王都の陰謀
数日が過ぎ、カルナは仕事を終えたあと王立図書館を訪れていた。香道長にはもうセリム王子に関わるなと言われていたが、そう言われるとかえって気になってしまう。
「やあ、またお会いしましたね」
草花図鑑を手に取ろうとしていたカルナの背後から聞き覚えのある声が響いた。振り返ると、そこにいたのは先日看病した青年だった。
青年は相変わらず穏やかな笑みを浮かべている。具合が良くなったようなのでカルナはほっとしたが、青年の正体を知ってしまった今、どう話しかけていいものか戸惑った。
「あの、殿下はなぜこちらにいらしたのですか」
「ああ、ここでは堅苦しいのはなしでお願いしたい。私もたまには王子であることを忘れたい時があるのでね」
(やっぱり、この方はセリム王子だったんだ)
なるべく動揺を悟られないように少し目を伏せると、カルナはセリムの右手に目を留めた。先日は明らかに聖紋の浮かんでいたその手には、今は何も浮かんでいない。
「この手のことなら、先日私も耳にしたよ」
セリムは右手の甲をカルナにかざしてみせた。カルナは何度も目をしばたいた。セリムは眠っているとばかり思っていたのに、どうやらリーザとの会話を全部聞かれていたらしい。
「いや、これは失礼。聞き耳を立てていたつもりはないんだけれど、どうも眠りが浅いものでね」
「何か、心配事があるんですか?安眠できるようなエッセンスなら私でも調合できますが」
職業病なのか、ついカルナはそんなことを言ってしまった。
「ご心配には及びませんよ。もともとこのような体質のようなのでね。ところで貴方はなにかお探しなのかな?」
セリムはカルナの質問をはぐらかすと、そう訊いてきた。
「実は、ユキウツギのことを調べていたんです」
「奇遇だね。実は私もなんだ」
「ということは、殿下もやはり聖紋のことを?」
「ああ、なぜ今は消えてしまっているのか気になってね。普通は聖紋は浮かんだり消えたりするようなものではないんだが、どうやら私のは特別らしい。実に興味深いね」
自分のことなのに、セリムはどこか他人事のように言った。まるで自分自身すら観察対象として突き放しているかのようだ。
「貴方は、ユキウツギの花言葉を知っている?」
「ええと、ここには『献身、自己犠牲』とありますね」
カルナは手にした草花図鑑を開いてセリムに示した。
「なるほど、献身……か。貴方が私を看病してくれたことと、何か関係があるということなのかな」
「でも、聖紋というのは本人の資質と関係があるんですよね?私がどうするかは、関係がないんじゃないでしょうか」
「それがそうとも言い切れないんだ。聖紋には他者の性質に反応するものもあるという記録が古ヴァリャーグ文書の中にも存在している。この文書はまだ復元できていない部分も多くて、詳しいことはまだわからないんだけれどね」
セリムは少し肩をすくめてみせた。もしその話が本当なら、カルナが献身的に尽くせば、セリムの手にもう一度聖紋章を浮かび上がらせることができるのだろうか。
「では、どなたかに殿下への忠誠心を見せていただければいいのではないですか?誰かの献身が聖紋を浮かび上がらせるのなら、先日の状況を再現できるはずです。殿下が無紋王子ではないということを証明できるのではありませんか」
「忠誠心、か」
セリムは少し寂しそうに笑った。憂いを帯びた瞳がまっすぐにカルナに向けられたので、カルナはあわてて少し目をそらした。
「失礼なことを申し上げてしまったのなら申しわけありません。なにかお役に立てればと思い、つい差し出がましいことを」
「いや、貴方のせいではない。私に尽くそうとする者がいないのは、私の至らなさだろう」
セリムは表情を引き締めると、カルナに背を向けて窓の外を見やった。
「貴方はもう、私のことなど忘れたほうがいい。下手をすると、貴方の身に危険が及ぶかもしれない」
どうして私が危険な目に遭うのか、とは訊けない雰囲気だった。香道長にもこの件にはもう関わるなと言われていた。カルナが身の丈を超えたことをしようとしていると、セリムは警告しているのかもしれない。
「では、私はそろそろ失礼するよ」
セリムはカルナに軽く笑みを向けると、そのまま図書館を立ち去ってしまった。
王立図書館からの帰り道、カルナはセリムの言葉が頭の隅に引っかかっていた。憂いを含んだ表情で私を忘れろなんて言われたら、かえって気になってしまうに決まっている。
(なぜ、殿下に尽くしてくれる人がいないのだろう)
セリムは表向きはまだ「無紋王子」ということになっている。ヒベルニアでは忌まれる無紋の王族だが、それでもセリムに忠誠を尽くしてくれる家臣の一人もいないものだろうか。
ここで自分に問いかけてみても、答えが見つかるはずもない。
後ろ髪を引かれる思いで、カルナは王立図書館を後にした。
西陽が王都にそびえ立つ大聖堂に照りつけ、長い影を石畳の大路に伸ばしていた。
その影を踏みつつ、もうすぐ陽も落ちるので少し近道をしようとカルナは都大路を左に折れ、狭い路地へと入り込んだ。
人気のない路地を歩くと、背後から何者かの靴音が迫って来た。
緊張で胸の鼓動が早くなるのを感じる。
カルナは自然と早足になり、急いで路地を走り抜けようとするが、今度は前方を大きな影がふさいだ。かなり上背のある男らしい。
「やはり、ここへ来たか」
その影はカルナの脇をすり抜けると、追いかけてきた者達の前に立ちはだかった。
「ここは私が防ぐ。今のうちに逃げるんだ」
(セリム王子……?)
