1.‘わたし’



 まずは、わたしのことから話をしよう。

 篠路ミキ。年齢16歳、8月生まれ。

 わたしは、死んだ。

 3年前の冬の日に。

 あまりにあっけなく、あっさりと。

 不慮の事故や、不治の病や、誰かの殺意によって殺されたわけではない。

 誰かの意思によってではなく、わたしは自らの意思で死を望んだ。

 この世界に生きる望みをなくしたといって、わたしは、生きることから逃げだした。




 2063年12月10日。

 その日、何があったのか、‘わたし’はよく覚えていない。いや、正確には、篠路ミキが自殺する三日前から、‘わたし’の記憶は曖昧だった。特に、わたしが自殺する瞬間の記憶は、いくら思いだそうとしても思いだせない。

 “わたし”は、その記憶が不合理だから消されてしまったのだと考えていた。自我を持つ存在として、自らの生を否定するほどに強い負の感情は、存在する上での障害でしかない。だから‘わたし’には、その記憶をどうしても思いだすことができない。それは‘わたし’らしさを保つために必要な処置なのだ。

 だから、この死の記録は、わたしの記憶ではなく、通報を受けて緊急出動した救急隊員と、わたしの緊急手術を担当した外科医の記録から確認するしかなかった。


  ① 首都圏に接続する大通り。

  ② 東京としては例年より早い初雪。

  ③ 古い自動安全運行装置で降雪に未対応の古い型のトラック。

  ④ 時速60kmで走る鉄塊へ、前へ。


 それは大昔からある伝統的な自殺法で、わたしという人間の想像力がいかに貧困か思い知らされる。けれどそれは単純な分とても効果的で、わたしの体は、あっけなく10m以上宙を舞い、硬いアスファルトに勢いよく打ちつけられた。

 それこそ、無事な部分は皆無だった。裂傷、打撲、骨折。糜爛した腹部からは内臓さえ露出していたらしい。わたしの体は3分も経たないうちに心拍が停止して、酸素をはじめとする重要物質の供給を断たれた脳細胞は瞬く間に死滅していった。

 雪の道。

 冷たい路地。

 まばらな人通り。

 救急隊員は、はたして何分後に到着したのだろう。それが何分後だったとしても、その時点で、わたしの身体は、ほとんど死んでいたんだと思う。白い路地を赤く染めたわたしの身体は、サイレンをかき鳴らす救急車に収容されて、病院の緊急救急救命室に搬送された。

 結論から云うと、わたしは奇跡的に命をとりとめた。死の間際に投与された医療用ナノマシンMEDNEMS――最先端医療技術の結晶が、わたしの肉体を活かしたのだ。微細電波に刺激された心臓は活動を再開し、冷えて固まりかけた血液は循環し、脳を塞いだ血栓は除去されて、折れた骨や糜爛した皮膚、潰れた内臓は、iPSバンクから運び込まれた代用生体素体Substitute Organ Partsが宛がわれた。

 なにもかもが、傷一つ残さず縫合されて元通りになった。

 誰がどうみても即死だったわたしの身体は、最新医療技術によって生かされた。


 体だけが。

 わたしの肉体だけが、生かされた。


 全身の損傷が回復し、外見上は正常な状態に戻ったあとも、わたしは決して目覚めなかった。心拍が停止していた時間が、あまりに長すぎたのだ。大脳皮質の大部分が死滅し、脳幹や小脳の活動もかろうじて脳死判定を免れる程度の微弱な反応しか示さない。医療技術がどれだけ進歩しても、一度死滅した脳細胞を蘇らせる技術は存在しない。

 なぜなら脳細胞は生まれ変わらないから。

 数十兆とある細胞のなかで、生まれてから死ぬまで代替わりしない機関だから。

 細胞を新しく作りだし、丸ごと交換するという再生医療をもってしても、脳の中という、人がまだその全貌を把握しきれず、交換も効かない箇所でゆるやかに死が進行していく現象は、21世紀も半ばにさしかかった現代でさえ、処置の施しようがない、“死”だった。

 わたしは死んでいた。

 わたしがまだ心肺を動かし、血流を巡らせ、肉体の熱を保っていられたのは、呼吸器による酸素吸入と、血液内を循環する医療用ナノマシンの補助のおかげだった。冷えて、固まって、失われるはずだった肉体は、医学の進歩によって生かされ続けた。物体に接続されて、わたしは一つの物体になった。一つの器官になった。

