第3話
翌朝、運転手は頭をはたかれて目を覚ました。
「早く起きろ、行くぞ」
殺し屋だった。
運転手は体を起こすと、頭蓋骨の中で脳味噌がぐわんと揺れるような感覚を覚えた。ぼうっとしたまま、彼は周囲に視線を巡らした。
「あのガキならもういない。今朝、部屋から出てくの見た」
ふうん、と言いながら運転手は無意識に尻ポケットの辺りを探った。煙草はあるが――
「財布がない」
殺し屋は、はあと溜息をつき、「取られたんだろ?」と言って、すたすたとドアへ歩き始めた。それを追おうと、脇のサイドテーブルから銃を取り、ゆっくり立ち上がると、思いがけず、運転手は腹の底に重みを感じた。名残惜しさとも言うべき、静かなにがさだ。それが四肢まで広がり、染み通って来――彼は顔を顰めながら後に続いた。
二人で車に乗り込むと、ビックは亀裂が入ってがたがたになった道路を進んだ。三時間ほど走り、ハドソン川を渡ると、そこはもうヘルズ・キッチンだ。
「ようこそ、地獄の台所へ」
運転手がフロントガラスを見つめながら言った。
「台所なら、さぞうまい飯があるんだろうな」
横からの声に、運転手はカラリと笑った。
「あるさ、9番アヴェニューは、もうレストランアヴェニューだな。メキシコにタイにギリシャ、いろんな国の料理が食える」
「そりゃ良かった。タイのカレーが食いたいな。辛いものが好きなんだ」
それを聞くと――ふと、運転手は小さな引っ掛かりを覚えた。へえ、と口から零しながら、本能的な部分で拒絶を感じ、全身の毛が逆立つみたいになった。瞬時に、彼はそのささやかな違和感から目を逸らし、前方の道路に意識を集中させた。
ビックが9番アヴェニューに入ると、殺し屋は顔を窓の外に向けた。タイ料理屋を探しているのだろうか? その考えが浮かぶと、やはり背筋を冷たい蛆虫が這い上るような悪寒に襲われた。三年ほどこの殺し屋の運転手をしてきたが、彼を――このサイコ野郎のことを、人と思ったことはなかった。彼は、初めてその事実に気付いていた。そして、こいつが、自分と同じ、平凡などこにでもいる人間なのだと認めるのは、どこか怖かった。
殺し屋の望み通り、彼らはタイ料理店を見つけて、入った。店内にはまだ客は一人もいなかったが、そのいかにもというエスニック風の装飾と、ランプ灯りの薄暗く幻想的な雰囲気のおかげで、がらんとした印象ではない。入り口で突っ立っていると、そのうち東洋系の顔立ち男――おそらくタイ人なのだろう――が近寄ってきて、彼らを席へ案内した。
「何にする?」
運転手が聞くと、殺し屋はすぐに「オレはグリーンカレーだな、一番うまい」
「オレはカレーなんか食ったことねえや。別のにするかな。他にうまいのは何だ?」
「さあ、ドランクンヌードルとかかな、有名だし」
殺し屋の言う通り、運転手はドランクンヌードルを頼んだ。
注文し終えると、殺し屋は一度席を立ち、別のテーブルにあるマガジンラックからタブロイド紙を手に取って戻ってきた。運転手と目が合うと、「情報収集しないとな」と言って、視線を落とし、ページを捲り始めた。
「そんなので収集できんのかよ?」
「『メン・イン・ブラック』でも一番の情報収集源はタブロイド紙だぜ。それに、どっちかっていうと被害者はマイノリティが多いみたいだし、あんまり警察は動いてなさそうだ。こういうゴシップ性の強い情報誌の方が、いろいろ載ってるだろ」殺し屋は口の右端を、にっ、と吊り上げて返してきた。
映画なんか見るんだな。
そんな言葉が運転手の喉に上がってきた。が、それが口から出そうになると、彼は、またあの違和感を、続けて拒絶を、感じた。体にぞわりと鳥肌が立っていく。今までは全く気にならなかったのに、一度意識に留まると、やたらと殺し屋の口から出る人間臭さが肚に沁みた。
