5-19 違える道 Ⅰ
緊張感と不安。
絵に描いたような状況に対する、僅かな好奇心や興味といった諸々が綯い交ぜになった感情を噛み殺したつもりで、眼前の光景を見入る真治。
「ここが……〈魔界〉」
悠を追いかけ、『
空は赤黒い雲に覆われていて、人の気配すらない果てない荒野のようなその場所――〈魔界〉へと辿り着いた『異界の勇者』一行は、周囲への警戒を強めつつ周りを見回す。
――まるで死んだ大地、だ。
真治が抱いた感想と同じく、その場にいた他の面々もまた似たような思いを抱いていた。
周辺に広がる荒野は草木の一本すらなく、空気はひどく乾燥している。
生命を拒むかのような光景は、悠が魔王城から見たそれとは大きく異なっていた。
真治らはもちろん、悠自身もまた知らないが、悠のいる場所――つまり魔王城は、〈魔界〉という砂漠の中にあるオアシスのような場所だ。
どこに進もうとも、枯れ果て死んだ大地とも言える〈魔界〉。
そんな環境の中にあって唯一生命が育まれる場所を、魔族と魔王アルヴィナの力によって結界で覆い、守り続けているのである。
「咲良、頼む」
「ん、了解」
短いやり取りで頷いた咲良が掻き消えるように疾駆する。斥候役であり、この『勇者班』の中でも最も素早く、気配を察知されにくい咲良が役割をこなすべく偵察に動いたのだ。
「鬼が出るか蛇が出るか、だな」
「〈魔界〉だからな。鬼っつーより、むしろ悪魔の方が出そうなもんだぜ」
軽口を叩き合いつつも昌平と真治の表情は未だ強張っており、同様に他の面々の口数も減っている。彼らが今、明らかな緊張感に包まれているのは明白であった。
それもそのはずである。
特殊な状況ばかり遭遇している悠とは違い、彼らが今までに真正面から対峙した魔族と言えば、あのエキドナしかいない。
当然、当時に比べれば全員の実力も戦闘に対する経験も比べ物にならない程度には成長しているが、だからと言って根付いた恐怖に対する不安が拭われるはずもなかった。
待ちの姿勢であるのならまだしも、今回は自分達から魔族の懐に飛び込んでいる。
エキドナ程の実力者はそうはいないだろう、というのがエルナから与えられた情報ではあるのだが、エキドナ程ではなくとも――魔族は総じて強い。緊張するのも無理からぬ話であった。
「しっかしまぁ、変な気分だぜ」
真治がぼやくように零したのは、『
人々の住まう〈人界〉から『
だと言うにも拘らず、この〈魔界〉には空があり、『
せいぜい上ってきたのは最後の最後、出口の手前。僅かに上り坂となっていたものではあるが、感覚的には「〈魔界〉は〈人界〉から降りて来た場所」に当たる。
しかし一行が出てきたのは、外見からはどう見ても『
「何をそんなに驚いているのよ。身も蓋もない言い方をするなら、ダンジョンと一緒でしょう」
「そうなんだけどよ。でも、ダンジョンはダンジョンだろ? ああいう限定的な摩訶不思議空間なら、ゲームやらで散々見てきたから分かるんだけどさ」
「ここは異世界なんだから、常識だって違う事ぐらい珍しくもなんともないわ。いちいち驚いてたらキリがないじゃない」
瑞羽が例に出したのは、ダンジョン。一階層毎に空気も気温も、湿度も温度も、何もかもが変わる不思議な空間。地下にあるはずなのに空があり、太陽があり、夜が訪れる場所である。
そういった摩訶不思議な現象に理屈など通用しないとばかりに受け入れてしまっている以上、真治の言葉は確かに「今更何を」とでも言いたげな、呆れにも似た感情が滲んでいた。
一方、そんな二人とは別行動を取り、動いている咲良。
彼女はすでに『勇者班』の面々とは遠く離れた位置まで進んでおり、一つの異変に気がついてぴくりと眉を寄せた。
「――魔物が、いない……?」
この〈魔界〉についてからというもの、どこにも魔物の存在が見当たらない。
そんな真実に気がついて、咲良は薄気味悪さに僅かに身震いした。
魔物の存在は、こちらの世界へとやって来て早々に学んだ。
曰く、魔物は魔力を宿した動物が独自の進化――いや、魔化したとでも呼ぶべき存在であるといった説が濃厚ではある。だが、聖教会の教えによれば、魔物とは元来〈魔界〉に棲まう異形の怪物であったという説が推されている。
