第三回 草葉える、そして片藪りな

 新学期初日。

 自宅の目の前の曲がり角で、わたしと正面衝突した美少女。

 彼女は、眼鏡のないわたしの目を見ても眠らなかった。

 そして、その美少女がわたしと同じクラスに転校生としてやってきた。


 いくらなんでも、話ができすぎている。

 これでもし、彼女はテロリストで、わたしの持つ何かしらを狙っていると言われても、わたしはそれほど驚けないだろう。それくらい、できすぎている。

 わたしはなんでもないことにはあまり悩まないほうだけれど、これは明らかに「なんでもないこと」のレベルを超えた出来事だ。

 それが何かはわからないけれど、少なくとも何かしらが起こっている、あるいはこれから起きるということは間違いない。そうでなければかえって不自然だ。


 茉莉は端的な自己紹介の時点からそのツンデレお嬢様めいた仏頂面を少しも変えないまま、一列目に用意された自分の席に座った。

 今日はクラス替え初日だから、さっきも言った通り、席順は五十音順の出席番号順だ。百々ノ津茉莉とどのつまりは「と」だから、「ち」で始まるわたしよりも出席番号は後ろだ。そして、このクラスには、私と彼女の間に入る名前の生徒はいない。少しだけ助かった。場合によっては、明らかに怪しい彼女に、新学期最初のホームルームからいきなり真後ろで監視されるという最悪の事態もありえたけれど、幸い、わたしは一番後ろの席だ。気休めかもしれないけれど、授業中は茉莉だって怪しい動きはできないだろう。


 いまのこの状況下で、これからわたしが取りえる行動は、すぐに思いつく限りで二通りある。


 一つ目は、わたしから彼女に積極的に話しかけるパターン。

 わたしのほうから先手を打ってしまうことで、向こうに付け入る隙を与えない。ついでに、もう一度、さりげなくわたしの裸眼を彼女に見せることができれば、「彼女がわたしの目を見つめても眠らなかった」という事実を改めて確認できる。

 それを確認できたところでどうしようもない気もするけれど、もし彼女がそこであっさり眠ってくれたら、単に小説風の出来事がたまたま起こったというだけで、事態はわたしの思い過ごしだったということになる、と思う。彼女は単に、真面目さゆえにクラスメイトの名前を事前に覚えて登校してきた転校生で、ドジっ子さゆえにたまたまわたしと正面衝突してしまって、わたしと目を合わせたように見えて、人見知りゆえに実は少しも合わせていなかっただけなのだ。

 我ながら突っ込みどころが多いけれど。


 もう一つは、徹底的に彼女との接触を避けるパターン。

 もし彼女がわたしに近寄ってきたとしても、わたしはうまくそれを回避する。そうすることで、厄介事に巻き込まれるリスクを最小限に抑える。

 幸い、クラス替え後の新学期初日だ。既に見知った数人やその友だちと派閥を組んでしまって、それ以外のグループとは、「まだお互いのことをよく知らないから話していない」ということにしても、それほど違和感はない。

 もっとも、ずっと逃げ続けるだけでは、結局何の解決にもならない。それに、彼女の方から積極的にわたしに接触してくれば、これから同じクラスで学校生活を送る以上、逃げ切るのは不可能だろう。


 どちらを選んでも懸案事項は残る。でも、とりあえずの対策としては、どちらでもよさそうだ…と思いたい。


 とはいえ、わたしがこの二択から後者を選ぶのに、ほとんど時間はかからなかった。

 なにしろ、わたしは、毎日繰り返すものには、できるだけ平凡であってほしいのだから。

 見るからに怪しい、わたしの目を見つめても眠らなかった(と思われる)百々ノ津茉莉にわたしから積極的に話しかけるなんて、それこそ非凡きわまりない。


「なるの目を見ても眠らない子ねえ。え、むしろ羨ましいのでは?」

 新しいクラスでわたしの右隣に座った、自称「引きずるタイプ」で「重い」一年次からのクラスメイト、草葉くさはえるは、わたしの説明した今朝のあらすじに対して何事もなくこう言ってのけ、購買で買ったチョココロネに一気にかぶりつく。反対側からチョコが思いっきりはみ出してビニールの中にくっいているけれど、それを気にする様子はない。

