第5話
⑤
和歌山県の高野山の麓、紀の川中流域の、かつらぎ町と言う名の小さな町で修一は生まれた。
修一が、高校を卒業するまで暮らした小さな借家は、南を国道二十四号線、北を国鉄和歌山線に挟まれた小さな一角に建っていた。満載の砂利を積んだダンプが昼夜を問わず国道を爆走し、年がら年中、窓ガラスは土埃と排気ガスで汚れていた。家を出ると、左手すぐに踏切があり、上下合わせて一時間に四本、蒸気機関車が近付くと信号機が《チンチン・チンチン》と鳴り、機関車が通過するたびに、小さな家の古びた土壁はミシミシと不気味な音を立て、時にはパラパラと土屑を落としながら揺れた。
貧乏が嫌いだった訳ではない。
ただ、自分の生い立ちを知ったあの日を境に、見るもの全てが薄汚れて見えた。重苦しくて、息苦しくて、修一は堪らなくこの町が嫌いだった。
「昔は織物業が盛んで、結構、活気があったんやで」
年寄りたちは、口癖のように懐かしがったが、そんな面影は爪の先ほども感じられず、若者たちは、次々と逃げるように町を捨てた。
東京オリンピックが開催されたのは一九六四年、修一が小学五年の秋だった。テレビのブラウン管の中を、モノレールが東京湾上を、首都高速が高層ビルの谷間を縫うように走り、新幹線が富士山をバックに疾走し、ゆっくりと東京駅に滑り込んで行った。
六本木の《アマンド》や新宿の《風月堂》、最先端のファッションで着飾った東京の若者は、眩いばかりに輝いて見えた。
二年後の一九六六年の六月二十九日、早朝三時四十四分、法被姿のビートルズが羽田空港に降り立った。世界のビートルズが、日本に、東京に来るなんて! 中学二年の修一は胸を躍らせた。女の子たちは泣き叫び、卒倒し、失神し、それに眉を顰める大人たちは、あれは若者を不良に陥れる伝染病だと、過激なデモや排斥運動を繰り広げていた。
日本は高度成長期の真っ只中で、時代が変わる節目を迎えていた。
修一が、自分の生い立ちを知った年のことである。
やがて、スパイダースやタイガースと言ったグループサウンズに、同級生の女の子たちが熱狂し、修一たちニキビ面の男子学生は、明星や平凡の記事の中から、ジュリーやトッポ、ショーケンと言ったスターの写真を切り抜いては、プレゼントすることで好きな女の子の気を引いた。
華やかな一面ばかりではなかった。
一九六八年、六九年の国際反戦デー、東京大学で始まった全共闘運動、ジュラルミン製の盾と警棒で武装した機動隊相手に、投石や火炎瓶で戦うヘルメット姿の学生たち。高校に入学したばかりの修一は、ただ、口をポカンと開け、テレビのニュース映像を食い入るように見つめていた。戦いの背景もその意味も、何もわかっちゃいなかった。ただ、何かにぶつかって行く、迸るまでの熱情が眩しかった。
東京は憧れだった。
東京にさえ行けば何かが変わる、変えられるに違いないと信じて疑わなかった。
高校入学と同時に、修一は友人と組んだフォークグループ活動と、カンバスに向かうことだけに明け暮れた。
勉強! 勉強! と、あれほどうるさかった母が何も言わなくなった。
どんどん下がり続けて行く、息子の成績に呆れ果てたのだろうと当時は思っていたが、今になってその理由がわかる。日々の食事にさえ困る生活だった。国立とは言え、入学金に授業料等を思えば、その負担額は母の細い腕には重かっただろう。「俺、大学には行かない、絵描きになりたい」の息子の言葉は、落胆の思いと同時に、心の何処かに、安堵の思いもあったのだろうと、修一は思う。
やがて、修一は高校を卒業した。
絵描きになりたい夢を抱いてはみたものの、当然、芸大進学なんて選択肢はある筈もなく、東京に行きさえすれば何とかなる、そんな漠然とした思いだった。
母に負担を掛けさせるわけにも行かず、とりあえず、上京資金を貯めるため、大阪ミナミの中華料理店の皿洗いのバイトをしながら、南海ホークスの本拠地、ナンバ球場内、南海文化会館のクロッキーデッサン教室に通うことにした。
隣の教室を、ある小さな劇団が稽古場として借りていた。修一と同年代の若者が多く、すぐに何人かの劇団員と仲良くなった。ある時、「近く、劇団の公演があるんやけど、群像劇で出演者が足りへんのや。出てくれへんかな?」と誘われた。演劇なんて経験がないからと、一度は断ったのだが、「別に台詞がある訳やない。後ろで立っててくれてるだけでええねん。頼むわ。この通りや」と頭を下げられ、内心、好奇心もあり、渋々の表情を作りながら、修一は首を縦に振った。