彼は、ああそうか、と適当に応えると、メニューに目を向け、時間をやり過ごすことにした。
料理が運ばれてくると、二人は黙々と食べた。運転手は、甘辛いソースが絡んだライス麺を箸で大量に掬って頬張り、入りきらない分は途中で噛み切るようにして食べていた。そして、偶にそっと視線を上げて、殺し屋の様子を伺った。
殺し屋の食べ方は、運転手とは対照的だった。運転手には、グリーンカレーとやらの正しい食べ方は分からないが、それでも、ライスに少しずつカレースープをかける様子も、丸く模られたライスの端をそぎ取って、口へ運ぶやり方も、彼の目には妙に行儀よく映った。お上品なことだな、と考えながら、ふと、頭の隅でこんなことも思った。
オレが見ていたこの男は、いつもこんな風だったんだ。
そうだった。彼は三年間、ずっと、この柔らかい身ごなしの隣にいた。そして、それこそ、彼にこの男を恐ろしいモンスターだと思わせている要因だった。何をやってもお手本のように綺麗にこなす様子は、どこか非人間的だったのだ。温和な話し方や立ち振る舞いや容姿が、作り物のように、まるで……「これが人間だ」というマニュアルを元に作られたビニール製の表皮のように感じられていた。その冷たい皮の下では、この世においてはあり得ない異様な生き物が舌なめずりしているように。しかし、今、彼の目の前でグリーンカレーを食べている男は、「型通り」の人間からはみ出している。化け物ではない、自分と同様の体温を持った人間が、そこにはいるのだ。そして、それは――ぐっと、自分が、彼自身が、逆に異様な生き物へ近づけられたようでもあった。このモンスターと自分は同類なのだ。いや、人間は皆、皮を被ったモンスターなのだ。そういう事実を突きつけられたみたいだった。
殺し屋は食べ終えると、再びタブロイド紙へ目を向けた。ペラペラと捲り、一つのページで手を止め、しばらく見つめると顔を上げた。
「あるよ、ヘルズ・キッチンの連続殺人事件……いや――」
彼は一度言葉を切り、息を吸い込むと、「読めよ」と言って雑誌を手渡した。運転手は無言で受け取り、視線を紙面へ落とした。
《地獄の台所に潜む食人鬼》
このところヘルズ・キッチンを震え上がらせている連続殺人事件。特徴的なのは、被害者の多くが若い女性だということだ。ホームレスシェルター住まいの二十四歳の女性から始まり、高校生や中学生も襲われている。また、路上売春婦が被害にあっている場合も多い。犯人が性的倒錯者である可能性は非常に高いだろう。
さらに、この事件において奇怪なのは、発見される被害者の遺体だ。必ず体のいくつかの部位が切断、持ち去られているのだ。腕や足はもちろん、乳房を切り取られたもの、腹部を切り開かれ内臓を取り除かれたもの、中には頭部を切断されたものもあった。捜査は内密として、警察は言葉を濁し続け、この事件の異常性については全く触れていない。それどころか、「普通」の事件として扱おうとしている。しかし、どう考えてもこれは普通などではない。まるで、ハンニバル・レクターが現実の世界に飛び出してきたようだ――
運転手はここまで読むと、顔を上げた。
「くだらないな」
「何がだ?」
運転手は溜息をついた。
「何の情報もないだろ? ただ『地獄の台所に食人鬼がいる』って書きたいだけだ」
「後半は賛成だが、前半は少し違うかな」そう言い殺し屋は口の右端を吊り上げた。
「バラバラにしてどっかに隠すんなら、話は分かる。でも、死体は現場に放ったらかして、部分的に持ち去ってるんだ。隠すためじゃないなら、側に置いとくためだ。それなら、周りはひどい臭いがするはずだろ? 人肉は腐りやすいらしいしな。だから、人に聞いてきゃ分かるかもしれない。臭いで気づかれないんだったら、全く人と接さずに、戸口を全部閉めきって生活してるとか、もともと臭いのきつい所に置いてるとか、そんなところだろ。とにかく探しやすくはなるさ」