事実、聖教会が派遣したとされる魔族の征伐隊は『
こちらの世界では、神は当たり前のように存在している。
人に紛れて行動する事もあり、誰もが存在を認知できる程度に、だ。
そんな神々の代弁者を務めるのが、聖教会である。
だと言うのに、“〈魔界〉に魔物が存在していない”というこの状況。
この状況に思わず咲良は、以前ふと悠が漏らした言葉を思い出した。
――神々を信用しすぎるのは良い事とは言えない。
咲良がこの状況――魔物がいないという現実に違和感を覚えたのは、悠のそんな言葉があったからだ。
咲良は悠がかつて告げたその言葉に、「それはそうだ」と納得する反面で「どうして」と僅かな疑問を抱いた。
日本で平凡な高校生として生活していた咲良達が死んだと想われる際、こちらの世界に召喚された。それはある意味では、終わるはずだった人生を救われたとも言える。
神々の力とファルム王国の現女王アメリアのおかげで命を拾えたというのに、疑ってかかるという悠の態度に違和感を覚えたのだ。
咲良が感じた、違和感。
それは詰まるところ、日本で暮らしていた頃は神の存在など半信半疑であった咲良が、いくら召喚されるという事態に陥ったとは言え、“何も疑問を抱かずに「神は信用できる存在だ」と思い込んでいた”という証左でもあった。
もっとも、未だ咲良達は知らない。
悠が〈管理者〉と敵対関係にある事はもちろん、〈管理者〉が抱いている世界の終焉という理不尽な思惑も。
背景はともかく、今のところは神々に対して盲目的に信用できている訳ではないが、疑ってかかる理由もない、というのが正直な所である。
ともあれ、〈魔界〉に魔物の存在がないのは咲良にとっても首を傾げざるを得ない問題であった。
このまま一度合流して情報を伝えようにも、今後の行動について目処が立たないでは意味がない。
逡巡した咲良は、前方に見える崖までは一度偵察し、そのまま戻る事を決意して再び駆け出した。
「――ッ!」
目的地とした崖の頂上から眼下を見下ろして、咲良は慌てて地に伏せた。
恐る恐る、今しがたちらりと見えた存在を確認すべく崖の下へと再び視線を向けて、咲良は確信する。
「あれは……エキドナ……ッ」
この世界に来て間もなくの頃に対面した、『焔』を司る魔族――エキドナ。
かつてのような服装に比べれば随分と大人しい服装をしているようにも思えるが、赤く長い髪と同性であっても見惚れかねない美貌は、見間違えるはずもなかった。
――エキドナが生きている。
それは咲良もまた有り得ない事ではないと考えていた。
あの時、ダンジョンのニ階層で起こった戦いの後、咲良達は重傷の悠を連れ帰る事を最優先に行動した。
その場に倒れたエキドナの生死を確認する余裕などなく、倒れて意識を失ったエキドナを放置したまま、あの場を去ってしまったのだ。
エキドナを見て、咲良は当時を思い返しつつ確信する。
あの時、エキドナの生死の確認を怠ったのは、偏に――あの時の自分達ではもしも生きていたとして、対処などできなかったのではないか、という不安が胸の内に残っていたからこそだったからだ、と。
思わず身構えてしまったせいか、ふと眼下のエキドナが咲良のいる場所へと振り返り、慌てて咲良は身を引いて咄嗟に身を隠す。
「……エキドナがここにいるって事は、もしかして私達が来る事がバレていた……?」
混乱と驚愕を噛み殺しつつ、思考を整理する咲良が独りごちる。
少なからず、悠は魔族にとって厄介な存在である。
エキドナが生きていたのなら、エキドナを倒したのは悠であると証言されている可能性も高く、結界魔導具である【
そんな悠を奪還しに来るであろう可能性は極めて高く、魔族らがその情報を得た上に、さらに一度敗北を喫したエキドナの耳に入っているのであれば――自分達を迎撃しに来たという推測に咲良が行き着くのも当然であると言えた。
しかし、咲良達はすでに今では魔族の一角と対峙しても引けを取らない程度にはレベルも上がり、実力もついている。
気を取り直して、再び崖の下を覗き込み――咲良は目を見開く。
崖の上から眼下を覗き込んだ咲良と、崖の下に立っていたエキドナの視線がぶつかっていた。
遠巻きながらに、エキドナはどうやら笑みを浮かべたようであった。
――見つかった……ッ!