面白かった。
楽しかった。
夢中になった。
修一は次第に、クロッキーデッサン教室に通うより、隣りの教室に顔を出す回数の方が増えて行った。同時に、東京に行きたいと言う思いはますます強くなっていった。そして、それが何も絵である必要はなく、演劇でも良いんじゃないのか? と思い始めてもいた。もともと、母子家庭だからとか、私生児だからとか、そんな社会の不条理への反抗心から生まれた思いだった。しかし、それは単なる言い訳にしか過ぎず、本当は、ただ東京に行きたかっただけなのでは? 今居る場所から逃げ出したかっただけなのでは? と、今になり、検めて、歩んできた自分の人生を振り返った時、修一は思うことがある。
資金もある程度の目処が立った頃、《劇団中野小劇場》と言う東京の劇団から、ゲスト演出家として招かれた野尻と言う先生と知り合い、野尻から、「東京に来ないか?」と誘われたのを機に、修一は上京し、劇団中野小劇場の研修所に入所した。
昭和四十九年三月、修一、二十歳の時の事である。
上京し、すぐに不動産屋に飛び込み、家賃の安いこと、稽古場のある東中野に近いことを第一条件にアパートを決めた。
西武新宿線沼袋駅から中央線中野駅に続く通りの右側、高い塀に囲まれた向こうに中野刑務所があり、修一が借りた三畳一間、風呂なし、トイレ共同、木造モルタルの二階建て、各階四部屋ずつのアパート《弥生荘》は、中野刑務所と通りを挟んだ真向いにあった。
家賃六千円、一畳二千円と言われた時代だから相場である。
台風でも来ない限り、二十四時間開けっ放しの玄関を入ると、すぐ左手に二階への階段があり、階段下が一階の共同トイレ、右手の一号室が管理人室。
修一の部屋は廊下の突き当りの三号室で、軋み音とともに、焦茶色の板張りの扉を開けると、木製の簀の子が置かれた半畳にも満たない小さな三和土があり、鋳物製のガスコンロが一つ置かれた小さな流し台がある。水垢だらけのシンク、水道栓の脇には、前の住人の忘れ物だろうか、ピンクの食器洗剤があり、中身が半分ほど残っていた。
修一は靴を脱いで上がった。
上がって右手に小さな押し入れ、正面に窓がある。窓を開けると、すぐ目の前に隣りの家の壁があり、見上げると、屋根と屋根の隙間から薄曇りの空が見えた。遠くの方で、路地を駆け抜けて行く子供たちの叫び声が聞こえる。
「よっしゃぁ‼」
修一は心の中で気合を入れ、アパートを出て沼袋駅に向かった。
数分も歩けば妙正寺川と言う川があり、小さな欄干橋を渡ると、すぐに沼袋駅南口、踏切を渡った右手が北口、踏切の向こうが商店街である。
商店街に近付くにつれ、人通りが増えて来る。夕方近いこともあって、想像していたより活気が溢れている。
「商店街の中に、《一の湯》と言う銭湯があるから」
管理人のおばさんの言葉を思い出し、修一は《一の湯》を探した。《一の湯》は商店街の路地を少し入った、《魚光》と言う名の魚屋さんの向こうにあった。今夜早速、汗を流しに来るか! と修一は思った。銭湯が珍しい訳ではない。生まれ育った、線路脇のあの家にも家風呂はなかったから、よく、風呂桶片手に近所の銭湯に通ったものだ。ただ、一人暮らしでの銭湯通いは初めての経験で、直ぐに彼女を見つけての同棲生活、肩寄せ合っての銭湯通い、そんな憧れの生活を妄想し、《一の湯》の看板を見上げながら、修一はだらしなくも頬を緩めていた。
商店街で、布団一組と雪平鍋とやかん、急須と湯呑、その他、最低限の生活必需品を購入し、アパートに戻った。
押入れに古新聞紙を敷き、その上に布団を仕舞った。
やかんでお湯を沸かし、急須に茶葉を入れ、熱湯を注ぎ、畳の上に正座し、買って来たばかりの新しい湯呑で、「フーッ、フーッ」と息を吹きかけながら、淹れたての熱いお茶を飲んだ。別に、咽が渇いていた訳じゃない。ただなんとなく、買って来たばかりの自分専用の急須と湯呑で、そういうことをしてみたかっただけである。茶柱が立っている。沼袋駅南口裏のスーパーの棚の中、一番安物の焙じ茶だが、何だか、前途を祝福してくれているように思え、今まで飲んだどんなお茶よりも美味しく感じた。
色褪せた畳の上に大の字になった。
かび臭い畳の匂いがする。
今日から、ここが自分の城だと思うと、なんだか急に大人になったようで、修一は意味もなく心が弾んだ。
