最終話

 あの映画は何度リメイクされても同じだった。最初に片方がお互いを見て過ごそうと思うも、もう片方が2人で同じものを見て過ごしたがっていることを知り、結局は最後に同じものを見に行く。僕だって理解できる。最後の最後は同じ感動を共有したいという気持ちはある。でもそれは、僕には無理だと思った。そういう選択ができるのは、結局のところ、主人公たちが強いからだと思った。僕は違った。この世界の主役でもなければ、仕事でミスをして落ち込んだりもする。いくら「最後は妻が喜ぶものを見せてあげよう」と思っても、妻を最後まで見ていたいという気持ちに打ち勝てない。今見えている妻の姿が、明日もう二度と見えなくなると思うと、それは自分が大切にしていたものを失うような悲しみが押し寄せてくる。もう見えなくなると分かっていても、いや、分かっているからこそ、最後まで妻の顔を見ていたかった。


 妻は僕の弱さを分かってくれた。だからこそ、今日、最後の日を、一緒に自宅で過ごすことができる。僕のわがままを通すことになってしまったが、これでよかったと思う。妻は僕よりずっと強くて、ずっと優しくて、ずっと一緒にいたいと思える人だった。


 妻は目の前にいる。妻は薄く香水をしていた。外行きの、上品な香りだった。妻なりに最後を演出してくれているのかもしれないし、単に本当は最後こそ外出したかったのかもしれない。僕は人が香水をつける意味をそもそも知らないが、とても落ち着く香りだった。


 僕は妻の手を取る。少しざらついていた。裕福な家庭であれば自動洗浄機能がついた食器を使うだろうけど、うちのような一般家庭はそうでない。妻は文句ひとつ言わず、食器を洗ってくれていた。僕も洗おうとするのだが、妻は全部1人でやりたがった。スポンジの使い方が違うからとか、乾かす食器の並べ方が違うからとか、色々な理由があるようだった。妻の手のざらつきは食器洗いだけに起因するものではないだろう。妻の料理はおいしい。僕がおいしそうに食べている姿を見て、妻はいつも嬉しそうだった。料理も手伝おうとするのだが、やはり妻は全部1人でやりたがった。


 妻を見る。とは言ってももう本当に目の前しか見えないので、必然的に顔を寄せている。妻の表情は・・笑顔だった。対照的に、僕の顔は恐らくひどいものだっただろう。涙が止まらなかった。目の前のこの笑顔をずっと見ていたかった。こんな時まで笑顔でいられる妻は、なんて強いのだろうと思った。思えばいつだって妻に支えてもらっていた。最後の日くらい妻の望むように好きなものを見に行けばよかったと、少し後悔して視線を逸らした。すると視界の端で何か動きを感じた。妻がかすかに首を左右に振っているようだった。


 妻は僕の泣き顔に触れた。妻の手に僕の涙がついただろう。ざらついた手の感触が頬に残響する。僕も真似るように、妻の笑顔に触れた。僕の手にもまた、水の感触がついた。目を凝らすと、ずっと笑顔に見えていた妻の表情に、しずくが現れた。妻もまた、泣いていたのだった。


 妻は映画などを見て泣くことも多い。しかし、現実の悲しさから泣いている姿を見たのは初めてだった。それだけ妻は強かった。驚く僕を見て、妻は再び首を横に振った。妻は悲しんでいないようだった。ただ、泣いている僕に同調して、涙が出てしまっているようだった。妻は、僕の分まで涙を流してくれているのだと分かった。


 妻の笑顔に不釣り合いなその涙は心から愛しくて、暖かかった。生まれた時には世界の色が既にほとんど失われていたためよく分からなかったが、恐らく、これが「色」なのだろうと思った。僕は、最初で最後の「色」を見た。そして、世界から、光が消えた。


――


 恐らく、今後もあまり変わらないのだと思う。見えるものが見えなくなっても、手を伸ばせば妻に触れられる現実がここにある。妻の匂いも、妻と過ごすこの部屋の匂いも好きだ。妻の料理はおいしい。妻のいる生活がずっと続く、ただそれだけで良かった。


 子供の頃に読んだおとぎ話では、こう書かれていた。大昔は「音」というものがあった。当時の人は口で「音」を発し、耳で「音」に触れることができた。いつの日か世界から「音」がなくなり、人々は嘆き悲しんだが、いずれ慣れていった。僕らにとっての「色」もそうなのだと思う。僕らは「音」というものを知らないが、こうして幸せに暮らしている。いずれは「色」のない世界が普通になり、きっと僕達の今がおとぎ話として伝わっていくのだろう。

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最後の色 するめいか英明 @surume_ika

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