第9話 さよならの扉





 それまでざわついていた教室が急に静まった。




——水川のお母さんが、死んだ?




 すすり泣き始める女子がいる。口元を覆い絶句する男子がいる。


 自分でもどうかしてると思うが、僕はそんなクラスメートたちに苛立ちを覚えた。お前ら、普段水川に触れようともしてこなかったくせに、こういう時だけ同情した風にして。




——じゃあ、僕はどうかって?




 確かにこのクラスの中では一番あいつと接点があっただろう。クラス委員で一緒だったし、バイトのことも知ってるし、水川のお母さんにも会ったことあるし。




——だけど水川のお母さんが亡くなった昨日の夜……僕は彼女に何ができた?




 自分の中に熱い何かが急に湧き上がってきた。それは哀しみよりも怒りに近いもの。


 カーネーションが欲しいと言った水川は、きっと助けを求めていたんだ。なのに、それなのに僕は——




「水川は今どこにいるんですか!?」




 急に大声を出した僕に、教室中の視線が集まるのを感じた。後ろの席のツヅラが小声で「おい、灰慈」と言うのが聞こえたけど、構っていられない。




「落ち着け桜庭。水川は柳田葬祭場にいる。けど、告別式も親族だけでやるとのことだから、お前たちはいつも通り授業を……」


「先生ごめん! 早退する!」


「あ、おい! だから待てって!」



 僕は黒柳が止めるのを無視して教室を出て走った。授業が始まる前の誰もいない静かな校庭で、足音だけが響く。一羽のスズメがこっちに向かって飛んできて、ちょんと僕の肩の上に乗った。僕は気にせず走り続ける。





「よう灰慈、学校サボってどこ行くんだ?」


 商店街まで戻ってくると、団子屋のおっちゃんが声をかけてきた。おっちゃんは買い出しに行ってきたばかりなのか、団子屋の前に自転車を停めてカゴの中に入っていた買い物袋を取り出す。


 学校から一度も止まらずに走り続けてきて、さすがに息が上がり始めていた。葬儀会館は柳田市の外れにあるからまだ遠い。


「ハァ、ハァ……おっちゃん、この自転車借りるね!」


「はぁ!?」


 おっちゃんがこっちを振り返る頃には僕はすでに自転車をこぎ出していた。使い古された自転車が、ペダルに力を入れる度にギコギコと耳障りな音を立てる。額からは汗がこぼれてきて、制服の白いシャツが湿った。それが嫌だったのか、スズメはハンドルの上に居場所を変えて大人しく佇む。



——僕が行ったところで何になるんだろう。



 そんな疑問が浮かんでは、答えが出ないまま消えていく。まるでシャボン玉みたいに、浮かんでは消えの繰り返し。


 きっと水川には呆れられるだろう。昨日あんな態度を取っておいて、図々しく告別式に顔を出すなんて。今以上に嫌われるかもな。でも、水川のお母さんは僕に頭を下げてまで言ったんだ。娘をよろしく、って。今、この瞬間に何もしないんじゃ絶対後悔する。僕も……水川も。






 前方に落ち着いた藤色の建物が見えた。柳田葬祭場。広い敷地の中に式場と火葬場がある、市内では一番大きな葬儀会館だ。


 この火葬場に来るのは三度目だった。初めてはじいちゃんの花葬はなはぶりを見たとき、二度目はじいちゃんが亡くなったとき。


 僕はふと空を見上げた。昨日の雨が嘘かのように晴れ渡っている。ここに来るときは、憎らしいほどにいつも快晴だ。




「頼むよ雪乃、お願いだからうんと言ってくれ! 父さん、本気でやり直したいんだ。佳苗かなえとも約束してたんだよ。もう一度一緒に暮らさないか」


 声がした方を見ると、そこには制服を着た水川と、体型にぴったり合った良質な喪服を着た男がいた。会話からして、彼女の父親なんだろう。水川はうつむいて座っていて、父親とは目を合わせない。


「……一緒に住むなんてありえないから。私だってお母さんと約束してたの。あんたなんかに頼らずに、二人で生きてくって」


 そう言い放つと、すっとベンチから立ち上がる。


「もうすぐ火葬の時間でしょ? 今のうちに店長に電話しなきゃ。これからはシフト増やしてもらわないと」


「おい、雪乃!」


 水川は制服のポケットから携帯電話を出して、葬祭場の外に出ようと僕がいる方へ向かってきた。そして顔を上げて--気付く。




「桜庭……なんでここにいるの? もう私のことは放っておくって言ったくせに」




 水川は蔑むような冷たい表情で僕を見た。目の下には深い隈ができていて、彼女の色白い表情に影を落としている。


「……ずかわ……その……」


「は?」


 全速力で自転車をこいできて、まだ息が整ってないっていうのもある。だけど、それだけじゃなかった。今ここにきて、彼女になんて言うべきか、セリフが見つからなかった。言いたいことはたくさんあるのに、全部音にならずに消えていく。