手を伸ばせば届くのでは? とさえ思えるほどに、天井が低く見える。いや、実際低いのだろう。ちょうど真上に、ひょうたん型の茶褐色の雨漏り痕がある。生まれ育ったあの家の天井にも、同じような形の雨漏り痕があったのが、何故か、不思議に思えてならなかった。
敷金と権利金、礼金、前家賃を支払ったら、所持金なんて二ヶ月もすればすぐに無くなりそうで、修一はすぐにでもバイト探しに取り掛かる必要に迫られていた。電車の網棚や、座席に捨てられていた新聞を拾い、幾つかの求人欄の中から、小田急ハルク地下街の《モカ》と言う名の珈琲専門店の募集を選び、電話を掛けた。コーヒーと片仮名ではなく、珈琲と漢字で書かれていたのが、何だか意味もなく、都会的でお洒落な感じがしたからである。
電話口に出たのがマスターらしく、「明日からでも良いから」と、面接もなしに採用された。電話の受け答えがやけに元気だったのが気に入ったのだと、後にマスターから聞かされた。
勤務時間は昼の休憩時間を除く、朝の八時から夕方の四時までの八時間、時給は二百三十円。
当時の喫茶店と言えば、珈琲や紅茶、その他、メロンソーダやフルーツパフェ、ピラフやサンドイッチ、ライスカレーと言った軽食まで提供する、いわゆる純喫茶が主流だった。そんな時代に、《モカ》は、店名でもあるモカやブルーマウンテンと言ったストレート珈琲を、一杯一杯、丁寧にサイフォンで抽出する、珈琲専門店の先駆けとして新宿界隈では有名だった。
修一はそれまで、インスタントコーヒーのネスカフェしか飲んだことがなかった。いや、高校一年の一九七〇年、大阪で開かれた万国博覧会、コロンビア館から土産に買って帰った珈琲を、ネスカフェ同様にカップに直接粉を入れ、口の中を粉だらけにした苦い経験が一度あるだけで、マスターが淹れてくれた、サイフォンで濾過された珈琲を初めて口にした時、「ああ! これがほんまもんの珈琲なんや!」と感動し、これでいよいよ自分も、都会人の仲間入りしたように思え、修一はその日、沼袋駅からアパートまでスキップで帰った。
モカの近くに、第一勧業銀行の新宿西口支店があり、昼の休憩時間、勧銀の女子行員がよく珈琲を飲みに訪れた。真っ赤なハートマークをあしらった白いブラウス、制服姿の女子行員が、カップに付けた口紅痕をハンカチでそっと拭う仕草は、修一には実にエレガントで、妙に艶っぽく、まさに憧れの都会の女性そのものだった。
最初はフワフワと地に足が付かず、借り物の衣装のようだった白い木綿のワイシャツ、黒の棒タイのウエイター姿も、一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎ、半年も過ぎた頃には、すっかり様になっていた。
劇団の稽古場は、早稲田通り沿いの古い雑居ビルの中にあり、日曜以外、レッスンは昼と夜に分かれていた。研修生の多くは、バイトをしながら演劇の勉強をしている者が多く、バイトの種類も様々、勤務時間帯も違い、平日は昼夜別れていても、日曜だけは昼組夜組全員が顔を揃えた。修一は夜組で、月水金日の週四日が稽古日。《モカ》でのバイト終了後、総武線に乗り、東中野に向かい、夕方の六時から夜の九時まで、三時間を稽古場で過ごした。
《モカ》でのウェイター姿が、板に付きはじめて行くのと比例するように、研修所内に気の合う仲間も増え、稽古が終わると男女の区別なく、誰からともなく声を掛け合い、連れ立って呑みに行くようにもなった。
あの頃、みんな金にはピーピー言ってたくせに、酒呑む金だけは何故か、ポケットに手を突っ込むとあるのが不思議だった。
行くのは決まって、新宿西口の《思い出横丁》である。
正式名、新宿西口商店街。
かつては《しょんべん横丁》と呼ばれた《思い出横丁》は、新宿駅西口から青梅街道に向かう一角にあり、80軒ばかりの小さな定食屋や一杯呑み屋が集まっていた。
《思い出横丁》の歴史は古く、終戦直後まで遡り、焼け野原の瓦礫の中に出来た闇市をルーツに持つと言う。昭和二十二年頃、進駐軍の牛や豚のモツを使った《もつ焼き屋》が人気を博したのを最初に、《焼き鳥屋》と言った露店が人気を集め始め、昭和三十年代中頃までは、青梅街道から甲州街道まで、約300軒もの店舗が連なるほどに盛況していたと言う。しかし、営団線延長計画や、再開発によるターミナルビル建設等で、当時の多くの店は不法占拠で立ち退きを余儀なくされ、現在は新宿西口会館から青梅街道まで、約80の店舗が戸板一枚を挟んで軒を連ねている。
