4.少し気分転換を致しましょう

 見慣れた庭も、昼と夜とでは全く様子が異なりますわね。先程まで溢れていた音や人が遠くなったからでしょうか、ホッと致しますわ。ささやかな灯りが庭園に咲く花を照らす美しいこの景色も、心を落ち着ける一因でしょう。

 ところどころで見かける人影は、本日の祝宴の招待客ですわね。どの方々もお二人で、それも男女で花々をご覧になっているようです。…羨ましいことですわね。わたくしなんて一人ですのに。誕生日なのですから、隣にお兄様がいて下さればいいのにとどうしても思ってしまいます。


「はぁ…」


 いけませんわね。気分転換のためにこうして歩いているというのに、ちらちらと脳裏を過るのは先程のお兄様と──ロサリーザ様のお姿ばかり。ため息ばかりついてしまいますわ。


 庭園の奥まったその場所にある東屋に辿り着いて、またわたくしは一つため息を零してしまいました。これだけ離れた東屋なら無人だと思ったのですが、考えが甘かったようで人影が見えてしまったのですもの。

 今のわたくしには周囲の幸せを祝って差し上げられる余裕はありませんのよ。だってわたくしは一人なんですもの。誕生日なのに。…いえ、7歳になったわたくしが大人と同じように殿方との逢瀬を楽しんでいたら、それはそれで複雑ですがそうではなくて、お兄様がいらっしゃらないという意味でして……。


「──ヴィヴィ?」


 心の内で一体誰に向けての言葉なのか、自分でも分からないままに零しているとそのような呼びかけを耳が拾いました。あら、何やらとても聞き覚えのあるお声でしたわよ?


「…リヴィクお兄様?」


 首を傾げつつ口を開くと、東屋の人影がこちらへやって来ます。月と星と、花を照らし出す仄かな灯り。それらに照らされた人影のお顔は、口にした通りのリヴィクお兄様のものでした。


「一人か。どうしたんだ、こんなところに来て」

「わたくしは…その、風に当たりたくなって散歩ですのよ。リヴィクお兄様こそ、どうなされたのです?」

「挨拶は終えたからな。あの場にいると主役より目立ってしまうかもしれないから、避難している……んだが、その主役が抜け出してくるとは少々予想外だよ。リルヴィはどうした? 今夜のエスコートはあいつの役目だったはずだが」

「お兄様は…。……ご令嬢方と踊ってらっしゃるかと思いますわ」

「…そうか。ずっと立っていると疲れるだろう? 座らないか?」

「あ、では、ご一緒させて頂きます」


 リヴィクお兄様に促されて頷きは致しましたが、正直わたくし戸惑っております。何せ今までこのように二人きりでお話する機会などなかったのですもの。そもそもリヴィクお兄様と一体何を話せばいいのでしょうか?

 リヴィクお兄様を楽しませる話題の提供など、わたくしにはさっぱりわかりません。お兄様相手でしたら会話に困ることなんてそれほどないのですが。お兄様は話術も巧みですから沈黙で間が持たないという現象を起こさせませんの。尊敬致します!


「──えっ?」


 と、お兄様について思いを馳せていると急にわたくしの体が浮かび上がったのです。それとほぼ同時に両脇下を支える大きな手を感じて、気がつけばすぐ間近にリヴィクお兄様のお顔がありました。


「リ、リヴィクお兄様!? 何をなさって…っ」

「やはりヴィヴィはまだ小さいな」


 暗くても完全な暗闇ではありませんから、リヴィクお兄様が薄らと笑んでらっしゃるのが分かります。といいますか、この距離です! 見え過ぎますわ!


「ち、小さくともわたくし7歳になりましたのよ! 幼子のように抱き上げないで下さいませ! わたくし、淑女レディーですわ!」

「7歳はまだ幼い子どもだと思うが。ヴィヴィはこうして抱かれるのは嫌いか?」

「好き嫌いの問題ではないと思いますのよ。淑女はむやみやたらに殿方と触れ合ってはなりませんのよ」

「リルヴィとはよく触れ合っているようだが?」

「そっ、それはそれ、これはこれですのよ!」


 どうしましょう! 降ろしてほしくてこの間淑女教育で先生から教わった言葉をそのまま口に致しましたのに、お兄様のことを指摘されてしまうと説得力が皆無です!

