第五回 オリジナル

 きょうは学校を休んだはずの茉莉まりが、わたしの目の前に立っている。

 朝は、茉莉が不意打ちで登校してくるのではないかと少し警戒していたけれど、二時間目まで終わった時点で、すっかりその警戒心は薄れていた。

 そんなタイミングで、気を抜いたわたしが体育館シューズを教室に忘れるのをまるで見透かしていたかのように、茉莉は教室の出口でわたしを待ち構えている。


 突然の展開。こういう時のとっさの判断が、わたしは苦手だ。

 たとえば、目の前で人が物を落としたとき。本当ならすぐに声をかければいいのだけれど、「どうしよう」と思っているうちに、いつもタイミングを逃してしまう。道で困っている人を見かけた時も、やっぱり「どうしよう」と思っているうちに、その人がどこかに行ってしまったり、ほかの誰かがその人を助けることになる。わたしはいつもそんな自分の判断の遅さを気にしている。

 いまも、本当ならきっと茉莉に何かしらの言葉を投げかけた方がよかったのだろう。

 でも、とりあえずこの局面から逃げ出したいという気持ちで頭がいっぱいになってしまって、反射的に、わたしは茉莉の脇を走り抜けようとする。


「いいの? そうやって後回しにして」

 茉莉が静かにそうつぶやいて、わたしの足は止まる。

 気品のあるお嬢様然としたそのルックスから放たれたとはとても思えない、刃を丁寧に研がれたナイフのように鋭くて、そして冷たいトーンの言葉。それはまるで金縛りのように、わたしをその場に縛り付けた。

 かわいい声をしているのに、こんなに冷たい言葉を発することができるのか。こんな状況にもかかわらず、わたしは感心してしまう。

 そんな茉莉の言葉の余韻と、ドン、ドンというわたしの動悸。誰もいない教室では、ただそれだけが響いている。

 茉莉は、出口の前で立ち止まったわたしを、身体でプレッシャーをかけて追い詰めるようにして、教室の後ろの壁に促す。そして、その左手を、わたしの顔の真横から、壁に突きつける。「壁ドン」というやつを、こんな形で初体験するなんて。

 そして、茉莉は残った右手で、わたしの眼鏡を掴んで外す。

 恐怖心なのか、あるいは「もうどうにでもなれ」という気持ちがそうさせるのか。わたしより頭ひとつ小柄な茉莉に抵抗しようと思えばいくらでもできるはずなのに、身体が動かない。

 そしてわかった。やっぱり茉莉は、わたしの裸眼を見ても眠らない。眠くなっている様子さえない。まさか、こんな形でそれを検証することになるとは思わなかったし、いまわかってもなにもできない。


 茉莉の吐息が、わたしの首筋にかかる。

 その髪からは、安物ではなさそうなシャンプーの上品な香りが漂う。茉莉の顔が、ほとんどゼロ距離で私の前にある。何も状況を知らない第三者がこの状況を見れば、きっと危ない関係の女子生徒だと思うだろう。

「ごめんなさいね、千明なるこ」

 茉莉は心なしか、これまでの仏頂面と比べて、少しだけ寂しげな表情でそうつぶやく。

 こんな展開に持ち込んでおいて、何をいまさら。

 そう思った矢先、身体の力が抜けていく。

 わたしは、眠い。


 目を見て、わたしは眠くなる。

 目を見て、わたしは眠る。


 そうか、これが。


 いつも通りの朝の教室。

 わたしは、クラスメイトと挨拶を交わす。その中には、もちろんりなやえるもいる。

 でも、おはよう、とわたしが挨拶を告げるたび、彼らは次々と倒れていく。


 気付くと、わたしは眼鏡をかけていない。


 小学生のときにこの目の力が現れてから、どんなことがあっても絶対にこれだけは忘れたことのない、いつもの眼鏡。フレームを変えたことはあるけれど、そのレンズだけはずっと、 父さんを介して紹介された大学教授、盗人岳武ぬすっとだけたけしにもらったものを使い続けてきた。

 少しだけ重みがあることを除けば見た目はごく普通のレンズなのに、これを通すだけで、わたしの目の力は、どうしてか無効化される。その仕組みはわからないし、盗人岳先生にそれを尋ねても、「私も分からない」とか、確かそんな返事が返ってきたように思う。

 以前、りなを被験者にして、普通のレンズの眼鏡で目の力を試したことがあるのだけれど、そのとき、りなは一瞬で眠った。

 やっぱり、このレンズが特殊な作用をしていることは間違いない(被験者がりなだったというのは、少しだけ実験として不適当だったかもしれないけれど)。でも、猫やりな相手でないと試せないのだから、こればかりは仕方がない。