山手線と総武線が並んで走る、線路沿いの《線路通り》。中を走る細い路地沿いの《中通り》。新宿駅西口から青梅街道に続く通り沿いの《表通り》と、三つの通り沿いに店舗が並び、修一たちの行きつけは、《線路通り》の《きくや》だった。
修一のアパートが稽古場に一番近いこともあってか、《きくや》で酎ハイやハイボールをしこたま呑んだ後、いつの頃からか、修一の部屋で呑み直すのが常になった。芋焼酎と汗の臭いが充満した三畳一間に、時には五人以上もの若い男女が、湯呑片手に一升瓶を囲み、柿の種をつまみながら、唾を飛ばし、演劇論を熱く語っては酔い潰れた。
東京で暮らし始め、一年が過ぎようとしていた冬の終わりの事だった。
「内村、飲みに行かないか?」
稽古を終え帰ろうとしていた修一に、日曜しか顔を合わせることのない、昼組の樋口が声を掛けて来た。
「えっ……?」
予期せぬ昼組の人間からの誘いに、修一は一瞬、戸惑いの表情を浮かべ、「いいけど、樋口、仕事じゃないのか?」と訊くと、「今日は日曜だから」と、少し笑みを浮かべながら樋口が答えた。
二人は連れ立って、東中野駅北口から総武線津田沼行、黄色の車体の各駅電車で新宿に向かった。
「思い出横丁で良いよね」
車内は空いていたが、二人は席には座らず、吊革を掴みながら話した。
「思い出横丁?」
「行かない?」
「行ったことはないけど、名前だけはね。しょんべん横丁だろ?」
樋口はそう言って、神経質そうに、額にかかった前髪を指で掻き上げた。
Tシャツにジーパンと言った出で立ちの多い研修生の中で、常にパリッとしたスーツにネクタイ姿、まるで、平凡パンチの表紙から抜け出して来たかのような樋口は、長髪に甘い顔立ちもあり、秘かに、夜組の女性研修生たちの間でも噂になっていた。
「樋口は普段、どこで呑むの?」
「歌舞伎町が多いかな」
「歌舞伎町‼」
「仕事を終えてからだから、コマ劇場近辺だとか、風林会館近辺が多いね」
「すっげぇな、俺、歌舞伎町なんて、おっかなくって、昼間しか歩いたことがないよ。それに、呑み代なんかも高いんだろ? ぼったくられるって話もよく聞くし」
「ぼったくられるなんて、ぐでんぐでんの酔っ払いか、田舎者だけだよ」
何だか、馬鹿にされているようで、修一はムッとした。
大久保駅を過ぎ、やがて車内アナウンスが新宿駅への到着を告げ、二人は電車を降り、人混みで賑わう西口改札を出て、右折した。
行きつけの《きくや》に行こうかと思ったが、夜組研修生の誰かに遭遇しそうで、修一は線路通りではなく、中通りに向かった。同じ劇団研修生でありながら、樋口には他の研修生とは違う、別の世界の匂いを感じていた。その樋口が、自分だけに声を掛けたのは、何か理由があるように思え、今夜は《きくや》ではなく、以前、ひとりで立ち寄ったことのある、中通りの《やぶ天》の暖簾をくぐった。冷奴やマカロニサラダ、キンピラや茄子の一夜漬け、肉じゃがと言った小鉢に入ったおかずが、カウンター上のガラス張りの冷蔵庫の中に並べられてあり、客はそれを指差し注文する仕組みの、カウンター席九席だけの小さな店である。
とりあえず、二人はビールの大瓶一本を注文し、乾杯した。
「どう言う風の吹き回しなんだ? 昼組の樋口が、夜組の俺を呑みに誘うなんて?」
修一は、空になった樋口のグラスにビールを注ぎながら、声を掛けられた時から気になっていた疑問を口にし、カウンターのおかみさんにビールの大瓶をもう一本と、冷奴とポテトサラダを注文した。
「内村、ギターを弾けるんだって?」
樋口は、ホッケの開きと肉じゃがを注文した後、内村のグラスにビールを注ぎながら言った。
「弾けるたって、高校時代、友達とフォークグループを結成し、学園祭なんかに出演してた程度だけだよ」
樋口から注がれたビールを一口飲み、修一が答えた。
「歌は?」
「一応、ボーカルを担当してたけど……それが?」
「俺、歌舞伎町のクラブで、ギターの弾き語りをしているのは知ってるかな?」
「ギターの弾き語り?」
樋口が、夜の世界の人間であることは小耳に挟んではいたが、ボーイのようなことをしているのだろう、程度にしか修一は思っていなかった。
第一、新宿や銀座、赤坂と言った夜の世界の光景は、映画やテレビの中でしか見たことなかったし、まして、ギターの弾き語りなんて、初めて耳にする言葉だった。
肉じゃがとホッケを交互につまんでは、ビールを口に運び、樋口はギターの弾き語りについて話し始めた。