 お兄様もわたくしの言い分をただの言い訳だと認識されたのでしょう。小さく笑うだけで降ろして下さる様子はどこにも見当たりません。そのまま踵を返して東屋へ向かい始めました。


「リルヴィならよくて私だと駄目なのか。同じ兄という立場なのに不思議だな?」


 捉え方によっては責めている言葉に聞こえるでしょうが、お兄様の声は変わらず柔らかいものですし、顔だって笑ってらっしゃいます。これを怒っていると解釈する人は誰もいないでしょう。


「同じお兄様でも、リヴィクお兄様とリルヴィお兄様は違うんですのよ」

「何が違うんだ?」

「リルヴィお兄様はこのようにわたくしを抱き上げたり致しませんもの」

「──ふむ、それはまぁ仕方がないな。だがもう少しリルヴィが成長すれば恐らく同じようなことをするんじゃないか?」

「そんなはずありませんわ。第一、お兄様が成長するということはわたくしだって成長致しますのよ。小さいのは今だけですわ」


 そして大きくなればそう簡単に抱き上げられるものではないのです、とわたくしの意見をしっかりお伝えするとリヴィクお兄様はまた小さく笑いました。わたくしの話がきちんと伝わっているのか少々疑ってしまいそうです。


「リヴィクお兄様、聞いてらっしゃいます?」

「ああ、聞いてる。…そのうちヴィヴィにも分かるだろう」


 一体何が分かるというのでしょうか。

 首を傾げた直後、ようやくお兄様がわたくしをその腕から降ろして下さいました。東屋の椅子にそっと、壊れ物を扱うような優しさで…何だか、妙に恥ずかしくなってしまいます。その昔お父様に抱き上げられた時はもっと普通に降ろして頂けましたのに。


 気恥ずかしさに少々戸惑うわたくしには気づきもせず、リヴィクお兄様は隣に腰を下ろします。会話が途切れると耳に届くのは虫の声だけです。逢引中の恋人たちもやはりこのような奥にまではやって来ないのか、人の声は一切聞こえません。


 …どうしましょう? 何かお話をするべきでしょうか、と話題を探していると自分の手首を飾るものが目に移り込みました。そうでしたわ、わたくしまだブレスレットを頂いたお礼を伝えていませんでした!


「リヴィクお兄様、精霊の皆さま、贈り物をありがとうございました。こんなに素敵な贈り物を頂けるなんて思っていませんでしたわ」

「…少しでも気に入って貰えたならいいんだが」

「ふふっ、いつもとは違う贈り物でしたので少し驚いてしまいましたが、とっても気に入りましたのよ! わたくしには少々不相応かもしれないのですが、普段から使わせて頂こうと思ってますの」

「不相応? ヴィヴィは精霊石より宝石の方が好きなのか」

「え? 宝石ですか? 興味がないと言うと嘘になりますが、宝石は単なる装飾品でしかありませんから、実用できる点から身に着けるなら精霊石が好ましいですわ」

「うん? では不相応というのはどういう意味…──ああ、そうか。…ヴィヴィは自身の価値を分かっていないのか」


 リヴィクお兄様が何やら納得したとばかりに頷かれました。少々声が小さくて聞き取り辛かったのですが、周囲が静かで助かりましたわ。おかげで聞き逃す失態を犯さずにすみましたから。


「価値、ですか?」

「自分には精霊石は贅沢だと、そういう意味で不相応と考えたのだろう? だが、私から見ればヴィヴィにこそ精霊石は相応しいと思う。…見えていないのが残念だが、異常なほど今、精霊が集まっていてな…ああ、逆に見えなくてよかったのか。これだけ普段から集まってしまうなら、見えていたら発狂するかもしれない」

「………そ、そんなにたくさんいらっしゃいますの?」


 発狂、とは穏やかではありません、よね?

