとずつ上がってきて、気が付くと布団から顔を出していた。彼は妹を安心させようと思って、頭を撫でてやった。その時触れた、柔らかい髪の感触は、今でも手に残っている。まるで傷みたいに。彼女がベッドへ潜り込む度に、彼はそうやって髪を撫でていて、その、糸みたいに細いのにみずみずしくてしなやかな感じは、しっかりと彼の掌に刻み込まれていったのだ。彼はそれが、その感触が、いつしか消えるのが恐ろしかったが、同時に、消えないのも辛かった。
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