5-5 『神の卵』にできる事 Ⅱ

「ただいま、旦那様っ」


 魔界の空は赤黒い雲に覆われていて、けれども夜になれば赤さが消える程度には変化もあって、しっかり夜になるらしい。

 そんな取り留めのない事を考えながら部屋で一人外を眺めている最中、アルヴィナが声を弾ませながら部屋の扉を開けて入ってきた。


「お疲れ様です」

「ふふ、ありがと。色々とやる事多くて疲れちゃった。旦那様はどうだった?」

「僕はあまり。むしろ手持ち無沙汰でぼーっとしてたぐらいですし」


 安倍くんと小林くんは護衛という形になってくれたものの、どうやら僕がいるこの魔王城の中で、特にこのアルヴィナの居室がある階自体が強固な結界に守られているらしく、アルヴィナの許可がない者では通る事さえできないらしい。

 そんな訳で、安倍くんと小林くんは護衛役以外に与えられている仕事に戻ってしまったので、僕は一人で部屋の中で魔導具用の魔導陣を作ったりと、結構ゆったりとした時間を過ごしていたのだ。


 まぁ、元々安倍くん達とはそこまで仲が良かった訳じゃないしね。

 そういう意味でも、ずっと一緒にいたらそれはそれで気まずいというか、奇妙な沈黙が流れたりして居心地も悪かっただろうっていうのが本音だったから、これはこれで気楽だった。


「私お風呂入ってくるわね。旦那様も一緒にどう?」

「先に入ったのでお気遣いなく」

「もう、つれないのね」


 流れるように誘惑してくるアルヴィナに対し、僕もまた流れるように誘惑を躱す。言葉とは裏腹にあまり気にした様子もなく、アルヴィナは居室に併設されている、個人用のお風呂から聞こえてくるシャワールームへと向かった。


 聞こえてきたシャワーを浴びる音を耳にしながら、あまり積極的過ぎるのもどこか心が醒めるというか、慎みって大事だなとか思ってしまう辺り、意外と僕は枯れているんだろうか。


 本音を言えば、テオドラと話した結果、アルヴィナがどうしてあんな態度を取るのかはなんとなく想像がついている。

 スタイルも良く、出る所も出ていて妖艶さすら感じさせるアルヴィナを相手にドギマギしなくて済むのは、そういった好意の裏側にあるものを明確に理解してしまっているからだ。

 決して枯れている訳ではないんだよ、うん。きっと。


 ともあれ、相変わらずウラヌスに表示してもらっている魔導陣を眺めながらベッドの上で胡座をかいていると、何時の間にやらお風呂から上がったらしいアルヴィナが気配なく近寄ってきて、後ろから抱きついてきた。

 リティさんも似たような事をしようとしてきたけれど、さすがにアルヴィナに本気で気配を消されてしまっては、気付けなかったらしい。


「お・ま・た・せ」

「別に待ってませんけど」

「……もうっ、少しぐらい反応してくれてもいいと思うのだけれど」


 からかい混じりに声をかけてきたアルヴィナが頬を膨らませながら僕から離れ、僕は僕でウラヌスに表示を消してもらってからアルヴィナへと振り返り――そのまま視線を泳がせた。

 僕だって健全な高校生――まぁ感覚としては、だけれども――な訳で、薄っすらと肌が透けるような黒いナイトドレスに身を包んだアルヴィナの姿は目に毒だ。さっきの感触もまだ残っているような気がして、落ち着かない。