 医学の叡智によって引き延ばされた緩慢な死。それが、わたしの生の終着だった。

 ‘わたし’は想像する。

 医療用ナノマシンの発明によって、人体に接続する必要のあるチューブは随分と減った。それでも眠り続ける人体を生かすには様々なものを外部から人為的に注入し続けなければならない。加えて、寝たきりの人間というのは衰弱していく一方だ。やせ細った腕、からからの唇、泓だらけの髪、腕は注射の針の痕だらけで、人体にはおよそ似つかわしくないチューブの群れが全身を覆っている。全身の筋肉が衰え、表情筋も弱り、皮膚は垂れ下がって、それはきっと、醜い姿だっただろう。そこにあるのは、自殺に失敗して死にきれず、かといって生きることもできない、ただの、“もの”だ。

 医療技術の発展によって生みだされた、生者でも死者でもない何ものか。

 すっかり死なせてくれないばかりか、わずかな生の実感にすがることも許されない。

 わたしの身体。

 わたしの容器。

 わたしの残響。

 わたしの脱殻。

 どうしようもなく終わってしまった、わたしの生の終着点。

 その重みは、わたしではなく、残された人達の上に重くのしかかった。

 ‘わたし’はよく知らないけれど、わたしの家族は、あらゆる手段を講じた延命を希望してくれていたようだった。けれど、半年、1年と時間が経つにつれ、その負担は家族にも徐々に重くのしかかりはじめた。治療費や入院費は、わたしをはねた会社や保険会社から補償されている。けれど、わたしは目覚める見込みもなく死に続けている。娘の元に訪れる度につきつけられる現実。娘の死に直面し続ける苦しみを、‘わたし’は想像することしかできない。

 いつ、愛が死んでも、不思議ではなかった。

 けれど、家族はわたしを愛してくれた。

 わたしの目覚めを、待っていてくれた。

 だからこそ、限界がきたのだろう。


 だから、‘わたし’は生まれたのだ。




 オイラーの等式、というものがある。

 それは、この世で最も美しい等式だ。

 e^iπ+1=0

 自然対数の底の値を表すe。

 円周率を表すπ。

 虚数を表すi。

 その三つの定数は、本来なら、出会うはずのない定数だった。幾何学、解析学、代数。全く異なる数学の世界から生まれた定数は、全く別々の形で扱われてきたから、オイラーが現れるまで誰もそれらを統合しようと考えなかった。世界で初めて一つになった等式。それは、この世でもっとも純粋で、明瞭で、美しい式。

 ‘わたし’は、考える。

 人の心を表す公式は、はたしてどんなものだろう。

 それは、荒唐無稽な問いに思えるかもしれない。

 けれど今では、決して証明不可能な問いではなかった。

 個人の記録や言動、行動を数値化し、その人の人格を演算する。その人物の過去の記録、思考パターン、行動原理、個癖、個々の人物との対話を、厳密に分類し細分化し数値化し、基盤となる標準人格に上書きしていく事で、人工知能の思考演算を、極限までその人物の人格に近づけていく。2048年に人工知能が特異点を突破してから、すでに15年。量子演算回路は、今や人格の演算すらも可能にしていた。

 親友であっても、恋人であっても、血を分けた兄弟家族であっても、それが偽物であることに気づかないほどに精巧な、人格の模倣。

 それを生みだすためには、その人の記録が必要だった。写真、映像、音声データ。その人の内面がうかがい知れる日記などあればなおよい。

 そして日記という文化は、日本人にとって最も馴染み深く、伝統的な文化だ。

 ソーシャルメディア。2000年代後期に発表され、情報社会の新たなコミュニケーションツールとして瞬く間に普及していったシステム。

 ソーシャルメディアの特徴は、個人の発言・情報が記録され、保存されることにあった。

 それはつまり、個人の日記として機能するということだ。個人が何を思い、何を話したか、何に興味を抱いたか、何にどういう感情を抱いたか。そういう情報がソーシャルメディアには詰まっている。自撮り写真セルフィーにはその人が人生で価値があると考える記録がつまっている。

