犬と呼ばれた少年

横島マナコ

第1話

 いやだ!!やめろ!離せ!!!


 まだ声変わりもしていないような幼い少年の声が、汚らしい夜の路地裏に虚しく反響して消えていく。


 暴れるな、と男の声が、次いで聴くに堪えないような罵声が同じ声で発せられる。

 ゴッ、という音と同時に、か細く、押し殺したような悲鳴。

 ガッ、ゴッ、ドッ、と何度も繰り返される湿った打撃音。

 また、弱々しく助けを求める声が響いては消える。


 かみさま、かみさま、たすけて、だれか。


 その声に応える者は居ない。




「おら、犬!! 檻に戻れよ! ははっ」


 神なんて居ない。

 いつそう悟ったのか。


 野良犬のような薄汚れて貧相な体を、狭い檻の淵に横たえる。

 しこたま暴行を加えられた身体のあちこちが軋む。

 腕の一部は骨が折れたのか、ひどく腫れ上がっていた。


 あざ、あざ、あざ。


 タダでさえ貧弱な身体は、幼い頃から度重なる体罰によって当の昔にボロボロだった。

 火の付いたタバコや薪木を押し付けられた場所は、引き攣れとなって醜い傷を晒している。

 骨が折れても治療なんてされるはずも無く、放置された骨は歪んだまま再生し、足や腕は今や、おかしな形に捻じ曲がったまま動いている。


 痛い、痛い、痛い。


 激痛に脂汗を噴き出しながら、なるべく傷を刺激しないように蹲る。

 悲鳴や呻き声は奴らを喜ばせ、調子付かせるが、全く出さないのはそれはそれで癪に触るらしいのだ。

 加減を間違えれば殺される。


「ぐ、ぅぅ……ふっ、……ぅ……」


 哀れっぽく呻いてみせる。

 八割がたは本気の呻きだが。

 それを聴いた奴らは嘲笑し、俺が蹲っている檻を蹴った。

 振動が折れた骨に響く。


「あ゛!ぁ゛っ!!、ひっぐ、ぅ、あ」


 痛い、痛い、痛い痛い痛い痛いイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。


 目の前が真っ白になる。

 体がガクガクと震える。

 頭の中が痛みで埋め尽くされる。

 目の縁から雫が溢れ、痛みで火照った頬を濡らした。


 ここで何が何だか分からなくなって喚き散らしてはいけない。

 もしそんな事をすれば、奴らは面白がって、更に痛め付けようとしてくるだろう。


 奥歯を砕けんばかりに噛み締めて、痛みをねじ伏せる。

 

 死にたくない。


 それだけが目的で、これだけが全てだった。

 ただそれだけの為に、人間としての尊厳を捨て、自らを脅かす者に平伏し、媚び諂い、何もかもを諦めた。

 いっその事、死んでしまえたらどれだけ楽か。


 だがしかし、どうしても、どうしても、生を諦める気にはなれなかったのだ。


 特に、理由として思いつくようなものは一つもない。


 生まれた時から奴隷で、物心付くより前に売り払われた自分には、家族と呼べる者は無かった。

 外の世界への憧れはあるが、都合よく誰かが助けてくれるだなんて事は期待していない。


 だから、これはもしかすると、単なる生物としての根源的な欲求なのかもしれない。


 来る日も来る日も繰り返される暴行を、時には耐え忍び、時には他の奴隷に矛先を向けさせ、兎に角、ありとあらゆる手を使って凌いできた。



 ……だが、それももう、限界なのだろう。



 滲んだ涙がボタリ、と汚物にまみれた檻の床に落ちた。

 ズキズキと骨の髄まで響くような痛みが、体を火照らせる。

 しかし、背筋はまるで死神が取り付いてでもいるかのように冷たく、貧相な身体はカタカタと細かく震え続けていた。


 死ぬのは怖い。


 目の前で他の奴隷が主の機嫌を損ねて殺された事は数知れないが、誰一人として安らかな顔をしている者はいなかった。


 思考が、視界が、熱に侵されて歪む。


 犬と呼ばれた少年の意識は、そこで闇に飲まれた。

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