ありがとうと。

荒川紗乃

終わり。


 鍵が開いているのは知っていた。たまに、男子生徒が屋上に忍び込んで何やら悪い事にふけっているという噂を耳にしていたから。

扉を開く。風が急ぐように校舎の中に吹き込んでくる。私の髪がなびく。それだけで今から私がしようとしている事への決心を、より一層心に誓う事ができた。


屋上には誰もいなかった。余計な邪魔が入ったら嫌だし、何より人が飛び降りる所なんて目の前で見てしまったらトラウマを植え付けてしまうに違いない。もしかしたら、その人の一生をも台無しにしてしまう事になる。死んでなお人に迷惑をかける程、不幸な事はない。人がいなくて良かった、と思いながら、心の片隅では寂しいという気持ちが湧いてきた。いつも感じている感情ゆえに、最後に感じられた事が嬉しいとさえ思った。


遠く山の向こうには落ちかけの太陽が今にも顔を隠そうとしている。何も知らず、何も感じずに毎日登っては降りていく太陽はとても残酷だと思う。人間では無いのだから感情なんて無い事は分かってるけれど、死ぬ時ぐらいこの理不尽な考え方は許してほしい。

 そんな事を思いながら屋上の淵に足をかけた。夕暮れで染まった校舎が、うっすらと闇に優しく包み込まれた。


校庭では男子生徒が四人でサッカーをしている。こちらには気付いてない様子で、さも楽しそうな笑顔で四人ともボールを追いかけている。ゴールキーパーという概念は無いのだろうか。スポーツに疎い私でもルールくらい分かっているのに、名前も知らないけれど話した事もないけれど、あの四人が馬鹿に思えてきた。


一歩踏み出せば真っ逆さまに落ちていけるだろう。そうなれば後は何も考えず待てばいいのだ。地面に体がぶつかり、痛いと感じる暇もなく意識が飛び死ぬ事が出来る。天国か地獄か分からないけれど、ここにいるよりはずっとマシだと自信を持って言える。だけどその一歩が踏み出せず、しばらく校庭の四人を見ていた。あぁ、やっぱり私は死ぬ事も生きる事も上手く出来ない欠陥品なんだ。いつの間にか板についた猫背に、まっすぐ前を向く事に申し訳なく思ってしまう臆病さ。私はどこまでも弱く小さい生き物。それなのに、何故神様は悲しいとか恐いとか、辛いと感じる事が出来る生き物に私をしてしまったんでしょうか。教えてください。まともに笑う事も出来ず、楽しいとも思えず、それなのに何故泣く事は一人前に出来るよう作ってしまったんですか。


校庭の四人は未だに楽しそうにしている。さすがに五分前のような俊敏な動きではないけれど。飛び降りるタイミングを伺っている私もまた、未だにここで立ち尽くしている。何事も勢いが大事だと思うけれど、まさか命を絶つ事もそんな迷信が当てはまるとは思ってもいなかった。こうしてる間にも弱い私の頭の中では、飛び降りていない言い訳を必死に考えようとしている。もう、そんな事には疲れたというのに、最後の最後まで私なんだなって。自分自身を褒めてやりたい。


やっぱり私は最後まで悪い女だ。タイミングが分からないなら作ればいいという発想から、校庭の四人のうちの一人、髪が一人だけ黒いその一人がゴールを決めた時に私は飛び降りようと決めた。なんて悪いやつなんだ。いわば彼のゴールをスターターピストル代わりにしようとしている。彼からしたらたまったもんじゃない。だから飛び降りたその瞬間から命が消えるその瞬間まで、私は彼への謝罪を心からしようと思う。あなたのゴールを台無しにしてしまってごめんなさい、と。


何の気も知らずに相変わらず四人は楽しそうに話しながらボールを追いかけている。五分くらい経っただろうか、黒い髪の男子生徒が放ったボールは誰もいないゴールのネットを優しく揺らした。はしゃぐ四人がさらに高揚の声を上げた。ハイタッチをしてくしゃくしゃに笑い合っていた。

これで私もようやく飛び降りれる。号砲は鳴った。あとは私がスタートするだけ。お父さん、お母さんごめんね。


別れの言葉を頭の中で書いている途中だった。黒い髪の生徒と目が合った気がした。バレたかな、と考えながら咄嗟に頭をあさっての方向に揺らす。そして恐る恐る頭を元の位置に戻そうとした。私に気付いていない事を信じながら。

期待は裏切られた。予想を遥かに超えていた。彼は私に気付いただけでなく、手を振っていた。くしゃっと笑いながら、名前も知らない、弱く小さい私に向かって大きく手を振っていた。

頭の中の整理が追い付かない中で、私は咄嗟に手を振り返していた。羞恥心が邪魔をして、とても小さく振り返した事を彼に謝りたいと思った。


彼がまたサッカーに戻った頃、私は理解が出来ない彼の行動にとても困惑していた。悲しい顔で屋上に立って、今にも飛び降りそうな人に対して、よくもそんな顔で手を振れたな、と。怒りにも似た感情が沸々を心から溢れようとしていた。だから私は、屋上の淵から降りた。

デリカシーの無い、不謹慎で無責任な彼に一言言ってやろうと屋上の扉を開いた。

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