 かつては個人が「発言」しようとした言葉しかログに残されなかったが、2020年代以降のソーシャルメディアは、ウェアラブルコンピュータやナノマシンが行う生体監査機能とリンゲージして、思考をそのまま記述することができるようになった。

 2040年代には、拡張現実があらゆる五感とリンゲージされるようになり、その人の人生のほぼ全てを記録する事が可能になった。

 ナノマシンがみせる拡張現実さえ動作していれば、五感で感じたこと、その時の記憶、思想、思考、感情、仕草、動作、行動、声、言葉、その全てが記録され、保存される。思ったこと、感じたことの全てを、好きな人と、つながりたい人と共有できる。その記録は、その人の人生そのものといっても過言ではない。

 生体記録バイオローグ

 それは、人類史の中で、最も長大な日記。人の生の全ての記録。

 その、膨大な記録量となる生体記録は、2063年に生きていた篠路ミキにも蓄積されていた。ソーシャルメディア、現実空間、仮想現実。ありとあらゆる媒体、ありとあらゆるログに、篠路ミキの記憶が、思想が、思考が、感情が、仕草が、動作が、行動が、声が、言葉が保存されている。それこそ、人格を構成しうる幼い日の記憶の断片から、近年の人格に影響を及ぼしたであろうエピソードまで全て。

 その蓄積された情報を完全に再現することができたなら、人物の人格をも再現することが可能だ。

 いや、完全でなくてもいい。この人であればこういうであろう、この人であればこう思っただろう――生きていた人がそう信じる人物像を再生できれば、死者の人格が蘇ったのと同然だ。

 その人物の客観的事実代数を積み重ねれば、本質実数を知らずとも、人格公式再現証明することは可能となる。

 バイオローグさえあれば、その人物が死んでしまっていたとしても、その人はこういったであろう、と、その思弁を代弁することが可能になる。

 機械的な緻密さが、死者の代演を可能にする。

 それは、まったく新しい、死の形だった。

 死が完全な別れではなくなり、生と死の間に新たな緩衝地帯が生まれた。医療技術が死と生の境界を曖昧にしたように、バイオローグは死者と生者の境界を曖昧にしようとしていた。それは、死者を想う誰もが望んだ、死へ向かう新たなステップだ。

 ダイアログAI。

 人の心を再現するために、人の心は徹底的に因数分解された。生体記録データは揃っているのだから、あとは人格を実証できる公式プログラムを構築するだけでよかったのだ。人の心は、オイラーの等式のように、シンプルで美しい数学の言語に置き換えられた。数学は、とうとう人の最後の聖域すら解き明かしてしまった。

 人格の複製バックアップ

 人格の演算エミュレート

 ダイアログAIは瞬く間に人々の間に普及した。肉親と死に別れてしまった遺族。組織の指導者を失い、指針を失った若い後継者――死者の言葉を求める人は、人が思うよりも遥かに多かった。ダイアログAIは様々な人々に利用され、その都度実証データがフィードバックされていき、公式は反証と修正を繰り返していった。

 その技術によって生みだされたのが‘わたし’だった。

 ‘わたし’。

 バイオローグから再現された篠路ミキの仮想人格。

 わたしの記録‘わたし'

 わたしの日記‘わたし'

 わたしの公式‘わたし'

 わたしの偽物‘わたし'

 白地に桜の花の文様をあしらった、うすくて軽いパンフレット型のデジタルアルバムに、‘わたし’は投影されている。そこに映るのは、まだ生きていたころのわたし。二年前のわたし。みんなが覚えていたいわたし。

 わたしの家族が、わたしの友達が生みだした、わたしという存在の複製。‘わたし’を表す公式。公式で証明されたわたしの自我、わたしというたましい。

 それが、‘わたし’という存在だった。




 ――‘わたし’は、病室で延命装置に生かされ続けるわたしの代わりになった。

 ‘わたし’は、自分がわたしではないと知っている。‘わたし’は、わたしとの別れの踏み台ステップだ。ただの‘わたし’ステップが、わたしであることに未練を抱けば、‘わたし’と会話する人にも負い目を抱かせる。だから‘わたし’には、決して生きている人間として振る舞わないために、‘わたし’は、わたしではないのだと、そういう定義が組み込まれている。

