国境の闇

 翌日は簡単に朝食をすませたあと、急いで宿を出立した。

 必死でセリムの背にしがみつきながら馬の背に揺られるのは楽ではなかったが、広い背中に額を押し当てていると不思議な安心感を覚えた。

 ひたすら街道沿いに西に向けて駆けると、陽が落ちる頃には国境の城壁がみえてきた。


「そなたともここでお別れだな。短い間だったが、私の看病をしてくれた恩、決して忘れない」

 

 胸が締め付けられる思いだった。ヒベルニアの調香師は各国で活躍しているが、もうこの国の土を踏むことも、そしてセリムに会えることもないのだと思うと、今にも喉の奥から嗚咽がこみ上げそうになる。


「さて、ここをどうやって通り抜けるかが問題だ」

「ラザロ様は、殿下を通してくれるでしょうか」

「この国で私の話が通じるのはあの男くらいのものだ。まだあいつが変わっていなければ、だが」


 セリムはラザロを信用しているようだ。しかし王位をめぐる政敵であるはずのラザロが、そうすんなりとセリムの言い分を聞いてくれるものだろうか。


「心配はいらない。まずは守備兵に話を通そう」


 国境の城門にたどり着くと、守備兵はセリムの姿を見るなり背筋を伸ばして敬礼した。どうやらセリムの姿を見たことがあるようだ。


「ラザロ隊長を呼んできてくれ」


 セリムがそう言うと、守備兵は急いで城門の脇の階段をのぼった。いま城門を見張っているものは誰もいない。


「殿下、今のうちに逃げたほうがいいのでは」

「二人で馬に乗っていてはすぐに追いつかれる。それよりラザロに事情を話しておいたほうがいい」


 それで本当に大丈夫なのかとカルナが気を揉んでいるうちに、守備兵が体格の良い男を連れて階段を降りてきた。


「お久しぶりです、兄上」


 セリムとは対照的に浅黒い顔の男は、実直な武人らしい顔に快活な笑みを浮かべた。


「実は事情があって、この者をバクトラまで送り届けなければならないのだ。通してくれるな」

「……わかりました。私からは何も訊きますまい」


 ラザロはセリムを問いただす気はないようだ。セリムの見立ては正しかった。どうやらこの男は味方のようだ。


「すまないな、ラザロ。私はいずれ戻る」


 そう言い残すと、セリムは馬腹を蹴った。このまま国境を抜けてバクトラの大使館に駆け込めば、もはや王狗でも手出しはできないだろう。


「疲れているだろうが、今少し耐えてくれ。ここを越えればもう追手も来ない」


 背中越しにそう声をかけつつセリムは急いで馬を駆けさせたが、まだ数分も進まないうちに前方を騎馬の群れがふさいだ。セリムは急いで馬を止める。


「セリム王子とお見受けする。許可なく国境を抜けるはいかなる理由か」


 騎馬隊の隊長らしき男が前に進み出ると、そう問いただした。


「ラザロ隊長から許可はもらっているはずだが」

「私は許可を出した覚えなどありませんぞ、兄上」


 セリムが背後から響いた声に驚いて振り向くと、そこには騎乗したラザロの姿があった。


「なぜ、お前がここにいるのだ」

「兄上、国外逃亡がどのような罪に当たるか、あなたもご存じのはずでしょう」

「……謀られたか」


 カルナは愕然とした。ラザロはセリムをいったん逃がしたふりをして捕らえようとしていたのだ。やはり、セリムの見立ては甘かったようだ。


「執務室に来ていただきましょう、兄上。貴方が何をしようとしていたのか、そしてその女は何者なのか、全て話していただきます」


 ラザロが鋭い眼光をセリムに向けてきた。セリムは歯噛みしたまま、無言でその視線を受け止めていた。


「……なるほど、では何者かがその女の命を狙っていたため、兄上は国外へ逃がそうとしていたと」


 ラザロは腕組みをしたままセリムをにらみつけた。カルナはセリムの後ろで黙って目を伏せている。


「白々しいことを言うな、ラザロ。お前はその者が何者かも全て知っているのだろう」

「さて、何のことかわかりかねます。私が知っているのは、兄上が私の目の前で国外逃亡をはかろうとしていたことだけです」

「しばらく見ないうちに、ずいぶん小賢しい口をきくようになったものだ」


 ラザロはその言葉には反論せず、薄笑いを浮かべるだけだった。


「さて兄上、私は国境守備隊長として、国外逃亡を図ったものを処罰する権限を持っています。本来ならば兄上の罪は斬首に値するところですが、私とて人の子、兄上の首と胴が離れるところなど見たくはない。ここは温情をもって、毒杯を兄上におすすめします」

「ちょっと待ちなさいよ!」


 カルナは思わず我を忘れて怒鳴っていた。いくら王族とはいえ、こんな卑怯な真似はとうてい黙って見過ごすことはできない。


「殿下はセリム様を罠にかけたこと、恥ずかしいとはお思いにならないのですか?たった一人の兄弟を卑劣な手段で死に追いやろうというのですか」

「ずいぶんと威勢の良い娘だな。よいか、肉親であればこそ法は厳格に適用しなければならないのだ。そうでなければ民に示しがつかないではないか」

「そうは言っても……」

「王族であれ罪人は罪人。おい、あれを持て」


 ラザロがそう命令すると、部下がに紫色の液体を満たした銀の杯を運んできた。どうやらこれが毒杯らしい。


「兄上、あなたも王族ならば覚悟を決められよ。あなたの死に様はこのラザロがしかと見届けましょう」


 ラザロの部下がセリムの眼前に毒杯を差し出した。セリムはしばらく目を閉じて何事か考え込んでいたが、やがてゆっくりと目を開いた。


「……どうやら私はここまでのようだな。だがこの娘は助けて欲しい。私が逝ったなら、もうこの者に用はないだろう」

「兄上の最後の頼み、確かに聞き届けました」


 ラザロが静かにうなづくと、セリムは毒杯に手を伸ばそうとした。


「いけません」


 カルナは脇から毒杯を奪い取ると、ラザロを正面からにらみつけた。


「セリム王子をそそのかし、国外への逃亡をすすめたのはこの私です。罪ならばこの私にあります。セリム王子はこの国になくてはならないお方。王子に代わり、私がこの命を差し出します」