 見えないと分かっているのですが、つい辺りを見回してしまいながら尋ねると、リヴィクお兄様は苦笑を浮かべながら頷かれました。


「精霊の間ほどではないが、少々賑やかだ。誰にも付いていない精霊は子どもの姿をとっている者が多くて声も高い。この環境に長時間、というのは少々酷だな」

「…その…申し訳ありません」

「ヴィヴィが謝るのは違うだろうな。それに妖精のおかげだろう。東屋の内側には私の精霊しかいないから、煩くはないんだ」


 それはつまり、わたくしの妖精がまたもや周囲を牽制しているという認識でいいのでしょうか。いいのでしょうね、きっと。

 まだ見ぬわたくしの妖精は本当にどんな方なのでしょう。花の妖精という言葉から可愛らしい姿をどうしても想像してしまうのですが、どうにもその性格は大人しさとは無縁のように思えてなりません。


「リヴィクお兄様は、妖精も見えますか?」

「いや、私は精霊しか見えない。魔導師殿も仰っていただろう? 妖精とまみえること自体がとても特別なのだと」

「特別…」


 正直に言うと、わたくしには精霊よりも妖精の方が身近に思えてしまいます。それは挨拶を交わす程度の触れ合いだとしても、幼い頃から彼らと会っていたからでしょう。ですから、特別と言われても今一つ実感ができませんの…。


 それに、とふと頭を過ったのは先ほどわたくしに向けられた悪意ある言葉でした。

 事実がどうであれ、周囲の認識は「精霊に嫌われたできそこないの王女」です。国中の人にわたくしを好きでいてほしい、だなんて傲慢なことは言いません。ですができそこないという評価がそのまま広まって、これから出会う全ての人々がそれを信じ、冷たい目を向けて来るのだと思うと少し怖くなります。

 そしてもっと怖いのは、今まで優しく接して下さっていた方々の態度が変わってしまうことでしょう。これまでわたくしに就いていた騎士の方々やこれから専属に加わることになる侍女たちから蔑みの視線を向けられて過ごすことになってしまうと、耐えられる自信があまりありませんのよ…。


「…どうした?」


 わたくしの表情が陰ったからでしょう。リヴィクお兄様から心配するような声をかけられて思考を打ち切ります。いけませんわね、こういう表情は淑女の嗜み笑顔で隠しておかなくては。いくら普段身内には素直な顔を見せているとはいえ、心配をおかけするのはご迷惑ですわ。


「いいえ、何でもありませんの」

「…リルヴィほどの信頼はないとはいえ、私ではヴィヴィの力にはなれないか?」

「え…、い、いいえ。そういうことではありませんのよ。確かにお兄様のことは一番ですけれど、わたくしリヴィクお兄様のことだって信頼してますわ…!」


 少々手遅れだとは思いましたが、笑顔で乗り越えようとすると思ってもいない方向へ話が転がりましたわ…!? あらあらっ? どうしてリヴィクお兄様を信頼していないなんてことになったのでしょう!?


「だが、ヴィヴィには何か気がかりがあるのだろう? 私ではそれを聞くには役不足と──」

「少々それは飛躍して考えすぎかと思いますわ!」


 言葉を遮るのは失礼だとは存じておりますのよ。けれども、会話には適した速度が状況に応じて必要になってくるものですわよね。そして今はこうしてお兄様の思考をぶった切──ごほん、あらやだ、おほほほ。少し言葉が乱暴でしたかしら。打ち切るべきだと思いましたの。

 ですが、もしやリヴィクお兄様って、意外と物事を悪く考えてしまう性格なのでしょうか? 今までこうして話す機会もありませんでしたので知らなかったのですが。


 あら、でも将来国王になられるからこそのことかもしれませんわね。いつどんな時にでも、最悪の場合を考えつつ最善策を選び取っていくことがリヴィクお兄様に求められるのでしょうから。…やはり王太子という立場は重いですね。想像するだけでその重さにぞっとしてしまうのですから、実際その立場にいらっしゃるリヴィクお兄様は「大変」なんていう言葉では軽すぎるほどの重責を背負っておられるのでしょう。


「わたくしはただ、今後について少し考えてしまっただけですのよ。精霊ではなく妖精を迎えたわたくしの話はすぐに国中へ広まりますわ。精霊が見えないことに加えて、初めて迎えたのが妖精だったわたくしのことをどう皆様が語るのかは、リヴィクお兄様も想像できているかと思います」

「──誰かに何か言われたのか?」


 わたくしの話から何かを察したらしいリヴィクお兄様の目が僅かに細められ、声も少しだけ低くなったように思えました。物事に鈍くてはいけないでしょうがリヴィクお兄様、察しがよすぎるのも考え物だとわたくし、思いますのよ?