言葉を切ると、殺し屋は席を立ち、そろそろ行こう、と言った。
二人は車に乗り込むと、9番アヴェニューを走った。殺し屋は、また窓の外に目を向けている。今度はエルトン・ジョンの曲を奏でだしたカーラジオの響きが、いやに耳に付いた。
「さっきのさ」沈黙が嫌で運転手は話し始めた。「食人鬼の話、もしそうだとしたら、犯人はゲイだな」
「なんでだ?」
運転手は小さく笑いを漏らしてから応えた。「レクター博士には何人かのモデルがいてな、その一人が、確か『ミルウォーキーの食人鬼』って言われてたダーマーとかいう奴だった。そいつは男が、しかも有色人種の男が好きだったらしくて、タイプの野郎を見つけると声かけて、部屋に連れ込んだ。それで、睡眠薬で眠らせてから殺して、死体とやって、それで、その肉を喰ってたらしい」
殺して、死体とやって、肉を喰った――自分の口から出た言葉が、数秒遅れで脳に染み入り、その輪郭がはっきりとなった。そうすると……突然、運転手は内臓を深く抉られるような痛みを感じた。殺された上に犯されて、喰われたんだ。
「なら、オレも容疑者の一人かもな」
殺し屋の声に、運転手は瞬間的に彼の方へ顔を向けた。すぐに前方の道路へ戻したが、その目は大きく開かれたままだ。
「どういうことだよ?」
殺し屋は小さく笑ってから言った。「オレもゲイだからな」
その返答は、すぐには運転手の感覚に馴染んでこなかった。パズルで誤ったピースをはめようとするみたいに。
「嘘だろ?」
「本当さ。有色人種が好みだから、お前を襲わなかったんだよ」
殺し屋は窓の外に目をやり、エルトン・ジョンもゲイだな、と付け加えた。
それから再び沈黙が訪れた。空気が硬く、重く、運転手の声を詰まらせる。仕方なしに、彼は無言でフロントガラスを見つめ、ハンドルを操作していた。だが、やはり気まずい雰囲気は苦手だ。一度息を吐き次に大きく吸って意を固めると、言った。
「気ぃ悪くしたか?」
「何が?」すぐに殺し屋は視線を運転手へ向けた。けろりとした言い方に、やや肩透かしを食らったようになった。
「いや、さっきゲイのことネタにしようとしたからな。女の子殺してるとこ見ると、犯人はゲイじゃないだろうし」
「別に平気さ。むしろ言えてすっきりしたよ。隠してたわけじゃないけど、言わないと隠してる気になるからな」
殺し屋は息をついて俯いた。数秒そうしてから、再び顔を上げ、
「もう少し、オレのこと話すよ。勝手にしゃべってるから、とりあえず聞いててくれよ」
意外な言葉に、運転手の頭の隅に細く緊張の糸が伸びていった。ゆったりと寛いだ体が、やや強張る。一度息を呑んでから、頷いた。
「オレが初めて人を殺したのは一七歳の時だった。英語の教師だ。そいつは気取った嫌な奴でな、なんて言うか、自分の鍛えた体とか、センスが良くて高級なスーツとか、そういうのを見せびらかして、他人よりも優位に立とうとするタイプの若い教師だった。相手を見下すことでしかアイデンティティーを確認できないんだよな、きっと。当然オレのことも見下したがってた。でもオレは完璧な模範生だったからな、成績は全部上位クラスのAプラスで、大学の授業も受けてたし、クラブも、バスケ部でずっとエース争いしてた。たぶん、その頃は学校のどこ探しても、オレより優秀な生徒はいなかったよ。そうじゃなきゃならなかったからな、オレは。じゃなきゃ、父親が許さなかった。とにかく、それで、奴はオレにヘマさせたかったんだよ、おそらくな。入学した時からな、ずっと蛇みたいにオレを見てやがった」