 このレンズがなければ、わたしは他人の目を見ることができない。だから、万一眼鏡が突然壊れてしまったときのために、わたしは、盗人岳先生に昔作ってもらった、同じレンズを入れたサブの眼鏡をいつも鞄に入れている。もう一つ、家にもサブがあるから、計三本の眼鏡をわたしは持っていることになる。わたしは裸眼でも視力がいいから、目の力を無効化する点を除いては、どれもいわゆる伊達眼鏡だてめがねだ。

 このレンズがあればどうにか事足りてしまうから、結局、盗人岳先生にはそのとき以来会っていない。わたしの元にマスコミが押しかけることもないから、きっと彼はわたしの目について口外しないでくれているのだろう。それか、興味がないのだろうか。

 もっとも、堂々と口外したところで、「トンデモな教授がいる」と思われるだけだろうから、出世のためにはそれが賢明なのかもしれないけれど。


 そういうわけで、これは夢だ。

 なぜなら、わたしが学校で眼鏡をかけていないわけがない。それはありえない。

 以前もこれと似た夢を何度か見たことがある。はじめは少しうろたえたけれど、今ではクラスメイトが何人倒れようと、わたしは何とも思わない。

 夢だから、実際の彼らに迷惑をかけてはいないし、この夢のせいで現実の世界で目のことを知られてしまうわけでもない。


 でも、心なしか、いつもの夢と少しだけ雰囲気が違う。

 いつもの夢では、現実と同じように、みんなはわたしの目のことを知らない状態で、わたしと目を合わせ、そして眠っていく。でも今日の夢は、みんなわたしを避ける。

 まるで、わたしの目のことを知っていて、そのうえ、わたしがさも刃物を持った通り魔であるかのような恐怖の表情で、わたしから逃げていく。

 いくら夢だといっても、いざこういう反応をされてみると、少しショックだ。わたしは別に悪事を働こうとしているわけではないし、なにもそこまで怖がらなくても、と思う。


 けれど、もし自分が反対の立場だったらどうなのだろう。

 わたしにこの目の力がなくて、他の誰かがこの目を持っている。

 そして、その誰かが、その力を無効化する眼鏡をかけることもなく、わたしに迫ってきて、その目を見つめてくる。数秒間でも目を合わせたら、わたしはたちまち眠ってしまう。

 教室ならまだいいけれど、これがもし階段の上だったら。

 駅のホームだったら。

 自転車に乗っている時だったら。

 眼鏡があったら大丈夫だもんね。いまはたまたま眼鏡を忘れただけだもんね、仕方ないね。

わたしはそう告げて、目をそらしつつ優しい対応ができるだろうか。


 そう思うと、突然怖くなってくる。

 やっぱり、わたしの両親、そしてりなやえるのように、わたしの目を怖がらない人たちは、きっときわめて例外的な存在なのだ。彼らと接していると、他の人たちにこの目のことを気軽に教えてもいい気がしてしまうことがあるけれど、それはきっと違うのだ。

 もちろん、冗談だと思ったり、ドン引きして終わるだけの人もいるだろう。

 でも、実際にわたしの目を見た人が何人も眠りに落ちる場面を目の当たりにしたなら、きっとそんな人はごく少数になる。さっきのクラスメイトのように、ひたすら恐れおののいて、全力で逃げるだろう。それは当たり前のことで、責めることなんてできない。

 これまでわたしの目のことを知ってきた人たちは、みんなわたしのことを信頼している、わたしが悪意を持って眠らせることなんて絶対にしないと信じてくれている、人たちだった。今なら、それが「現実なんてそんなもの」ではなくて、奇跡的なことだったことがわかる。

 わたしが今までこの目のことでほとんど悩まずにこられたのは、、きっと奇跡がそうさせたものだったのだ。

 そんな奇跡は、これからも続くだろうか。高校生活を乗りきれたとして、大学で、職場で、老後の人生で。

 わたしはその奇跡が続いていくことを、ただ受け身で願っているしかないのだろうか。

 この夢は覚めれば終わる。でも、この問いはずっとわたしの中に残り続ける。

 残酷な夢もあるものだ。


 ため息をつこうとしたその瞬間、わたしの肩に誰かの手が伸びる。

 わたしは、その驚きで目を覚ました。


「いい寝顔だったわ」

 わたしの寝覚めを待ちくたびれたような表情で、茉莉がそうつぶやく。

 これも夢の一部であってほしいけれど、どうやらそうはいかない。

 わたしはいま、ベッドから身体を起こした。わたしは保健室のベッドで眠っていたらしい。

 ここにいるのは、どうやらわたしと茉莉の二人だけだ。


 そうだ、授業は。わたしは教室に体育館シューズを取りに行ったきり、体育館に戻っていない。えるとりなは、わたしを探しているんじゃないだろうか。

 思わず茉莉と顔を合わせそうになり、急いで目を背ける。

 わたしは茉莉の目を見て眠り、ここに連れてこられたのだ。

 信じがたいけれど、茉莉はわたしと同じ目の力を持っているということだ。いくら自分もその目を持っているとはいえ、いざ他人が持っているとなると、そう簡単に信じられない。