夕闇の中で顔がよく見えなかったが、その声は確かにセリム王子の声だった。王子はカルナを追いかけてきた何者かと戦うつもりらしい。
「道を開けられよ、王子。さもなければ殿下も無事ではすまされませぬぞ」
「そう言われて黙って退く私だと思うか」
鞘走る音が聞こえ、黒衣をまとった男がセリムに斬りかかってきた。
頭上に落ちる鋭い斬撃を難なく弾き返すと、今度はセリムが黒衣の男に向けて刺突を繰り出す。
体をかわした男は再び攻勢に転じる。男とセリムは路傍に鋭い金属音を響かせ十数合打ちあったが、セリムの素早い剣撃は次第に男を追い詰め、男はついに剣を地に落とした。
「そなたは、王狗か」
セリムは男の眼前に切先を突きつけて問いただした。しかし男は不気味な薄笑いを浮かべると、目を見開いたままがくりと頭を垂れ、そのまま地に崩折れた。
「くそっ、毒を噛んだか」
カルナは急いでセリムに駆け寄ると、心配そうにセリムの顔をのぞき込んだ。
「あ、あの、大丈夫ですか」
「なぜここにいるのだ。早く逃げろといったではないか」
「私を助けてくれた方をおいて一人で逃げることなんてできません。それより、この人は一体」
「おそらくは、王の刺客だろう」
カルナは絶句した。王狗という諜報部隊がこの国に存在していることは知っているが、どうして王の手の者がカルナの命を狙うというのだろう。
「王狗が私なんかに何の用だというのですか」
「今は説明している暇はない。おそらくそなたの寮にも王の手の者がいるだろう。今はできるだけ早く王都を離れなければ」
耳のそばで晩鐘を思い切り鳴らされているように、カルナの頭の中が混乱した。いま自分の身に何が起きているのか、全く把握することができない。
「事情はおいおい説明する。まずは私の馬に乗ってくれ」
カルナは黙ってうなづくと、セリムの言葉に従った。馬上の人となったカルナはセリムの背にしがみつきながら、早鐘のように打つ心臓の鼓動が落ち着くのを待つほかはなかった。
急ぎ王都の城門を出たセリムはしばらく駆けると、城外の辺鄙な宿に泊まることにした。どうやらここまでは追手はやってこないようだった。
粗末な屋根裏部屋のベッドに腰かけながら、カルナはセリムから大体の事情を聞かされた。
無紋である王子を疎んで何者かが食事に身体を衰弱させる毒を混ぜているらしいこと、その毒を中和させるための成分を研究するうちに香道にも詳しくなったこと、そして王狗がセリムの聖紋の存在に気付いたため、聖紋を見たカルナをこの世から消そうとしていることも。
「……つまり、殿下に聖紋があっては都合の悪い人達がいる、ということなんですか」
「父上は私よりもラザロを可愛がっているのでね。しかし嫡男である私に聖紋があるとなると、私を王位継承者から外すのは難しくなる。あくまで私を不吉な無紋王子のままにしておきたい、ということなんだよ」
セリムの聖紋を目撃し、聖紋を浮かび上がらせる鍵となりそうなカルナの存在は、ラザロを王位につけたい一派にとっては邪魔ということらしい。そしてセリムの周囲も、ラザロ派の息のかかった者たちで占められていた。
「でも、こんなことが許されていいはずがありません!殿下は立派な聖紋をお持ちで、王位を継ぐべきお方なのに」
「道理がそのまま通る世の中なら、誰も苦労はしないさ」
「でも、このままでは……」
セリムはカルナの言葉をさえぎるように、ゆっくりとかぶりを振った。カルナはこの理不尽な状況を前に、セリムのために何もできない自分がもどかしかった。
「それより、これからどうするかを考えなければいけない。王狗に目をつけられたからには、そなたはもうこの国では暮らせまい。ここからならバクトラ王国の国境まではそう遠くない。あす朝早く出立すれば、夕刻までには関門に着ける」
「でも、どうやって国境を抜けるのですか?あそこの国境守備隊の長を勤めているのはラザロ殿下では」
「私の話を聞いてくれそうなのは、あの男くらいなのでね。直接会うことさえできればどうにかなる」
「でも、私のために殿下にそこまでさせるわけには」
「そなたが私の看病をしてくれなければ、こんな面倒事に巻き込まれずにすんだのだ。バクトラまではなんとしてでも私が送り届ける」
「殿下が私のためにそこまで責任を感じる必要なんてありません。もともと香道長にもうこの件に関わるなと言われていたのに、ユキウツギのことを調べていたからこんなことになったんですから」
「自分のために力を尽くしてくれた女人一人守れずして、何が王子か。私は無紋であることなど恥じたことはないが、そなたの力になれなければ一生自分を恥じなければならない」
セリムは真剣な眼差しをカルナにむけた。長い睫毛に縁どられた美しい瞳は、心なしか少し潤んでいるようにみえる。カルナは頬を赤らめると、あわてて目をそらした。
「と、とにかく、もう休みましょう。今日はもう遅いですし」
冷静になってみると、一国の王子と同じ部屋で眠ろうとしているこの状況はかなり異常だ。早鐘のように打つ心臓の音がセリムに聴こえていないかと、カルナは気が気でならない。
「そなたの言うとおりだ。今は眠るとしよう」
セリムは燭台の明かりを落とすと、そのままベッドに身を横たえた。カルナも慌ててベッドにもぐりこんだが、セリムがすぐそばにいる緊張感と今後の不安とで、なかなか眠りにつくことができなかった。
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