新宿や銀座、クラブやスナックと言った夜の世界では、ピアノやギターの弾き語りが、マイクを持つ客の伴奏をしたり、自ら歌ったり生演奏をするのだと言う。
カラオケが日本中を席巻する、少し前までの話である。
「へえ、なんか格好良い仕事だね。収入はどうなんだ?」
「一ヶ月のギャラは十八万ぐらいかな」
「十八万‼」
修一は耳を疑った。
大卒ラリーマンの初任給が、八万足らずの時代だった。
「十八万と言うのは、一軒分だけの店のギャラでね」
「一軒分?」
「うん。弾き語りの多くは、二店舗三店舗の店を掛け持ちしているんだ。中には、四店舗もの店の掛け持ちしている強者もいる」
「掛け持ち?」
「一回の演奏時間が三十分。一回目のステージが夜の八時から八時半まで、三十分の休憩を挟んで、二回目のステージが九時から。そこで、休憩時間の三十分を利用し、近くの店に移動し、演奏をし、再び、最初の店に戻って二回目のステージをこなす。つまり二軒の店を行ったり来たり、これを深夜零時まで繰り返すわけ。不夜城と呼ばれる新宿歌舞伎町は勿論、赤坂や六本木では朝まで営業している店も多いから、やろうと思えば、四店舗掛け持ちも可能と言う訳だ」
「と言うと、十八万×四……」
「もっとも、四店舗掛け持ちとなれば、食事をする時間もまともに取れないから、大半の弾き語りはせいぜい三店舗くらいで、深夜帯はゆっくり休憩を取りながらだったり、休憩時間は客のテーブルに座って、酒を御馳走になったりしてるんだけどね」
「それじゃあ、樋口も月に五十万以上のギャラを貰ってるの?」
「いや、俺は研修所があるから深夜の仕事はしてない。八時から十二時まで、二店舗の掛け持ちだけだ」
「それでも、十八万×二で月に三十六万か……すっげぇな‼」
「いや、収入はそれだけじゃない」
「えっ? まだ、あるの?」
「客からのチップがあるんだ」
「チップ?」
「弾き語りの主な仕事は、客の歌の伴奏なんだが、指名ホステスに対しての見栄もあってだろうけど、千円程度のチップをくれる客が結構多いんだ。それが粋なチップの渡し方なんだか、サウンドホールの中に折り畳んだ紙幣を突っ込んでくれるわけ」
サウドホールとは、アコースティックギターの、胴の真ん中にある円形の穴のことである。
「ギターの弦は月に一度総取り替えするんだけど、その時に、サウンドホールの中に溜まった紙幣を取り出すんだ。千円札に交じって、五千円札や、中には万札が混じっている時もある。月によって、その額は多かったり少なかったりはあるんだけど、二店舗合わせると十五万前後にはなるんだ」
「なんだよ、それ‼」
修一は思わず素っ頓狂な声を挙げた。
樋口の話す言葉は、雲の上の世界の話だった。
《モカ》の時給が二百三十円、一日八時間労働で日給千八百四十円、月に二十五日、目一杯働いて四万六千円、修一の月の収入は五万にも満たないのだ。それに対し、樋口の労働時間は修一の半分の四時間、月に受け取るギャラが三十六万、それ以外にチップが十五万、月に五十万以上の収入を得ていると言うのである。
「確かに、割の良いバイトであることは間違いない。しかし、問題が一つある。風邪を引こうが、商売道具の指を骨折しようが、田舎の親が危篤だろうが、仕事に穴を空けられない、休めないんだ。俺たちの仕事は特殊だから、誰でも代わりが出来るわけじゃない。だから、万が一のために、代わりの人間を用意しておく必要があるんだ。そこで、今日俺が内村を誘ったのは、そんな時、内村に俺のトラを頼めないかなと思って」
「トラ?」
「トラってのは、バンド関係の業界用語でエクストラの略語で、楽団の演奏者の誰かが出演出来ない時に、その奏者の代わりを務める人のことを言うんだけどね」
「えっ? それって……」
「そう。俺に何かあって、仕事を休まざるを得ない時、俺の代わりにギターの弾き語りをしてくれないかな? と言うことなんだ」
「俺がそのギターの弾き語りを? 俺、他人の伴奏なんてしたことはないし、知ってる曲と言ったって、岡林信康だとか吉田拓郎だとか、フォークソングばっかだよ」
「それは心配要らない、俺がコツを教えるから」