 どうしてなのかわたくし自身もよく分かりませんが、咄嗟に首を横に振ってしまいます。「違いますわ」なんて口にしながら。


「いえ、違うと言うのも違うのですが、わたくしが気にしているのはそういう悪意ある言葉ではありませんの」

「つまり、やはり言われたということだな」

「え、あ…ええと。わたくしが気にしていないのですからその件はいいではありませんか。それよりも、ですよ! これから侍女や騎士の方々に嫌われてしまうかもしれないことの方がわたくしには気がかりなのですわ」


 この悩みについて、先程気落ちしながら考えていたのになんということでしょうか。わたくしの口からリヴィクお兄様に伝えられたそれは、とても深刻に悩んでいる雰囲気が感じられないものになっておりました。

 ご心配はかけたくありませんからこれでよかったのかもしれませんが、何かを間違った気が致しますのはわたくしの気のせいでしょうか?


「侍女や騎士がヴィヴィを嫌う? 何故だ?」


 細められていた目が戻り、不思議そうな色を浮かべていらっしゃるリヴィクお兄様。とりあえず損なわれたご機嫌が戻ったようなのであれでよかったことに致しましょう。ええ、わたくしの深刻な悩みがもはやその場を取り繕うための言い訳にしか聞こえなかったのだとしても、いいんですのよ。リヴィクお兄様のお気持ちが鎮まるならばなんてことありませんわ!


「精霊が見えない王族はこれまでにもいたし、確かに妖精を迎えたのはヴィヴィが初めてだが、例え妖精の手助けが望めないにしても魔法は精霊石があれば問題ない。そして精霊たちは好んでヴィヴィに石を贈りたがっている」

「…好んで、ですの?」

「ああそうだ。精霊石を作る労力を厭う精霊が自らやりたがっているんだ。私の精霊も含めてな」

「まぁ…」


 とても信じがたいお話なのですが、リヴィクお兄様が嘘を語るはずもありませんから事実なのでしょう。嬉しく感じましたが、少し戸惑ってもしまいます。そもそもどうしてこんなにわたくしは精霊に好まれているのでしょう? 直接お会いして言葉を交わしたこともありませんのに…。


「身近にいる侍女も騎士も精霊に好まれるヴィヴィを見て過ごすことになるんだ。嫌うはずがない」

「精霊が見えないのですから、好まれているとは分からないかと思いますが…」

「毎日精霊石が増えていく事実を知れば、よほど鈍い者でなければ普通は気付くだろう」

「………え?」


 今、とんでもないことを耳にした気が致しますが、わたくしの気のせいでしょうか。…毎日ってリヴィクお兄様、仰いました? え? どういうことですの? まさか精霊が毎日1つずつわたくしに精霊石を下さるつもりでいるってことですか? …ま、まさかですわよね? それに暫くは魔法の練習で必要になるのかもしれませんが、それ以外に魔法の使用頻度は少ないかと思いますのよ。使わないのに増えていく、というのは少々困ったことになりそうではありません?


 と考えていると、リヴィクお兄様もわたくしが何を思っているのか察して下さったようです。薄らと苦笑を浮かべて頷き「限度が過ぎるようであれば、私たちから精霊に伝えるから心配しなくていい」と気遣って下さいました。心強いです、ありがとうございます。…でも、甘えるばかりではいけませんのよ!