僅かな後悔と、この状況に対する逡巡に思考を巡らせる咲良。
しかしそんな咲良へと、エキドナは笑みを浮かべながら手招きするような仕草をしてみせた。
「……ステータス差は埋めてあるはず。逃げる――ううん、それは危険。ここで背を向けて、素直に逃がしてくれる相手じゃない……」
確かに、エキドナと対峙した頃に比べて、圧倒的に咲良達は強くなった。
だが、本気で動く魔族の実力者であるエキドナの速さを、咲良達は知らない。
当時の戦いの中で、エキドナは明らかに格下の相手を侮るような素振りしか見せてこなかった。それは明らかな侮りと、獲物で遊ぶというエキドナの悪癖があったから故に生まれた油断のおかげである事は咲良も重々承知している。
詰まるところ、いくら撃退した事があるとは言えど、エキドナの実力の全容というものが、咲良には未だ掴めていないのだ。
意を決した咲良は――ゆっくりとその場で立ち上がると、そのまま崖の岩肌を足場に身軽な動きで崖の下まで飛び降りた。
「……ふぅん? 逃げてしまうのかと思ったけれど、そうではないみたいね。それに、あの時に比べればずいぶんと強くなったみたいじゃない」
舌舐めずりするエキドナの物言いは、アルヴァリッドで戦ったあの頃に比べて些か嗜虐心というものが感じられない代物であった。
「あの頃の私とは違う。簡単にやられるつもりもない」
「言ってくれるわね。でも、安心していいわ」
「……どういう意味?」
「私はただ、命令を遂行するだけ。あなた達に興味なんてないし、手を出すつもりはないわ」
――これが、エキドナ……?
咲良が抱いた感想は、ただその一言に尽きた。
アルヴァリッドで出会った頃のエキドナの印章と、今こうして対峙している印章はあまりにも異なっているからだ。
溢れ出る殺意や嗜虐心もなければ、愉悦に身を委ねるかのように恍惚とした笑みを浮かべるでもない。それはある意味では普通ではあるのだが、エキドナに関して言うのであれば異常であるようにしか思えてならなかった。
思わず安堵の息を漏らした咲良であったが、しかし――刹那、エキドナが自らの頬に手を当て、当時のそれと同じく恍惚とした笑みを浮かべた。
油断した……ッ!
咲良は咄嗟に身構えようとして――――
「――あぁ……ッ、いいわ……! 見えていない所でこういう役目をこなす、放置された感じ……!」
――――くねくねと自らの身体を抱き締めながら身悶えるエキドナに、呆然としたまま佇む事となった。
「……いきなり何?」
「あ、あら、ごめんなさいね」
一瞬でも真剣に身構えてみせたというのに、それらしい空気は一切ない。
ただただ恍惚とした表情を浮かべ、唐突に感情のメーターを振り切ってみせたエキドナの行動は、咲良にとってはどうやら頭にくる代物だったようである。
明らかに苛立ちを含んだ表情で問いかける咲良の視線に、恥ずかしさからか頬を赤くしながらエキドナが謝罪し、続けた。
「あの全く興味のかけらもないかのような、優しく純真無垢にも見えるような表情を浮かべているのに、目だけは一切笑っていない死んだ目で真っ直ぐと見つめて、「ちょっと伝言頼まれてくれるかな?」って言った挙句、ここで来るか来ないかも分からないあなた達を待っていた日々につい、ね」
「死んだ目……? まさか、悠の命令でここに来た?」
「えぇ、その通りよ」
死んだ目という形容やら、物言いの端々から感じられる態度のそれ。
もしも悠がいたら、「キミ達、僕をずいぶんな目で見て判断しているね?」と笑みを浮かべかねないような情報で通じ合う二人であった。
「ちょっと待って。悠の命令で、どうしてお前が動く?」
「どうしても何も、そんなの当然じゃない」
エキドナは、何も気にした様子を見せずに――言い放った。
――「だって、あの御方は新たな魔王陛下なんだもの」と。
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