「えーっと、もうちょっと隠してもらえます?」

「イヤよ。お風呂の後にちゃんとした服を着るなんて、肩が凝るもの」

「……そういう問題じゃないんですが」


 奔放というかやりたい放題と言うか。

 そんなアルヴィナからつつっと視線を逸らしたまま、気まずさを誤魔化すように続けた。

 譲るつもりがないらしい態度にため息を漏らしつつ、僕は視線を彼女の目へと向けた。


「魔王であっても、政治はしっかりと行うんですね」

「ふふ、どういうのを想像してたの?」

「魔族らしく、実力至上主義の恐怖政治とか、ですかね」

「そんな真似しないわ。世界に爪弾きにされた私達は、仲間を見捨てるような真似はしない。……人族と一緒にしないで」

「……すみません、言葉が過ぎました」

「……ううん、いいのよ。少なくとも、旦那様のはただの軽口だったもの。私の方こそ、ごめんなさい」


 軽口だけれど、失言だった。

 アルヴィナが一瞬だけ露わにした怒りは、決して間違ったものじゃない。

 魔族は大事な家族、守るべき存在なのだろうと解る程度に、今の感情は本物だった。


 でも、おかげで納得できた点もある。

 なるほど、なのか――と。


「ところで、そろそろ僕には僕の部屋を与えてほしいんですけど」

「旦那様ってば、もう私に飽きたの……?」


 傷付いたとでも言わんばかりの表情を浮かべてみせるアルヴィナの姿に、再びため息が漏れた。


「別にそんな風に振る舞ったりしなくたって、僕はあなたの事を嫌ったりはしてませんし、嫌う事もないですよ。裏を返せば、そう簡単に誰かを好きになれるような性格もしてませんし」

「……そう。テオから聞いたのね」

「あなたを殺さないと世界の終焉が訪れる事は聞きましたよ。それを考えれば、あなたが僕を振り向かせようとするのはなんとなく分かります」


 どうでもいい相手をいきなり殺せと言われたって、当然ながらにそんな特殊な環境に育ってきた訳でもない僕が、「了解しましたー」とでも言いながら気軽に手を出せるはずもない。

 ならば憎んでもらえばいい、殺されるように仕向ければいいのかもしれないけれど、他人を殺す程に憎むなんて、そんな一朝一夕でできるはずもない。


 だからアルヴィナは、僕を振り向かせる事にしたんだろう。

 己の美しい容姿を利用して、肢体を惜しげも無く晒して、愛した相手だからこそ、願いを叶えてあげたいと思わせるように。

 同時に、決して嫌われないように振る舞う必要もあって、こうも積極的に攻めてくるんじゃないかなと僕は踏んでいる。


 好意の裏側にある、そうした計算。

 そうまで自分を利用しようとするのも、さっきも垣間見えた守るべきものの為、という事なのだろう。


「あなたも、テオドラさんから聞いたんじゃないんですか?」


 僕がアルヴィナを殺さず、標的を〈管理者〉へと絞っている事はすでにテオドラから聞いているはずだ。

 確認するような問いかけに、アルヴィナは――表情に影を落とした。


「……無理よ。〈管理者〉に戦いを挑むなんて、できっこないわ」

「それはどうですかね。むしろ可能性としては、あなたを殺す以上にそちらの方に傾いていますし」

「え……?」

「僕がそっちの道しか選ぶ気がないから、です」


 アルヴィナを殺す事で世界を救う方法と、〈管理者〉をどうにかしてしまう方法。どちらに可能性が残されているのかと言えば、僕が前者を選ぶつもりがない以上、前者は有り得ないのだから。


 どちらの選択肢を選ぶのも、結局は僕が関係している。

 どちらを選ぶかは、僕次第だ。


「……どうして」

「はい?」

「どうして、そこまでするの……?」


 先程の演技とはまるで違う。

 今にも泣きだしてしまいそうな顔で、アルヴィナは僕に向かって縋るように手を伸ばしながら、問いかけてくる。


 ――自分が死ねば、全てが助かる。

 それってあんまりにも残酷で、救いようもない現実だ。

 自分がいる、ただそれだけで不幸が確定するようなものなのだから。


 僕がアルヴィナの立場だったら、諦めたりもしただろう。

 自分が助かるという道を欲しがれば、それは仲間を困らせてしまうだろうし、同時に仲間さえも巻き添えを喰らわせてしまうような願望でしかないのだから。


 さっきの一幕を見た限り、アルヴィナは魔族を守るべき家族として見ている。


 だから、受け入れた。

 自分の死を。

 自分が願望を抱けば、それを応援してくれるかもしれないけれど――巻き添えにしてしまうから、そんな最悪を回避する為に、自分が死ねばいいと思っている。






 伸ばされた手を握りしめる――なんて事はなく、僕は手のひらを上に向けてアルヴィナが届く範囲に向かって伸ばしてみせた。






「――だって、ムカつくじゃないですか」

「へ……?」

「なんでもかんでも思い通りにして、高みの見物をしているような〈管理者〉なんて存在が、僕は気に喰わない。僕だって多少は他人を嵌めたりもしますけど、相手が敵でもない限りは悪戯の範疇で済ませますし、悪いと思ったら謝ります。でも、〈管理者〉にそんな感情があるようには思えない」