「お心遣いに感謝致しますが、もしそうなってしまったらまずはわたくしから精霊方にはお伝えしますわ。見えなくてもそれくらいはできましてよ」


 にこりと笑ってお伝えすると、リヴィクお兄様の表情も柔らかくなりました。リヴィクお兄様ってあまり表情が動かない人だと思っていましたけれど、こうして近くでお話しているとそうでもないんですのね。分かりにくさで言えばもしかするとリルヴィお兄様の方が──いえ、違うんですのよ? お兄様の笑顔は素敵ですから! どんな状況でも笑顔で乗り越えられるお兄様は素晴らしいのです!


「ヴィヴィ」

「──はい?」


 思考がいつものようにお兄様へと流れそうになっていたところで声をかけられ、わたくしはリヴィクお兄様へ意識を戻します。するとリヴィクお兄様の真剣な眼差しを見つけました。…どうされたのでしょう? 何か真面目なお話があるようですよ?


「明日からヴィヴィも公の場に出る機会も増える。そしてこれから先、揶揄されることも多くあるだろうが何も恥じることはない。顔を上げて笑っていればいいんだ。ヴィヴィが誰よりも精霊に愛されていることは私たち家族が知っているんだから。…それでも辛ければ弱音をはけ。私たちはいつでもヴィヴィの味方だ」

「…っ……あ、ありがとう、ございます…」


 な、なっ、なんでしょう、ね!? 胸が温かくなったのですが、頬まで熱くなってしまいましたわ…! リヴィクお兄様、何だかかっこいいです。かっこいいのですが、そんなことをこんな近くで真っ直ぐ言われてしまうと、嬉しさを通り越して恥ずかしさが勝ってしまいますわ…! それにリヴィクお兄様自身は平気なんですか? 恥ずかしくないんですか? え、もしかしてリヴィクお兄様は少々天然さんなんですか!?


「──さて、そろそろ戻るとするか。主役がいつまでも不在ではな」


 そう仰ったリヴィクお兄様は立ち上がると右手をわたくしに差し出されました。これは…エスコートして下さるということでしょうか。


「…リヴィクお兄様は避難してらしたのでは?」


 お兄様とは違う大きな手を眺めつつ尋ねると「一緒に戻るなら、ヴィヴィより目立つこともない」と小さく笑われます。それがリヴィクお兄様の優しいお心遣いだと気付いて、わたくしも嬉しくなりました。

 わたくしがあの会場で何を言われたのか、リヴィクお兄様は分かっていらっしゃるのでしょう。だからこうして、わたくしが一人で戻らなくてすむよう手を差し伸べて下さってますのね。


「──ありがとうございます、リヴィクお兄様!」


 その手を取ってわたくしも立ち上がります。初めて繋ぐリヴィクお兄様の手はやはりリルヴィお兄様とは違って大きくて、そしてお父様よりは少しだけ小さいように思えました。それでも心は温かくて、ほっとします。この手に導かれるなら何も怖がる必要はないのだと感じ、そこでわたくしは初めて自分の気持ちに気づきましたの。

 わたくし、本当は少し、ほんの少し怖かったのですわ。できそこないの王女としてあの場所に戻ることが。


 気付かないふりを致しましたの。挨拶を交わした多くの貴族たちの目が冷ややかだったことに。挨拶に含まれた悪意の言葉に。お兄様が隣にいて、エスコートをして下さる幸せと天秤にかけて、わたくしは大丈夫だと平気なふりをして。


 でも、今度は“ふり”ではありませんわ。

 手を繋いだ先を見上げると、普段のお顔に戻られたリヴィクお兄様がいらっしゃって、わたくしの歩幅に合わせてゆっくり歩いて下さっています。

 お兄様とは違う物理的な距離。ですのに距離感は遠くはないように思えるのがとても不思議で、けれど嫌ではありません。


「リヴィクお兄様、精霊はまだたくさん周りにいらっしゃるの?」

「少しだけ距離を取っているが。あの植木に五人、あっちの花のところに三人、それとあそこに二人、それと空に…ふむ、飛び回っていて正確には分からないな」

「……そんなにいらっしゃるの?」


 会場までの道をちょっとした会話で楽しもうと話を振りましたのに、何だか聞かない方がよかったかもしれません。たくさんの精霊がいる、という話で満足しておくべきでした。具体的な数を教えて頂くと、何やら少し気持ち的に…その、ですわね…?