樋口の話によれば、主に客の伴奏するのは《銀座の恋の物語》や《東京ナイトクラブ》と言ったデュエット曲。《ロス・プリモス》や《東京ロマンチカ》と言ったムードコーラスグループのヒット曲に、北島三郎や森進一と言った演歌。それと、《サントワ・マミー》や《イエスタディ》と言った、誰もが知ってる、有名なスタンダードナンバーさえ知ってれば良い。客の伴奏のない時は、フォークでもいいけど、出来れば、ムードのある恋の歌なんかを歌ってくれたらいい。ギターの弾き語りに必須の曲を網羅した市販の楽譜がある。最初は何冊か自分のを貸すから、おいおい、自分で買い揃えてくれればいい。最初から二店舗の掛け持ちは無理だろうから、とりあえず、来週の土曜日、一店舗だけでいいからトラをお願いしたい。もう一軒の方は、知り合いの弾き語りに頼むから。ギャラは日割り計算で七千二百円だが、少し色を付け、前払いの現金で一万円支払うから、と樋口が言った。
僅か四時間で一万円、《モカ》での稼ぎの五日分以上になる。
夢のような申し出だった。
東京に出て来て一年にも満たない自分のような田舎者が、夜の新宿歌舞伎町のそんな華やかな世界で、ましてギターの弾き語りなどと言う仕事が務まるのか不安はあったが、樋口から提示された誘惑には勝てなかった。
「そうと決まったら話は早い方が良い。今から俺んちに来ないか? 簡単なコツを教えるから」
樋口はそう言うが早いか、「ここの勘定は俺が持つから」と、伝票を持ち立ち上がった。
修一はただ唖然とするばかりで、樋口に急かされるまま立ち上がった。
二人は店を出て青梅街道まで歩き、大ガード下で樋口はタクシーを停め、運転手に「中野坂上まで」と行先を告げた。
樋口が住むマンションは、中野坂上の交差点を過ぎ、すぐの角を左折した路地沿いにあった。
白いタイル貼りの八階建ての瀟洒なマンションで、玄関のガラス扉を押し開くと広いエントランスがあった。エレベータを七階で降りた。エレベータを出ると左右に廊下が続き、樋口の部屋は、右手廊下の一番奥の部屋である。樋口は玄関のドアを開けた。室内は真っ暗だった。樋口は明かりをつけ、「どうぞ」と言って、修一の前に室内履き用のスリッパを置いた。
突き当りのリビングに修一を案内し、樋口はリビング奥のキッチンに向かった。
修一は二度三度室内を見回し、大きく溜息をついた。
「高級品ばかりだよな。家具とか、調度品だとか」
三畳一間の修一の弥生荘と、比べること自体が無意味だった。
右手壁一面に備え付けられているリビングボードの中を覗き込み、中に並べられている高級そうな食器を覗き込みながら、「これって、もしかしたら、イギリスのウエッジ何とか言う、有名な食器じゃないのか?」と、修一は目を輝かせながら言った。
「ああ、そうだ」
樋口は食器棚からグラスを二つ取り出しながら、リビングの修一に答えた。
「やっぱ、そうか……写真でしか見たことがなかったよ、これが本物か!」
「手に取ってみるかい?」
氷の入ったグラスを二個手に、キッチンから戻った樋口の言葉に、「とんでもない、冗談じゃない! 遠慮するよ! 手が震えて、落として、割りでもしたらとんでもないことになる!」と、慌てて手を振った。
リビングボードの前にソファがあり、二人掛けと三人掛けが直角に置かれ、樋口はグラスをソファテーブルに置き、「それ、女の趣味なんだ」と言った。
「えっ?」
修一が間の抜けた声を出した。
そして、「樋口、おまえ、女と一緒に住んでるの?」と訊いた。
「店には内緒だが、俺がギターの弾き語りをしている、歌舞伎町の《クラブ亜沙子》のホステスなんだけど、このマンションは彼女の部屋。要するに、俺は居候と言うやつよ。今日は友達とデパートに買い物に行くとか言ってたから、そろそろ、帰宅する頃だ。それより内村、いつまでもそんなところに突っ立ってないで、座ったらどうだ」
樋口に促され、修一は革張りのソファに腰を下ろし、物珍しそうに肘置きを手で撫でながら、「高級品は手触りまで違う」とため息交じりに呟いた。
リビングボードの中から、樋口がサントリーオールドを取り出しグラスに注いだ。
「おい、それってダルマじゃないのか! いいのかよ? 俺、ウィスキーと言ったら、トリスやレッド、せいぜいホワイトしか呑んだことがないんだ」
一九五〇年に発売されたサントリー・オールドは、当時は国産のウィスキーの中でも最高級品で、夜の歓楽街で広く飲まれてはいたが、庶民にとっては憧れの高価なウィスキーで、その独特な丸みを帯びた黒いボトルの形状から、《ダルマ》とか、《たぬき》の愛称で呼ばれていた。
「ダルマ程度で驚いてちゃダメだぜ。内村だってそのうち、客の付き合いで、レミーマルタンやヘネシーだって、嫌でも呑むようになるんだから」