殺し屋は一度話すのを止め、笑った。そして、完璧な模範生か、と口の中で呟くと、再び語り始めた。
「高三の時、ちょっとした事件があった。英語で出された宿題のレポートがな、彼女の家で朝方までかけてやったのに、起きたらなくなってたんだ――」
運転手は顔を顰めた。それに気づいた殺し屋は、女と付き合ったことないなんて言ってないだろ? と言い、続けた。
「探したんだけど、見つからなくてな、結局、提出できなかった。で、これは結構後になって分かったことなんだけど、ガールフレンドが犯人だった。オレのレポート隠して期日に提出できないようにしたら金やるって、例の英語の教師に言われたらしい。まあ、とにかく、その時はそんなこと分かんなかったから、交渉しに行ったんだ、英語の教師に。何とかAつけてくれないかって。そしたらな――奴はこう言った。Aが欲しかったらファックさせろ、ってな。そしたらAつけてやる、って、そう言ったんだ」
殺し屋は乾いた笑いを漏らした。
「いくら優等生でもな、おめでたい馬鹿なガキだったんだよ、オレは。あいつの言う通り、やらせたんだ。奴はオレを四つん這いにさせて、後ろからファックしながら、もっと女みたいな声で泣け、って言った。上手に泣けたら、Aをやるってな」
殺し屋が再び言葉を切った。そして、やや顔を下げたのが、運転手の視界の隅に映った。彼は、ちらと目を傍らに向け、殺し屋の様子を伺った。その一瞬で、殺し屋の目に浮かぶ遠くに思いを馳せるような、ぼんやりした光が分かった。運転手には、たかが学校の成績なんかにそこまでこだわった殺し屋の心は、全く理解できなかったが、しかし、その目の光は、彼にとってどれだけそれが重大だったかを物語っていた。頭に浮かんだ疑問に蓋がされる感じがした。しばし置いて、
「でも奴は、オレにBをつけた。問い詰めに行ったら、一度は甘い考えも浮かんだけど、やっぱり成績はフェアにつけるべきだと思い直した、とか言いやがった。それに、後々お前のためになるから、今回のことは良い社会勉強だと思え、ともな。最低の屑だと思ったよ。オレをファックした上でBをつけて、それで劣等感を与えたかっただけなんだ。まあ、それで切れて殺しちまったんだけどな――」
そこでまた、殺し屋は目を伏せた。運転手は前を向いたままなので、彼の表情は分からなかったが、生温い空気の中にある、倒錯的な雰囲気を感じ取った。
「――その時見た教師の顔がな、美しかったんだ。びっくりしたよ。あんな下衆い人間だったのに、死に顔は美しいんだ。そこではな、虚栄だとか、偽善だとか、欺瞞だとか、そういうものがすべて消えて、あるのはただ、純粋な、物体としての人間なんだ。その時思ったよ、人間はもともと皆、美しいんだってな。それが醜くなるのは、醜い魂が宿るからなんだ。目の中のいやったらしい光も、下品に飾り立てた表情の歪みも、全部内面の醜さが滲み出た結果なんだ。最初に見た死人が男だったから、オレはゲイなのかもしれないな。とにかく、下衆い英語教師も、小遣い欲しさに奴と組んでオレをはめたガールフレンドも、それに……世間体ばっかり気にしてオレに無理させてた父親も、皆、殺したよ。そしたら、やっぱりな、皆、綺麗だったよ、死んだあとはな。それで、皆の写真を撮った。美しい、本当の人間の姿を、ちゃんと留めておきたくて――」
「それじゃあ――」運転手は殺し屋を遮って言った。「お前は全人類を滅亡させるしかないな。虚栄も、偽善も、欺瞞も持ってない人間なんてのは、存在しないだろうからな」
「分かってるよ」殺し屋は息をつき、話せて良かったよ、と言った。
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