「…わたくし、どうしてそんなに精霊に好まれているのでしょう?」

「大切なのだと聞いた。その理由を精霊が話したがらないから私にも詳しくは分からないが」

「大切、ですか。……では、わたくしも同じ分だけ皆さまを大切に想うことに致します。あ、やはり同じではいけませんわよね! 愛して下さる以上の想いを返そうと思いますわ!」


 理由が分からなかったのは残念だと思いますけれど、そもそも精霊や妖精たちは直感に正直ですものね。それに誰かを好きな理由を細かく説明しなさいと言われるとわたくしだって困ってしまいそうですわ。お兄様を特別に思う理由もリヴィクお兄様やお父様お母様を慕っている理由も、セリサや周囲の方々を好ましく思う理由も一つではありませんし、言葉に言い表しがたいものがありますもの。好きなのだから好きなのです! 他に理由が必要ですか? と言ってしまいたくなりますわ。


 姿は見えませんがこれまで以上に精霊方を大切にしようと決意を固めていたところ、頭上から小さな笑い声が降ってまいりました。そしてその直後──。


「……っ」


 繋いでいない空いた方のリヴィクお兄様の手がそっとわたくしの頭に触れたのです。その手は二回、三回ととても優しく撫でた後離れていきました。大きな手の後ろから見えたリヴィクお兄様の穏やかな微笑みに思わず呼吸が止まってしまいそうです。


 あ、あのですねっ? 普段表情の変化が乏しいお方のこのような笑顔は、武器になり得ると思いませんかっ!? しかもリヴィクお兄様って、それなりに見目が整ってらっしゃるんですのよ!! 無表情でさえ凛々しくて格好よく見えますのに、そこからのこんな、笑顔……!

 や、止めて下さいませリヴィクお兄様っ。わたくし、お兄様以外の方にこんなにドキドキさせられる免疫は欠片もありませんのよ! 対処の仕方が分かりませんわ!


 狼狽えて、せめて赤い顔を隠そうと顔を俯けたその時、少し遠くから「ヴィヴィ、兄上」と声が聞こえました。途端にわたくしの動揺は息をひそめ、代わりに気持ちが浮き上がっていきます。

 パッと前方を見ればやはり思った通り、そこには愛しのお兄様がいらっしゃるではありませんか! しかもお一人ですっ。ロサリーザ様もリリア様も、その他のご令嬢の姿もありませんわ!


「お兄様!」


 嬉しさに任せて駆けだそうとしましたが、リヴィクお兄様に繋がれた手のお陰で踏み止まれました。いけません、いけませんわよヴィヴィ。わたくしは7歳になったのでしょう? これまでのように子どものままではいけませんわ。淑女になるのですから、気持ちのままに飛び出してははしたないですわよ!


「探したよ、ヴィヴィ。外に出てたんだね?」

「すみません、お兄様。風に当たりたくて」

「ううん。僕がヴィヴィを一人にさせてしまったんだから、謝ることないよ。…兄上もこちらにいらしたのですね」

「ああ。…お前はどうやら捕まっていたようだが、うまく捌けたようだな」

「ええ。少々人数が多かったので時間がかかってしまいました。これからはヴィヴィのエスコートは僕がします。兄上、ありがとうございました」

「礼を言われるようなことはしていないだろう? ──リルヴィ、聞いたかもしれないが…」

「はい、大丈夫です。詳細まで聞いてますからご心配には及びません。──さ、ヴィヴィ。まだ何も食べてないんだよね? 一緒に食事にしよう」

「──はい、お兄様! リヴィクお兄様も、ありがとうございました!」


 お二人の会話にちらほらとよく分からないものがありましたが、きっとわたくしには分からないままでも問題はないのだと思いますから聞き流して、差し出されたお兄様の手を取ります。

 リヴィクお兄様は少し時間を置いてから戻るそうなので、ここからはお兄様と二人です! ふふっ、今日はもうこのような時間をお兄様と過ごせないかもしれないと思っていたのでとても嬉しいですの! つい、どこに人の目があっても不思議ではない場ですのに頬が緩んでしまいます。

 先生、今夜は見逃して下さいまし。明日からはきちんと淑女として感情を表に出さないよう心がけますわ。ええ、しっかり努力致します!