「レミーだ? ヘネシーだ! そんなの、金持ちのオヤジがハワイ旅行の土産に買って帰り、床の間に飾り、客人に見せびらかすことが目的の、決して飲むことは許されないと言う、幻の高級酒だろうよ。樋口、俺がいくら田舎者だからって、担いでるんじゃないだろうな?」
「担いでなんかいないよ。最初は俺のトラだけど、慣れたら、どこかの店の専属になればいい」
樋口は左手壁の書棚から、赤い表紙の一冊の本を取り出し、修一の前に置いた。
《歌謡曲の全て》とある。
手に取り、修一は中を開いた。
一曲目の《鉄道唱歌》から始まり、最新ヒット曲の布施明の《シクラメンのかほり》、さくらと一郎の《昭和枯れすすき》まで、千曲近くのヒット歌謡曲の譜面が集められた楽譜集である。
「ギターの弾き語りとして欠かせない楽曲には印を付けておいた。レコードも貸すから、土曜までに覚えてくれ」
「土曜までに全部?」
樋口は手にしたグラスを呷った後、「大したことはない、ほとんどが簡単なコード進行の曲ばかりだ」と言い、グラスの中の氷を口に放り込んだ。
その時、玄関の鍵が外される音がした。
「帰って来たみたいだ」
玄関の方に顔を向けて、樋口が言った。
「ああ、疲れた」と言いながら、見るからに高そうな毛皮のコート姿の女が、リビングに顔を見せた。
ソファに座る修一に気付いた女は、「あらっ、お客様?」とコートを脱ぎながら言って、両手の赤い薔薇の三越の紙袋を、ソファの脇に置いた。
「研修生仲間の内村」の樋口の言葉に、「いらっしゃい」と修一に笑みを見せた。
「内村、紹介する。美智子。店ではアザミと言う源氏名で通している」
「源氏名?」
「水商売用語で、芸名みたいなものだ」
樋口は修一の疑問に答えた後、美智子の方を向き、「来週末の土曜のトラなんだけど、内村にお願いした」と言った。
「本当? わぁ! 嬉しい!」
美智子は手を叩いて喜び、腰を屈め、ソファに座る修一の肩に手を置き、修一の顔を覗き込み、「ごめんなさいね。急にスキーに行きたくなっちゃって、私がわがままを言ったの」と言った。
噎せ返るような香水の匂いが、修一の鼻孔をくすぐる。視線を上げるとV字に切れ込んだサーモンピンクのセーターの胸元から、白く豊かな谷間が覗いていた。
ドギマギしていた。
「今、何か作るわ。ゆっくりしてってね」
美智子は踵を返し、キッチンに向かった。
膝までのフレア・スカートがふわりと広がり、一瞬、太腿が顔を覗かせ、太腿から足首までのラインが緩やかな曲線を描いた。
その後姿を見送りながら、修一は、「美しい人ですね」と樋口に小声で言った。
劇団の研修生の女性たちも、女優を目指しているだけあり美しい女性が多いが、彼女たちの美しさとは異質の、様々な経験で作り上げて来たであろう所作と相まって、異性を誘い込むような妖艶な美しさだった。
「何しろ、クラブ亜紗子の№1ホステスだからね」
修一の思いを見透かしてるかのような樋口の言葉だった。
修一は赤面した。
二つ年上の樋口が、やけに大人に見えた。
一週間後、修一は樋口から借りた上下白のスーツ姿にギターを抱え、コマ劇場に続く道を歩いていた。
腕時計に視線を落とした。
午後七時。
左手の腕時計の文字盤が、甲側ではなく手の平側に向けられている。
「腕時計を忘れないように。それと、文字盤は甲側ではなく、手の平側に向けておくこと。何故かって? ギターのフレットを押さえた時、腕時計の文字盤が上になるから、客に見つかることなく時間の確認が出来るからだ。それと、一回目の演奏は八時からだけど、初めてで慣れないだろうから、一時間前に入って、マイクやリズムボックスを使って、少し練習をしておいた方が良いだろう」
樋口の言葉である。
《クラブ亜沙子》は、新宿コマ劇場から東宝会館を通り過ぎ、交番の角を右折し、風林会館の二つ手前の通りを左折、野郎寿司二号店の手前を左折、二軒先右手の興和ビルの四階にあった。
重量感のある木製の扉を開け、恐る恐る修一が店内に足を踏み入れると、「内村先生?」と、四十代半ば過ぎだろうか? 左手のカウンター、茄子紺の和服の小柄な女が立ち上がった。
ママの船村亜沙子である。
母親ほども歳上の女性から先生と呼ばれ、まさか、二十歳そこそこの自分の事だとは思いもしないから、修一は思わず後ろを振り返ってみたが、そこには誰も居らず、先生が自分のことであることを知った。