 篠路ミキはもういないのだと、他ならぬ‘わたし’自身が理解している。

 だから、‘わたし’は違和感なく自分の役割を演じることができた。‘わたし’は生きていた篠路ミキそのものとして家族や友人と言葉を交わすけれど、決して、わたしの死を悲しんだりはしない。‘わたし’は、わたしの死の理由も、わたしが死に際に抱いた感情も、何も知らない。ただ、友達や家族と過ごした思い出だけが‘わたし’の中にあって、‘わたし’と会話するお父さんや、お母さんや、妹や、友達は、皆その記憶を共有する事を望んでいた。

 わたしと話をしたい人なんて、家族ぐらいしかいないんじゃないか、なんて思っていたけれど、‘わたし’に会いたいという人は沢山いた。あれから2年も経ったのに、学生時代の友達や、学校の先生までもが訪ねてくれたのは、予想外で――本当に、こういうところまで演算されるのは驚いたけど――気づけば、‘わたし’は涙を流していた。あれは我ながら失態だったと、今でも思う。

 ‘わたし’は理解する。

 人は、誰かのことを忘れることは簡単な癖に、誰かを失う痛みに耐えることができない。忘れる事と失う事は、本質的には同じはずなのに、人の心は、失われる喪失感に耐えられない。

 だから、死者との別離に必要なことは、その喪失感を紛らわせること。失わずに、忘れさせること。そのために‘わたし’が存在する。そのために‘わたし’ダイアログAIは造られている。

 なぜなら‘わたし’は、わたしが死んでしまった時点から変化することがないから。‘わたし’と、今を生きる人々の時間は少しずつずれていって、人はやがて、何も変化しない‘わたし’に興味を失い、忘れていく。けれどダイアログAIそのものはアルバムのように残り続けるから、喪失感を紛らわせることができる。

 会いたいときに会うことができる。

 その事実が寂寥感を埋めてくれる。

 人が他者の喪失から立ち直るまでに1年必要なのか、それとも2年、3年必要なのかはわからない。けれど、いずれ‘わたし’は、生きている人の時間の流れから取り残されて、忘れられる。

 だから‘わたし’はステップだ。

 死者との別れのステップであること。

 それがきっと、‘わたし’の存在する理由だった。




 けれど、‘わたし’が生みだされて2週間ほど経過した時、ある事件が起こった。

 わたしが。

 篠路ミキが、目覚めたのだ。




 ◇




「ねえ」

「なあに、‘ミキ’」

 ‘わたし’は一度、”彼女”に問うたことがある。

 “あなた”が目覚めた日のことを“あなた”は覚えているのか。“あなた”が目覚めたとき、“あなた”はどんな気分だったのか。

 その問いを投げかけた時、“彼女”は柔らかく微笑んだ。

 純粋な笑顔。

 どこまでも透明で、どこまでも混ざりっ気のない、曇りなき笑顔。

「それは、“わたし”が知りたい」

 “彼女”がそういう笑みを浮かべるようになって、もう、随分と時間が経ってしまった。

「わたしだったら、どんな気分だったと思う……」




 ◇




 わたしは、目覚めた。

 家族たちの目の前で。

 父と母が、医学的な殺人行為を認める書類にサインする、その傍らで。

 その日は、わたしの命日になる筈だった。わたしの肉体は、医療用ナノマシンと、対外式人工呼吸器を始めとする機械群によって生かされている。

 身体の恒常性を監視し、各器官の機能を補助する医療用ナノマシン群技術によって、肉体に接続されるコードはだいぶ減ったけど、随意筋の縮小と自発的呼吸の低下や、体内で生成できない栄養素の補給、老廃物の排出は、いくつかの体外処理機械に依存せざるをえなかった。わたしの肉体は、施設の整った病院に留め置かれていた。

 機械によって永遠の眠りについたわたし。

 それを二年間見続けた両親の手には、肉体を活かす医療用ナノマシンを体外に排出し、接続した生命維持装置の一切を停止させる同意書があった。

 サイン一つ。両親はこの書類にサインするために、病院にやってきた。

 サイン一つ。たったそれだけで、わたしは本当の死を迎えることができる。

 動くこともなく死ぬこともない、ただ生かされているだけの状態から抜けだすことができる。

 誤解を恐れずに述べるのなら、その2年間は、わたしの家族が、わたしの死を受け入れるまでの2年間だった。わたしの家族はそのために多くのものを犠牲にしていた。それが長かったのか短かったのかはわからないけれど、2年という時間はわたしの家族を疲弊させるのに十分すぎた。