 バルコニーへ続く螺旋階段を上っていると、ふとリヴィクお兄様のことを思い出しました。リルヴィお兄様と違ってエスコートが手を繋ぐ形になってしまったのは、わたくしが小さすぎてリヴィクお兄様の腕に手を添えて歩くことができなかったからでしょうか。そうですわよね、それ以外の理由が思い浮かびませんもの。

 ちらりとお兄様の腕に添える自分の手を眺めます。


「…あと何年、でしょうか…」

「何が?」

「──えっ、あら? わたくし、何か言いまして?」


 なんということでしょうか、お兄様と一緒にいてぼんやりしていただなんて失礼にもほどがありますわよ…! しかも無意識に何か言ってしまったようです。これ以上の失態を犯さないためにも冷静さを心掛けて、自分の発言内容をお兄様に確認致しました。


「あと何年かなって。何を考えてたの?」

「そう、でしたの。…いえ、あの。リヴィクお兄様のエスコートは手を繋ぐ形だったので。きちんと淑女へのエスコートをして頂けるようになるまでどのくらいかかるのかと…」

「──ヴィヴィは兄上のエスコートを受けたい?」


 そう尋ねて来られたお兄様はいつも通りの微笑みをわたくしに向けていましたが、どうしてでしょうか。何かがいつもと違うような気が致します。何がどう違うのか説明するのはわたくしが分かっていない以上難しいのですが…。そうですわね、視線…でしょうか? 優しさの中に何かを隠しているような…って分かりませんわよね、こんな説明では。


 それはともかく、ですわよ。お兄様の質問から察するに、わたくしお兄様に疑われているようです。これは大変です、心外ですのよお兄様!


「お兄様! わたくしはどんな時でもお兄様が一番ですの! 出来る限りお傍にいたいと思うのも、こうしてエスコートを受けるのもお兄様とがいいです。この気持ちをお疑いになるのならば、例えお兄様であっても許しませんわ!」

「うん、ちょっと落ち着こうかヴィヴィ? もちろん分かってるし、ヴィヴィの気持ちを疑ってるわけでもないから。ね?」

「…本当ですか?」

「本当だよ。僕が聞きたかったのはそういうことじゃなくてね? …うーん、なんて言えばいいのかな…。……うん、やっぱり今はいいか。どう聞いてもヴィヴィはちょっとズレた返答をしそうだし」

「…お兄様、何か仰いました?」


 後半部分の呟きがあまりにも小さくてわたくしの耳に届きませんでした。お兄様の言葉はどんな時であれきちんと拾い上げたいと思いますのに、時々こうして聞き逃してしまうのはわたくしのお兄様への愛が足りない証拠なのでしょうか。こんなにもわたくしはお兄様を愛しておりますのに、まだまだなんて愛情とは奥が深いですのね。


「なんでもないよ。さ、食事にしよう。今夜はヴィヴィの好物を多く用意するってエルクド料理長が張り切ったみたいなんだ。たくさん食べないとね」

「まぁ、でしたら明日お礼を伝えませんと。会えるかしら?」

「午後のお茶の前なら忙しさも落ち着いてるんじゃないかな」

「では、その時間を狙って訪ねてみますわ!」


 そしてお兄様と一緒に会場へ戻ったわたくしは、精一杯用意された食事を口にしていったわけなのですが。

 子どもから一歩、大人へ近づいた7歳ではありますが胃の大きさは昨日までのわたくしと変わるはずもありません。とても残念ですが、全種類制覇することは叶わずそれどころか半数食べられたかも分かりません。出来るだけ多く食べられるようそれぞれ一口分しか取り分けなかったというのに、ですよ。


 わたくし、明日エルクドに会えたらこう伝えることに決めました。

「とても美味しかったのだけれど、大好きなものは数多くではなく少数を心ゆくまで堪能したいと思いましたの」



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