後日、このことを樋口に話すと、「ギターやピアノの弾き語りがなぜ、先生と呼ばれるようになったのかは知らないが、気にするな、そのうち慣れる」と言い、「それに、夜の銀座や新宿で石を投げたら、間違いなく、先生か社長に当たると言われるぐらいだからな」と付け加えて笑った。そう言われてみれば上京したばかりの頃、歌舞伎町のあちらこちらから、「社長さん! 社長さん!」の声を耳にし、さすが高度成長期の東京、こんなにたくさんの社長さんが居るんだ! と感心したものである。勿論、それがとんでもない思い違いであること、いくら修一とて今は知っている。とは言え、ママは勿論、周囲のホステスはみな自分より年上ばかりで、そんな御姉様方から、《先生!》《先生!》と呼ばれるのはどうにも尻がこそばゆいと樋口に訴えたが、数ヶ月後、《先生!》と呼ばれることに、何処か居心地の良ささえ感じるようになるなんて、この時は露も思ってはいなかった。
結局、数曲ばかり耳にしたことのない曲のリクエストがあったが、おそらく樋口が、亜沙子ママをはじめ、主だったホステスに、前もって手を回していてくれたのだろうか? 客に不愉快な思いをさせることもなく、修一は、《クラブ亜沙子》での四回のステージを無事終えた。
「正直、どうなることやら? と心配だったから、亜沙子ママに電話したんだけど、『結構良かったわよ! それに何より、あの子、愛想が良いのよ。ギターの弾き語りだって水商売だものね』と褒めてくれたよ!」
翌日の樋口の言葉に、修一はホッと胸を撫で下ろした。
その後、樋口のトラとして弾き語りの経験を重ねた後、樋口の紹介で、修一は区役所通り沿い、鬼王神社バス停前のコリンズ7ビル8階、《クラブ絹》のギターの弾き語りになった。
修一の生活は一変した。
月の収入が三倍増近くになり、それまでの小汚いGパンにTシャツの普段着さえ、三つボタンのブレザーにボタンダウンシャツ、チノパンに、流行りのコインローファーの革靴姿に変わった。
当然のように《モカ》は辞め、研修所も夜組から昼組に変わった
《クラブ絹》は、入店するだけで数万円のセット料金の高級クラブだった。
男たちはみな、煌びやかなドレスで着飾ったホステスを両脇に侍らせ、オールドやジョニ黒と言った高級ウィスキー、レミーやヘネシーと言った、舶来の高級ブランデーのグラスを傾けていた。
彼等は様々な職業の人間たちで、最初はそれを識別することは出来なかったが、やがて、その服装やキープボトルの銘柄、身に付けている靴や時計と言ったアクセサリー、歌う曲、リクエストして来る曲で、次第にそれがわかるようになった。
また、千円札でなく、五千円札や一万円札と言った、高額のチップをはずんでくれるのは、社用族ではなく、個人事業主であることも知った。
修一が布施明の《そっとお休み》を唄い始めると、店内の照明が落とされ、ホステスは決まって、担当の指名客をチークダンスに誘った。その豊満な躰を客に押し付け、巧みに客を誘導し、演奏する修一の近くに来ては、譜面台の上にコッソリ、小さく折り畳んだメモ書きを置くホステスも少なくなかった。演奏を終えてメモ書きを開くと、店の名前と《待ってるわ!》と口紅で書かれていた。
二十代後半から三十代と、ホステスはみな年上で、彼女たちは修一には堪らなく眩しい存在だった。
あくまでも、ギターの弾き語りと言う職業がモテたのであって、決して、修一本人がモテた訳ではなかったのに、《先生!》《先生!》とチヤホヤされ、さも自分が、アラン・ドロン並の二枚目にでもなったかのような錯覚をし、「まったく! なんと、とんでもない勘違いをしていたのだろう!」と、修一は今も時々、この当時のことを思い出しては赤面する。
憧れのギブソンのギターを買ったのも、女を初めて知ったのもこの頃だった。
贔屓のホステスと一緒に、閉店後に深夜営業のサパークラブ等に繰り出す客も少なくなかったが、彼等にとって、ギターやピアノの弾き語りも同行させるのが、ある種のステータスであったようで、修一もよく声を掛けられた。
そんな風に、客に、ホステスの御姐さんたちに誘われるままに、風林会館近辺のパブや新宿二丁目のゲイバー、タクシーに乗って六本木や赤坂のサパークラブへと、今思えば、本当にあの頃は連日連夜、飽きもせず飲み歩いたものである。
投函出来ないままの手紙 中原塁 @yancha
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