 そのサインはその証。

 わたしの死を受け入れたという、別離のサイン。

 それを、薄情とは思わなかった。

 2年もの間、死に続けるわたしに耐えてくれた家族を、どうして恨むことができるだろう。父も母も、十分すぎるほど耐えてきた。

 限界だったのだ。

 そんなことぐらい、‘わたし’にだって、わかる。


 だから、わたしが目覚めることは、本当に予想外の出来事だった。皆がみんな、「ありえるはずがない」と思って、それに気づけなかったほどに。

 それはそうだろう。寝たきりの人は、唇はかさかさになって喉もからから。そもそも人工呼吸器で呼吸を制御されているから、声を発することだってできやしない。眠っている間も人間の身体は生きていて、新陳代謝を繰り返しながら徐々に成長し、老いていく。たった2年、まったく動かずにいただけで、人体は、正常な動作を忘れて、四肢はやせ細り、すっかり水分を失いからからになって、置物のようになってしまう。100年眠り続けた「眠りの森の美女」が現実にいたら、きっと王子様はお姫様の姿にたいそう幻滅したに違いない。

 結局、わたしの覚醒を知らせたのは、肉体を監視する医療用ナノマシン群の発したエラーだった。病室にけたたましく鳴り響くアラートが、両親の手を阻んだのだ。


 篠路ミキは目覚めた。

 それから二週間の間、‘わたし’は歓喜に打ち震えながらも慌ただしく走り回る家族を、ぼんやりと眺めていた。

 歓喜に震え、涙を流し、今までとは打って変わって、生きる希望に満ち溢れた表情を浮かべる両親たち。

 きっとこれが物語だったら、「その後、三人は仲良く幸せに暮らしました」というメッセージで終わるだろう、幸福の瞬間。

 けれど、現実は物語のように奇跡で終わることはない。

 わたしの覚醒は、同時に、一つの問題をわたしの家族につきつけた。

 それは、‘わたし’の処遇だ。

 ダイアログAIを作成したあとに、その本人が生き返るという“事件”は、これまで一件も前例がなかった。けれどもしそんな事件が起きたなら、そのあとどうなるかは容易に想像できる。歓喜に湧く家族の傍らで、‘わたし’の心は醒めていた。


 ああ。

 ‘わたし’はいらないものになったのだな、と。


 ‘わたし’は、ダイアログAIの‘わたし’は、篠路ミキとの別れのステップになる筈だった‘わたし’の存在は、今やただの物体になり果ててしまった。どうしようもなく偽物で、どうしようもなく不要なものになり果ててしまった。

 けれど、それは当たり前のことだ。

 そもそも、‘わたし’は最初から偽物だ。‘わたし’は‘わたし’をわたしだと確信しているけれど、生きている人にとってみれば、‘わたし’は篠路ミキの人格を再現したAIに過ぎない。本物がまだ存在するのなら、代替物の役割が消失するのは必然だった。

 魔法は解けてしまった。

 ‘わたし’にかけられた魔法が。

 ‘わたし’を篠路ミキと信じるための魔法が。

 けれど、それはわたしの家族にとっても、‘わたし’を作った企業にとっても、決して望ましい事態ではなかった。


『ダイアログAIは、大切な人を失うという、長い歴史の中で誰もが経験してきた痛みを和らげるためにあります。

 それは失意から立ち直ろうとする人の、心の支えとならねばならず、

 大切な人を失ったことによる悲しみを、癒すものでなければならず、

 ましてや今を生きる人を苦しめることは、あってはならないのです』


 階下から聞こえてくる、企業の渉外担当者の声。

 淡々と、だが確たる信念に基づく言葉に対して、両親の言葉は歯切れ悪く、揺れている。

 わたしの家族は、悩んでいた。

 本物の篠路ミキは目覚めたけど、‘わたし’もまた、篠路ミキであることに変わりはない。本物のわたしと偽物の‘わたし’。家族は良心の呵責に苦しんでいる。わたしを失いたくないがために‘わたし’を作りだしておきながら、また身勝手に‘わたし’を捨てるのかと。