 一気にそうまくし立てると、カルナは毒杯をあおいだ。一息に盃の中の液体を飲みほすと、芳醇な葡萄酒の香りが鼻腔をくすぐった。


「なんということをしてくれたのだ、カルナ。そなたが死ぬべき理由など何一つないというのに」


 セリムは必死にカルナの肩を抱きすくめた。カルナの目に涙が浮かぶ。


「殿下、私は後悔などしていません。我が国の第一王子は、無名の調香師ごときのために命をかけてくださる方であることを誇りに思いながら逝くことができるのですから」

「駄目だ、カルナ」

「……兄上、ようやく花姫を見つけましたね。右手をご覧なさい」


 ラザロの声音が急に穏やかになった。セリムが怪訝そうに右手に目を向けると、そこには聖紋が鮮やかに光っていた。


「これは……」

「献身と自己犠牲。それがユキウツギの花言葉でしたね」


 セリムは驚きに目を丸くした。カルナの資質を試すために、わざわざラザロはこんな芝居を打ったというのか。


「兄上の聖紋、確かに私がこの目で見ました。貴方はもう無紋王子などではありません」

「しかし、このままではカルナが」

「心配せずとも、その杯には毒など入っておりません。兄上、貴方は立派な聖紋を持つこの国の正当な王位継承者です。この私が父上の前で証言してみせましょう」


 ラザロはそう言うと、セリムの前に右手の甲をかざしてみせた。そこにはツルギソウの聖紋が光っている。花言葉は「揺るぎない真実」だ。嘘偽りない言葉を話すとき、ラザロの聖紋は輝く。


「カルナのことはすべて王狗から聞かされております。この者ならば兄上の力となってくれるものと確信しておりました」


 カルナは安堵の溜息をついた。一時は死を覚悟していたが、どうやら生の側に魂を引き戻されたようだ。


「それにしても見事な覚悟だった。命を賭して兄上の聖紋を見せてくれたこと、感謝するぞ」

「私はただ、命を救ってくれた王子にこの命で応えたまで……」


 急にカルナの体から力が抜け、その先を話すことができないままカルナは床に倒れ伏した。驚いたラザロがカルナに駆け寄る。


「これは、どういうことなのだ。杯に入れたのはただの酒のはずだが」


 セリムは杯を拾い上げて鼻を近づけると、驚きに目を見開いた。


「ラザロ、これはヒナイラクサの毒だ」

「馬鹿な。いったい誰がこんな真似を」


 ラザロの顔には焦りの色が浮かんでいた。何者かがラザロの知らないうちに杯に毒を入れたらしい。


「この毒は遅効性の毒だ。今すぐに死ぬことはないが、解毒薬が間に合わなければもって3日が限界だろう」


 セリムはカルナを抱き起こすと、沈鬱な表情で苦しげな吐息を漏らすカルナの口元を見つめていた。


「先程、厨房の者が一人姿を消しました。どうやらここにも王狗がもぐり込んでいたようです」


 ラザロは医務室のベッドに寝かせたカルナを横目で見ながら、声を潜めた。


「お前が芝居を打ったのにかこつけて、私を亡き者にしようとしたというのか」

「それで間違いないでしょう。陛下は何だってここまで兄上に辛く当たられるのか。もともとは公明正大な方であったはずなのに」


 ラザロの拳が小刻みに震えていた。セリムはその怒りを鎮めるように、努めてゆっくりと話す。


「ここは、急ぎ王都へ向かうしかあるまい。この辺境ではヒナイラクサの解毒薬など手に入らない」

「ならば私もともに王都へ向かいます。陛下の前で私が兄上の聖紋のことを証言すれば、王もさすがにこれ以上王狗をけしかけることはできなくなるでしょう」

「うむ、それで決まりだ。カルナにはクジュラ薬師長から直接解毒薬を処方してもらおう」

「お待ちください、殿下。この国境にすら王狗が紛れ込んでいるのです。陛下の信頼厚いクジュラ様が、私を助けたりするものでしょうか」


 カルナは苦しげな息の隙間から、ようやく言葉をついだ。


「無理に話そうとするな、カルナ」

「しかし、カルナの言い分ももっともです。クジュラ薬師長が解毒薬を処方してくれるとは限りません。どうなさるつもりなのですか、兄上」

「そういえば、お前は先程『花姫』という言葉を口にしていたな。あれは一体何のことなのだ」

「実は先日私の部下が、城外で偶然古ヴァリャーグ文書の欠けていた部分を補完する石版を見つけたのです。その中に出てきた言葉です」

「ほう、そんなものがあるのか……その石版は、今どこにあるのだ」

「城の保管庫に置いてありますが、この件と関係があるのですか?」

「あるいはその石版が、カルナを救う鍵となるかもしれない。私を保管庫に案内してくれないか」


 ラザロは怪訝な表情を作ったが、結局兄の言い分に従い、二人で地下の保管庫へと続く階段を下りていった。

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