「……えっと……?」

「だから、潰したいんですよね、僕が。そんなフザけた相手を見過ごして、やりたい放題やらせるのは癪に障るんですよね。――だから、協力してもらえます?」


 ――僕は主人公体質な熱血漢でもないし、救いを求めて伸ばされた手を取ってあげられるような性格はしていない。


「協力……?」


 ――誰かの為になんていう大義名分で動くのは、僕らしくない。


「僕が、僕の為に〈管理者〉のシナリオを叩き潰すんです。その為に、あなたには協力してもらいたいんです。これは僕のワガママで、僕の目的です。自己満足と言っても過言じゃない。けれど――」


 ――それが結果として、犠牲を生み出さない方法であるというのなら、迷う理由なんてない。


「――魔王アルヴィナ。あなたにとっても、決して悪い話じゃないはずだよ」


 僕の言葉に戸惑い、最初は呆然としていたアルヴィナが、俯きながらゆっくりと僕の手に触れようと再び動き出す。


 逡巡して、自分から触れてしまえば、きっと僕や守るべき魔族を巻き込んでしまうからと考えて――けれど、〈管理者〉を打倒できるのなら報われるのだからと悩んでいるらしい。


 ここで僕が少し手を伸ばしてしまえば、すぐにでも掴める距離だ。

 けれど、僕は手を伸ばしたりするつもりはない。


 百パーセントの勝ち目がある訳でもない。

 これはあくまでも提案。

 手を取ったところで、成功するとは言い切れないのだから。


「……私は……」


 アルヴィナの細い指が、僕の手に僅かに触れた。

 くしゃくしゃになりそうなぐらい顔を歪めていて、魔王の面影どころか、どこかまだあどけなささえ感じるような顔をあげて、それでも笑ってみせた。


「……願って、いいのかな?」

「別に誰かに遠慮するようなものじゃないと思うし、いいんじゃないかな」






 握られた手が震えている事に気が付きながらも、僕はただ微笑んで――続けた。





「じゃ、そういう訳だから別の部屋でよろしく」

「…………へ?」


 ……ん? 交渉の始まりは別の部屋に移動ってってところからじゃなかったっけ?









 ◆ ◆ ◆









 偶然にも――ううん、きっと〈管理者〉の仕業だろうけれど――人族の棲まう世界と、私達魔族が棲まう魔界が繋がってしまって、私達は互いに不干渉なまま永い時を生きてきた。

 なのに、かつて〈星詠み〉が人族に与えた「魔族を滅ぼす」という『星の記憶』は、世界に大きな争いを生んだ。その戦いに身を投じていたのが、あのリュート・ナツメという勇者と、魔族を率いて人族を攻め、王を僭称した先代魔王だ。