 何も言えないでいるうちに、水川が最初に座っていたベンチの奥の式場の扉が開いた。そこから出てきたのは、台車に乗せられた白い棺。式場のスタッフらしきスーツを着た女性が、水川のそばまで来て落ち着いた声で告げた。



「出棺のお時間になりました」



 式場から喪服の人たちがぞろぞろと出てきて棺の周りに集まり、ゆっくりとした歩みで火葬場の方まで向かっていく。水川もくるりと背を向けてそこに合流していった。しゃんと背筋を伸ばしていて、少しも悲しそうな表情をしない。やっぱりただの余計なお世話で、僕がここに来たことには何の意味もなかったのかもしれない。



「それでは……最後のお別れです」



 遠くから火葬場の様子を見ていた僕は、聞こえてきたその言葉に色んなものを思い出していた。じいちゃんの葬式のこと、あの可哀想なイグアナのこと、昨日の水川のつらそうな表情——






——やっぱり、僕はバカだ。






 周りの目なんかどうでもよかった。僕はその場から駆け出す。気付くのが一歩遅かったから、少しでも早く手を伸ばしたくて。


 だけど、わずかに届かなかった。




——バタンッ!




 棺が勢いよく火葬炉の中に入れられ、重い金属の扉が閉まる音が響く。その瞬間、糸が切れたように水川の身体が膝から崩れ落ちた。




「う……あぁ……うわあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ————ッ!」




 喉が切れてしまうくらいに、叫ぶ。身体中の水分がれてしまうくらい、大粒の涙をこぼす。水川の中でせき止められていた色々なものが、一気に決壊してしまったかのように。


 それまで気丈に振る舞っていた水川がいきなり取り乱したことに、周りの人々は戸惑っていた。だけど誰も触れようとしない。壊れた人形を見るかのように、二人暮らしの母を失った少女に同情の眼差しを向ける。


 一刻も早く、こんなところから連れ出さなきゃと思った。


 僕は水川の腕を無理やり掴んで、葬祭場の中のあまり人がいない場所まで引っ張って行く。







「これ、苦しかったら使って」


 自分のカバンの中に入っていたコンビニのビニール袋を水川の手に無理やり握らせる。水川はハンカチで顔を押さえたまま嗚咽おえつを繰り返すだけだ。


「昔泣きすぎて過呼吸になったことがあってさ。そういう時はあんまり空気を吸いすぎないようにするといいって聞いたから」


 水川は答えない。僕も別に返事を望んでいるわけではなかった。それ以上は言葉が見つからなくて、僕は黙って細い背中をさする。




「お母さん……過労死だって」




 ようやく呼吸が落ち着いてきた頃、水川はぼそりと言った。



「職場で突然倒れたの。くも膜下出血で、病院に運ばれた時はもう手遅れだった」


 それが昨日の夜のことなのだろう。水川はハンカチに顔をうずめたまま続ける。


「さっき見てたでしょ? うち、母子家庭なの。お母さんは嫌なことを嫌って言えない人で、お父さんの言いなりになって辛い思いをしてた。だから別れてほしかったのに……私も頑張るから、二人で一緒に生きていければそれで良かったのに……そのせいで、お母さんはかえって無理をすることになったのかもしれない」


 僕は水川のお母さんに会った時のことを思い出していた。優しく微笑んでいたけれど、その顔はどこかやつれていて、今にも倒れてしまいそうな感じがしたのを覚えている。


「桜庭……あんたを見てるとムカつく。赤の他人の葬式にわざわざそんなに汗だくになってまで来てさ……そういうどうしようもないお人好しなところ、私のお母さんにそっくり」


 水川はふっと小さなため息をつき——また泣き始めた。もう一度背中をさすろうとすると、水川は涙と鼻水が入り混じって赤らんだ顔を僕に向け、ガッと肩を掴んできた。




「どうしよう……ねぇ、どうしよう桜庭……! 私まだお母さんと喧嘩したままだよ……! お父さんとやり直すからバイト辞めろって言われて、お母さんにひどいこと言っちゃった……裏切り者、って……そんなこと思ってもいなかったのに……! 私を頼ってくれなかったことが悲しかった! 結局離婚したのだって、お母さんの意思じゃなくて私のワガママのせいだったんじゃないかって思ったら、怖くて……!」




 僕の制服のシャツをぎゅっと握りしめたまま、胸の中で泣き崩れる。どうしよう、どうしようと何度も繰り返す。


 こんな時に、人を生き返らせる能力とか、死者と会話する能力とか、そういうものがあればどんなに良かっただろう。




——だけど、ここで僕にできることはたった一つしかなかった。






「水川……僕に、花葬はなはぶりをさせてくれないか」





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます