第50話 うつと付き合うということ

うつを患ってから2年と言ったが、今年中に治るかどうかは判らない。

出来れば治ってほしいと願うところだが、現実問題としては難しい気がしている。


日本は1度ドロップアウトしてしまうと、その復帰の機会を掴むのはなかなか難しい。

年齢的なこともあるし、今後の社会復帰が不安でもある。

いっそ、個人事業主で何かした方が良いのかもしれない。

いまのところ、収入に直結するような何かができるわけではないが。


うつに年齢は関係ない。

症状も状態も人それぞれだし、治るのにかかる時間も違う。

合う薬も違う。


俺は自ら病院の門をたたいた。

そしてうつだと知った。

だが、うつの疑いがあって他人に勧められても、頑なに通院を拒む人も居る。

そこには、様々な理由があるだろう。

経済的なことかもしれないし、あるいは。


うつであるということを認めたく人や、精神科にかかることを恥ずかしいと思っている人だ。


なぜ認めたくないのか、なぜ恥ずかしいと思うのか。

それは、日本の社会が、まだうつに対して無理解だからだ、おそらくは。


話は少しそれるが、俺は正社員で働いたことがない。

それはそれで、レッテルを貼られる事柄の1つだ。

だが、俺は気にしていない。

とはいえ、それはマイノリティだろう。


多くの人は正社員であることを望むし、あるいは当然だと思っている人も居るかもしれない。

そんな人たちから見たら、履歴書が派遣とバイトと契約社員とパートで、ちょっと凄いことになっている俺は、白い目で見られる、下に見られる存在だ、その自覚はある。


うつ病も、同じ扱いなのだ。

今でこそ、いろいろな働き方があって良い、と提唱する声も大きく聞こえるようになってきたし、社会も戸惑いながらも、それを受け入れつつある。

だがうつ病は、まだそこまで到達していない。

日本の社会が、うつ病に対してどのように対処したらいいのか、判っていない状態なのだ。


だから、隠したいし自認したくないし恥ずかしいのではないか、と思う。


受け入れてもらうには、こちら側からも歩み寄らねばならない。

受け皿は小さいが、今、それがないわけじゃない。

かつては「サボり病」「仮病」とまで言われていたうつ病が、「うつ病」として、認知されつつあるのは事実なのだ。


歩み寄るには、まず知ってもらうこと。

まずはそれがどのような感情であれ(できれば好意的な人が好ましいのは確かだが)興味を持ってくれている人からで良い、その人に伝えて、更にその人が誰かに伝えてくれれば、認知度は上がる。


俺がこのエッセイを書き始めたのも、知ってほしいと思ったからだ。

症状も状態も人それぞれでひとくくりに出来ず、更に目に見えないものだから、どれだけ伝わるかは判らない。

それでも・・・誰かが伝えようとしなければ、伝わらないのだ。

何も伝えずに判ってもらうことなど、まして察してもらうことなど、そもそも出来ないのだから。

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