 その戦いは、勇者の勝ちで幕を下ろした。

 そもそも魔族の王を僭称した先代魔王は、決して魔王として全ての魔族を統率していた訳でもなかったのだから、ある意味それは必然だったのかもしれない。


 そのおかげで一時的に平和が訪れたけれど、それも永くは続かなかった。

 再び攻め込んできた人族によって多くの同胞の命が奪われ、本来なら群れる事すらなく気ままに暮らしていた私達魔族は群れ、魔王が生まれたのだ。


 先代はともかく、今代である私に限って言えば、魔王という存在を生み出したのは、紛れもなく人族だったのだろう。


 私が魔族を率いるようになったのは、誰よりも力に恵まれたからだった。

 いつからかその数は増えていて、気が付けば私は王として――魔王として据えられ、崇められた。


 別に、それがイヤだった訳じゃない。

 明確な旗印が必要だって事は私にも分かっていたし、それには事――つまりは直結して強さが求められるものだから。


 私が万が一にでも死んでしまったら、その瞬間に魔族は進むべき道を見失い、統率された軍隊を相手に抗うのは難しくなってしまうから、当然死ぬ訳にはいかないのだ。

 でも、強さで得た魔王という立場だけれども、別にそこに固執した事はないし、誰にも渡さないなんて言うつもりもない。


 ただ私しかいないから、私がやるだけ。

 それだけが、私が魔王という立場に留まる唯一の理由。みんなを守れるのなら、別に魔王なんて大仰なものじゃなくたって良かった。


「――こんな夜更けに、いかがなさったのです?」

「うん、ちょっとテオと話したくなって」


 真夜中に突然部屋へとやって来た私を、テオは嫌な顔一つせずに部屋へと招き入れてくれた。


「そんなに、ユウ様と部屋が別々になってしまって寂しいのですか?」


 椅子に腰掛けた私の前に、いつものハーブティーを注ぎながら声をかけてきたテオの声は、少しばかりからかうような色を滲ませていた。


 先代勇者と魔族の戦いの後、虐殺された魔族や多くの命が奪われる戦乱が続く時代を齎したのは、確かに〈星詠み〉の一族。

 元を辿れば〈管理者〉が描いた『星の記憶』が原因だと言うのに、テオは〈星詠み〉の一族の唯一の生き残りとして、魔族側を救えないかと考えて私達の味方になってくれた。


 そのせいで、魔族として扱われるようになってしまったけれど、「人族であるよりは光栄なぐらいです」とあっさりと受け入れてくれた。

 どうも彼女は彼女で、人族側には色々と愛想が尽きていたらしい。


 そんな彼女がこんな風に軽口を言ってくるなんて、私が世界の終焉の鍵になる前以来だ。

 思わず驚きに目を瞠った私は、小さく笑った。


「そんな事ない……って言ったら、嘘になるのかもね」


 ――旦那様は知らないだろうけれど、私は旦那様の存在に惹かれている。

 どうしようもない絶望しか残っていない中に現れた、〈管理者〉の描いたシナリオさえあっさりとひっくり返してしまう、そんな存在に。


 どうもただ単純に、私が旦那様の気を引く為だけに色仕掛けをしたなんて思っているみたいではあるのだけれど、私は本気だったりする。

 色々と勘の鋭い旦那様だけれども、どうもそういう部分だけは鈍いらしい。


「そうやってアルヴィナ様が柔らかく微笑むなんて、珍しいですね」

「あなたがからかってくるのだって、十分に珍しいわよ?」

「ふふっ。そう、かもしれません。出口が見えない道を歩き続けて、初めて希望らしい希望が見えたのですから」

「あら。いっそ未来なんて視えない方がいい、なんて言ってなかったかしら?」

「決められた道筋を歩み続け、何をしても変わらない未来に捕らわれていた私は、確かにそう考えていましたよ。いっそ視えない方が、絶望しなくて済むのではないか、と」

「……意地の悪い言い方だったわ。ごめんなさい」

「いえ、こうして笑い合えるようになったのは、喜ばしい事です」

「……そう、ね」


 いずれ『星の記憶』を裏切り、自由を手に入れる。

 そんな決意もあったけれど、確かにテオが言う通り私達は出口の見えない暗い道をただただ進み続けているだけだったもの。


 ――本当に成功するのかも分からない。

 ――もしかしたら、意味がないのかもしれない。


 そんな感情を抱き続けながら過ごす日々は、あっさりと心を蝕んできた。


「旦那様の力があれば、どうにかなるかもしれない、のよね」

「えぇ、可能性は以前までとは比べようもない程に」

「でも、もしかしたら失敗するかもしれない」

「アルヴィナ様……」

「都合のいい事ばかりを考えられないわ。テオ、もしその時は――――」


 ――なんとしても、私を殺して。

 そう続けた私の言葉に、テオは僅かに逡巡してから――それでも強く頷いた。


「……でも、そうはならないと思います」

「どうして?」


 まるで必然を語るように、テオは私の疑問にまっすぐと答えた。


「どんな不条理が道を遮ろうとも、あの御方ならば横道や脇道から悠々と乗り越えていくような、そんな気がしますから」


 そんなテオの言葉に、思わず私もまた苦笑してしまう。


 テオの言う通り。

 エキドナに殺されてもおかしくないはずなのに、レベルだって上がらない、ただの雑魚に刃物を刺されて死にかけていたと言うのに、それでも何度だって私達の邪魔をして、『星の記憶』すら覆してきた。


 だから私は、旦那様に本気で惹かれている。

 不条理を物ともしない、どんな事があっても進み続ける存在に。

 自分を殺してくれと、そんな理不尽を要求していたはずなのに、自分勝手だとは思うけれど――私は希望を見てしまったから。


「――ただ、お気をつけください」

「ん?」


 先程までの緩んだ気配から一変、テオはまっすぐと私を見つめた。


「敵は〈管理者〉だけではありません。〈管理者〉によって操られる者、神々によって尖兵と化す者もいるやもしれないのです。ユウ様の命を狙う者は、決して少なくないはずですから」





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