 とにかく、また眠らされては、どんな危険があるかわからない。最大限の用心をしなくてはいけない。


「心配ないわ。あなたの目とは違うから」

 茉莉はわたしの警戒に気付いた様子でそう言った。


 わたしの目とは違う。どういうことだろう。

 茉莉はあの時、わたしの眼鏡を外してから、わたしの目を見つめてきた。

 そのことからすれば、わたしの眼鏡のレンズは、自分が誰かを見つめる時だけでなく、同じ目を持った相手から見つめられる時でも、目の力を無効化するということだろう。そうでなければ、わたしを眠らせるために眼鏡を外すという動作は必要ない。

 でも、茉莉は最初に会った時からずっと裸眼のままだ。

 きのう、茉莉はクラスメイトと何度も目を合わせているはずだけれど、彼らが眠りに落ちたことはなかった。

 でも、わたしは茉莉に眠らせられた。

 わたしは、鏡や物に反射した自分の目で眠ることはない。だから茉莉の目によって眠ったことは確かだ。

「好きなときに眠らせられる。それか、同じ目を持った人だけ眠らせられる、ということ?」

 わたしは恐る恐る、茉莉にそう尋ねる。

 あまり会話はしたくないけれど、こんな状況になったら、もうそんなことを言っていても仕方がない。いずれにせよ、話さなければいけないときのう決めた相手なのだ。

「一つ目が正解。さすが、物分かりがいいわね」

 褒められても嬉しくないけれど。

「それと、もう分かっているでしょうけど、あなたの目を見ても、あたしは眠らない。で、あたしは目の能力を持つ人間を『探知サーチ』できる」

 探知。

 厨二病。

 と言いたいところだけれど、こんな目を持つわたしが言っても説得力はない。嘘をつく理由もないだろうし、その力で、わたしを見つけたということだろう。細かいことはさておき、茉莉はわたしを探知して、それでわたしを追いかけてきた。それ自体に矛盾はない。

「それで、どうして、わたしを追ってきたの」

 茉莉が能力を持っている。それ自体はもう疑いがない。でも、同じ能力を持つわたしを追ってきた理由は何だろう。

 単に、情報を得たいのか。あるいは、わたしを始末したいのか。それとも、何らかの目的にわたしを利用するつもりなのか。

「どうして? そんなの、オリジナルをひと目見たかったからに決まってるでしょ」


 オリジナル。

 わたしは英語は苦手だけれど、原典、ということだろうか。

 それが見たくて、茉莉はわたしを追ってきた。ということは、わたしがその「オリジナル」ということだろうか。


「あなた、百々ノ津とどのつさんのその目は」

「茉莉でいいわ」

 あまり、気安く呼びたくないけれど。

「茉莉、のその目は、わたしの目と何か関係があるの」

「あきれた。本当に何も知らないのね」

 あきれた、って。まるで知っているのが当然のことのような言い方だ。

「どういうこと?」

「いいわ。説明しましょう。毒は入ってないわ、安心して」

 茉莉はわかりやすい呆れ顔でそう告げ、サイドテーブルに置かれた紙パックのいちごミルクをわたしに促す。未開封だし、毒が入っていないのは信じていいだろう。

 それにしても、美少女は呆れ顔でも絵になるのだな。こんな状況にもかかわらず、そんなことを思ってしまうのは、茉莉があまりにも美少女だからだ。


 わたしがいちごミルクに挿したストローを口に含むのを待つようにして、

「あたしのこの目の力は、あなたの網膜の細胞をあたしの目に移植したことで発現したもの。

 だから、あたしの目のオリジナルは、な、なるこ、あなたなの」

 わたしの名前を噛みつつ、茉莉はそう言った。

 そういえば、これまで茉莉は、わたしを「千明ちぎらなるこ」とフルネームで呼んでいた気がする。わたしが茉莉を下の名前で呼ぶまで我慢していたのか。案外律儀なものだ。


 それはさておき、いま、茉莉はものすごい内容をさらっと言わなかっただろうか。

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