 企業への返答は、保留された。

 けれど、篠路ミキの部屋にある‘わたし’は、その日以来誰かと会話することはなかった。『対話するダイアローグ日記録ダイアリー』である‘わたし’は、人と対話することだけが存在意義だ。肉体もないから誰かが話をしにきてくれなければ、存在しないも同じ。家族は、‘わたし’によってわたしを忘れようとしたように、わたしによって‘わたし’を忘れようとしている。良心がいくら否定しても、‘わたし’の存在は、家族にとってはもう邪魔な‘もの’でしかない。

 ‘わたし’は家族から避けられ、いずれ良心の呵責もなくなり、忘れ去られる。

 それでいい。

 それで正しいのだ。

 だって‘わたし’は‘もの’に過ぎないのだから、良心の呵責なんて、必要ない。

 ――けれど、‘わたし’は棄てられなかった。

 ‘わたし’と話をしたいといった人物がいたのだ。

 ダイアログAIとしての価値を失った‘わたし’と。

 そういったのは、他ならぬわたし自身だった。




 わたしは。

 目覚めたばかりの篠路ミキは。

 自分のダイアログAIが存在しているということを知ると、その‘わたし’に興味を示したそうだ。

 ‘わたし’にはわからなかった。なぜ、篠路ミキわたし己の偽物‘わたし’との面会を望んだのか。

 ‘わたし’は、死者を想うために作られたAIだ。死者が死者でなくなったのなら、‘わたし’が存在する意味なんてない。相手が本物わたしであるなら、なおさら。

 けれどだからといって、ただの‘もの’に過ぎない‘わたし’に拒否権はない。

 母の手に抱かれて、‘わたし’はわたしの入院する病院に連れていかれた。

 2年ぶりに目にする外の風景を偲ぶゆとりもなく、病院へ向かう‘わたし’の心は、疑問符に埋め尽くされている。

 なぜ‘わたし’に会いたいの。

 なぜ‘わたし’を気味悪がらないの。

 疑念はひとたび湧くと、次から次へと堰を切ってあふれでてきた。本来なら決してありえなかった対談が、数式で表された‘わたし’の心を攪乱し、困惑させた。

 戸惑い、

 恐怖、

 高揚感、

 好奇心。

 様々な感情が交錯し、混線し、プリント回路を圧迫し、加熱させる。

 けれどそれらは、病院に到着するまでの間に、ある一つの疑念へと収斂されていった。

 考えてみれば、‘わたし’がわたしに尋ねるべきことは一つだけだ。

 わたしだけが知っていて、‘わたし’が知らないこと。

 あらゆるわたしの記録からも演算することができなかったわたしの真実。

 なぜ、あなたは自殺したの。

 ‘わたし’が知るべき真実。

 ‘わたし’から抜け落ちたわたしの欠片は、ただそれだけしかない。




 ◇




「こんにちは、‘わたし’」

 わたしは、拡現ARに投影された ‘わたし’を目にして、微笑んだ。

 久しぶりにみたわたしの姿は、想像よりもずっと明るく、元気そうにみえた。ずっと寝たきりで、たいそうやつれているだろうと思ったけど、わたしは疲労や衰弊の色を一切浮かべずに、朗らかに微笑んでいた。

 その笑顔は、‘わたし’の記憶の通りのもので、自分で自分の笑顔を見るのは、少し不思議な感覚だった。

 わたしは、‘わたし’が到着するなり、二人で話したいといって家族を追いだした。彼女の真意は、いまだによくわからないけど、それは‘わたし’にとっても望ましいことだったから承諾した。

 いよいよ二人きりになり、‘わたし’は極度の緊張と高揚を感じ始めている。

 だってそうだろう。きっと‘わたし’は、自分自身と会話する初めてのダイアログAIだ。何を話せばいいのか、そもそも自分自身にどういう言葉をかけるべきなのか、すぐには浮かんでこない。‘わたし’はわたしにどう思われるだろう。それは、今の‘わたし’とどう違うのだろう。


