夏の思い出
ドルフィン
第1話
青い海の底は、音のない世界。
真夏の太陽が海面から降りそそぎ、色とりどりの魚達が群をなして泳ぐ。揺れる海草、海の底に広がる真っ白い珊瑚礁。
ゆらゆらと動く波間をぬって、一匹のイルカが踊るように泳いでいく。その後方から1人の少年がイルカを追って泳いでくる。イルカはUターンすると、少年に近づいていき、軽くその体を鼻先でつついた。少年はイルカの体をさすり、一緒に連れ立って海の中を泳いで行く。
少年とイルカは、明るい水面から太陽の日が射し込まない薄暗い岩場の方へ移動する。そして、ゆっくりと海の上へ上がっていき、顔を出した。辺りは洞窟になっていて、空気がヒンヤリとする。
少年は岩の上にあがると一呼吸した。暗い洞窟の向こうには、青い海と青い空が見える。太陽から遮断されたこの場所は、明るい海とは別世界のようだ。洞窟に吹き抜ける風は心地よい。
イルカも海面から顔を出し、笑うようにキキキキと鳴いた。少年は、雫のしたたる黒髪をかき上げ、イルカを見て微笑む。夏休みに家族と訪れた異国の地で、少年はイルカと友だちになった。南の島の楽園で、少年は毎日イルカと戯れていた。
少年が海から戻って来ると、島の漁師達が岸辺に集まり話をしていた。
「1人だけ生き残った男がいるそうだな」
「命からがら必死で泳いで逃げ延びたらしい」
「真っ青な顔して、ブルブルと震えてやがった」
漁師達の話では、数日前漁に出た船が転覆し、漁師のうち1人だけが助かって戻って来たらしい。
「そいつの話じゃ、船が転覆する前に、歌声を聴いたそうだ」
「歌声?」
「綺麗な透き通るような女の声で、吸い込まれそうなくらい美しい声だったそうだ。そしたら、突然嵐でもないのに、波が高くなってきてあっという間に船は転覆したらしいぜ」
「そりゃ人魚の仕業だな。人魚に惑わされちまったんだ」
「人魚? 人魚なんていう生き物が本当にいるのかね?」
「いるとも。その男は 、波の合間に光る魚のようなものを見たらしいぜ。そいつは人魚の尾っぽに違いねぇ」
「信じられねぇな。そいつは幻でも見ていたんじゃないのか?」
「そうかもな。だが、もうそいつからは詳しい話しは聞けやしない」
「なんでだ?」
「一週間うなされて苦しんだあげく、昨夜死んじまったのさ」
漁師達は、恐ろしげに黙り込む。
「人魚?……」
少年は漁師達の話を、耳をそばだてて聞いていた。美しい姿をしているが、人の命まで奪ってしまうことのある人魚。噂では聞いたことがあったが、本当にこの世に存在するのだろうか?
翌日も少年は、イルカと共に海を泳いだ。
真夏は過ぎ、そろそろ秋の風も吹き初めてきたようだ。夏のバカンスもそろそろ終わりを迎える。長い休みを異国の地で過ごした少年も、もうすぐ家に帰らなければならない。友だちになったイルカともお別れだ。今は、残り僅かな休みを思う存分楽しみたかった。
海中の散歩を、イルカと共に心ゆくまで楽しんだ少年は、火照った体を休めるために、今日も洞窟へと向かった。
洞窟の中はひっそりとしている。少年がゆっくりと海上に顔を覗かせた時、何か魚がはねるような音が近くで聞こえた。と、少年の目の前の岩の上に、誰かが座っていた。
腰まで伸びた金色の長い髪を垂らし、少年に背を向けて座っている人影。濡れた髪の毛からは、雫がしたたり落ちている。『誰だろう?』少年は不審に思い、その人物の方へ近づいて行った。この洞窟に泳いで来る人は、今まで見たことがなかった。
と、少年より早く、イルカがそこに近づいて行き、岩場の横で飛び跳ねた。
「キャッ!」
イルカの姿に驚いたその人は、声を上げて振り向いた。
「あっ!?」
少年も驚きの声を上げる。振り向いたのは、裸のまだあどけない顔をした少女。透き通るような美しい白い肌をしていた。驚いたのはそれだけではない。少女の足が白い肌よりももっと輝く、七色に光る魚の尾をしていたことだ。眩しく輝くその尾の美しさに、少年は言葉を失う。
一瞬だけ、少女と目が合った。少女は怯えた目をして少年を見つめると、次の瞬間には、勢いよく海の中に飛び込んだ。水しぶきが高くあがり、七色の尾っぽが跳ねる。
『あれは、人魚?……』
我に返った少年が、慌てて海に潜った時には、既に少女の姿はなかった。海には、何事もなかったかのような静寂が流れる。
幻でも見たのだろうか?と少年は少女が座っていた岩場に行ってみる。確かにここに腰をかけていた。少年が不思議そうに岩場を見つめていると、イルカが水面から顔を上げて、キキキと鳴いている。口に何かくわえているようだ。
「これは?……」
少年はイルカの口から、平たい貝殻のような物を受け取った。それは、少女の尾のように、少年の手のひらの中で七色に輝く。
これは、魚の鱗?あの少女は人魚だったのだろうか?
それきり、あの少女は少年の前に姿を現さなかった。
「人魚を見た」と少年が話しても、誰も本気にはしなかった。こんな人間の住む近くに人魚が現れる訳はない、人魚は人を惑わす不吉な生き物、もし目にしたら生きては帰れないと、皆話していた。
だが、少年は誰にも信じてもらえなくても構わなかった。あの人魚の少女のことは、自分の心の中にだけしまっておきたい。夏の日に一瞬だけ出会った、美しい人魚。あの姿を一生忘れない。
秋になり、少年は遠い国に帰って行った。人魚の思い出と、彼女が落としていった小さな鱗と共に……それは、人魚が忘れた夏の落としもの。少年の日の一夏の思い出として、永遠に少年の心の中に残ることだろう。
夏の思い出 ドルフィン @Dolphin
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