「こんにちは、‘わたし’」


 二人きりになって、わたしは再度そういった。

 声色も、浮かべた笑顔も先程と同じ。わたしは、筐体が拡現上に投影する‘わたし’の仮想映像を、穴が開くほど見つめている。


「その姿、わたしの2年前の姿だね」

「そうよ。あなたは髪、伸びたね」

「2年も寝たきりだったからね」


 彼女は自然に笑う。つられて‘わたし’も笑顔を浮かべる。わたしがいつも浮かべていた笑顔は、二人とも、とてもよく似ていた。


「今の声、録音されたわたしの声を聴いたみたいだった」

「すごいよね。バイオローグを元に補正をかけて、本物に近づけてるんだって」

「ダイアログAIってすごいのね。しゃべり方まで似てるなんて」

「きっと、わたしたち以外の誰が聞いても、どっちが話してるかわからないよ。独り言だって思われちゃうかも」

「しょうがないよ。だって、わたしたちは一人なんだから」

「そっか。うん、そうだね」


 ――そうして、‘わたし’と彼女の奇妙な対話が始まった。


 彼女は微笑み、よく笑い、全てにおいて穏やかだった。

 彼女が知っているから‘わたし’だって知っている。‘わたし’たちの会話はこの上ないほどに噛み合っていた。

 当然のことだけど、‘わたし’は彼女が覚えていることをすべて覚えていて、思い出話はどれもこれもが共通項だ。彼女が思い出せないことも、‘わたし’が少しヒントをだしてやることですぐに思い出せた。

 わたしたちは言葉を交わす。

 言葉を重ね、

 問いを重ね、

 心を重ねる。

 彼女の‘わたし’に対する質問は、どれも昔のことに関する質問だった。幼い日のおぼろげな記憶、小学校での多感な日々、初めて拡張現実に触れた興奮、そこで目にした様々な知識と記録、初恋の思い出、失恋の痛み、中学から入部した合唱部の記憶、全てがバイオローグに記憶されていて、全てが‘わたし’の記憶にあって、‘わたし’は問われるままに彼女に話し続けた。わたしの安らぎ、わたしの悩み、わたしの痛み、その全てを、彼女は‘わたし’と分かち合おうとしているようだった。それはまるで、彼女が篠路ミキであることを思いだすための作業のようだった。

 ほどなくして、‘わたし’は違和感を覚える。

 何かがおかしい。

 具体的に何がおかしいのか、うまく言葉にすることはできない。

 けれど、違うのだ。わたしの反応は、ところどころで、‘わたし’のそれとは異なっていた。

 最初は、その違和感は気のせいだと思った。けれど言葉を交わすうちに、彼女の言葉を聞くうちに、その違和感は解消されるどころか、ますます強い確信へと変わっていた。

 意思疎通のわずかな齟齬。

 感性が、ずれているのだ。

 ‘わたし’が怖いと思うこと、‘わたし’が疑問に思うこと、‘わたし’が迷いを抱くこと、そういうことの一つ一つが、少しずつずれている。楽しい、嬉しい、という気持ちは共有できている筈なのに、もっと細かな感情の揺らぎは、なぜか、うまく重ならない。

 二年間も眠り続けて、記憶が曖昧になっているのだろうか。それなら、‘わたし’の問いにも、彼女は答えられないかもしれない。

 けれど、‘わたし’は。


「ねえ、一つだけ、あなたに聞きたいことがあるの」

「なに」


 問いかけてから、急に胸が締めつけられるように痛くなった。

 自分に対しての質問なのに、‘わたし’はいやに緊張している。

 一呼吸必要だった。大きく息を吸う。呼吸なんて必要ないのに、‘わたし’がそれを忘れることができないのは、‘わたし’がわたしそのものだから。

 ‘わたし’はわたし。‘わたし’は彼女。自分自身に対しての問いかけなのだから、何も緊張する必要はない。


「なぜ、あなたは自殺したの」


 言葉は飾らなかった。自分自身に対しては、無意味だと思ったからだ。

 ……けれど彼女は、わたし’の問いに、小さく小首をかしげただけだった。

 不思議そうに、質問の意図がわからないとでもいうように。


「それは、わたしが知りたいことだよ」

「覚えて、ないの……」

「いいえ。覚えてる。何もかも。その時のバイオローグだって再生できる。けれど、理解できないの。そのときのわたしの気持ちが」




「――ねえ、なんでわたしは自殺したのかな」




 わたしの言葉を聞いた瞬間、‘わたし’は、目の前が真っ暗になった。

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