「そうやねえ。うちなんて、なるちゃんがいようがいまいが四六時中眠いのに。…なるちゃん、眼鏡替えた?」

 片藪かたやぶりな、お前もか。


 りなは一年次のクラスは違ったけれど、近所に住む幼なじみだ。小中も同じだったけれど、意外にも同じクラスになるのはこれが初めてだ。

 わたしの目についてもよく知っていて、昔からそれを気味悪がることもなかった。

 もっとも、そういう幼なじみなら、多くはないけれど、他にもいる。彼女は、さらに一枚上手だ。

 りなは、わたしの目について理解するどころか、わたしの目を利用して積極的に眠ろうとするのだ。

 何度も危ないと注意しているのだけれど、それでもりなは言うことを聞かない。隙あらばわたしの眼鏡を奪ってわたしの裸眼を見つめ、ものの数秒のうちに眠りに落ちる。そして、それが実に気持ちよさそうなので、わたしもそれを無碍にできないのだ。

 わたしの目の力による眠りはそれほど深いものではないらしく、昼寝くらいのものだから、それが授業中の居眠りや休み時間の昼寝にはちょうどいいのだと、りなは言う。

 まったく、破天荒な幼なじみを持ってしまったものだ。破天荒と言っても、やることが睡眠なので、その形容が正しいかどうかはわからないけれど。


 一方、えるのほうは高校で知り合った友人だけれど、こちらもりなに負けず劣らずの破天荒少女である。

 わたしはこの目について、新しく知り合った人間に積極的に説明することはしていない。

 説明したところでどうせ信じられずに気味悪がられるのが関の山だし、別に説明しなくても、わたしがごく普通の、弱視ゆえに眼鏡が欠かせない眼鏡っ子として関わる分には、彼らにもわたしにも、特に不利益はないからだ。

 この高校に入学して最初のホームルームで、ちょうど今年と同じように隣の席だったことですぐ知り合いになったえるに対しても、わたしはこの目について説明するつもりはなかったし、卒業までそのままでいいと思っていた。

 しかし、そうは問屋が、いや片藪りなが、卸さなかった。


 ◇ ◇ ◇

 高校生活最初の一学期、昼休み。

 わたしは初めて経験する購買の列に並びながら、知り合ったばかりのえると会話をしていた。そのとき、りながその会話に割り込んできた。列にはちゃんと並んでほしいのだけれど。

「なになに、あなたもなるちゃんの目がお目当てなん? さっそく大人気やな、なるちゃんも」

「…目? 目ってなに?」

 わたしは呆れ果てる。

 でも、ここで慌てて静止したところで、饒舌なりなは決して説明をやめることはないということは、長年の付き合いでわかっている。

「どうせ友だちにはばれるんやから、早いうちに知ってもらったほうがいいやんか」

 そうあしらわれるのが関の山だ。これまでにもそんな経験があるし、それはとても両手の指では数え足りない。

 そのたび、りなによる説明及び睡眠実演が行われる。

 それを見た新たな知人は、「りなが単に眠かっただけ」と思ってそのままスルーするか、わたしのことを明らかに気味悪がりつつ、「へえ、すごいね」と大人の対応をするかのどちらかで終わるのだ。

 りなは、パンを買い終わったわたしたちを屋上に連れ出すと、挨拶もほどほどに、えるにわたしの目の説明をした。そして、

「論より証拠やね」

 わたしの眼鏡を慣れた手つきでためらいもなく外し、わたしの目をまじまじと見つめる。

 眼鏡を他人に外されるのは、フレームが曲がりかねないので、眼鏡ユーザーとしては結構嫌な行為なのだけれど。

 りなの小脇にはいつの間にか、少し前に流行した、羊の形をした昼寝用の枕が抱えられている。

 まだ昼食も食べていないのに、寝る気満々だ。

 そして、りなはものの数秒で眠りに落ちた。本来、この目の力はそこまでの即効性は持っていないはずなのだけれど。

 お前はわたしの目を使わなくても一瞬で眠れるんじゃないだろうかといつものように思うけれど、そう突っ込みたい時には、りなはもう眠っている。

 わたしは高校生になっても何一つ変わらないりなに呆れつつ、せっかく幸先のいい高校生活を送れると思った矢先、わたしの目のことをえるに早速知られてしまったことに、もう慣れっこだからという諦めと、残念さの入り混じった、複雑な気分になる。

 この草葉えるは、わたしにどんな反応を示すだろう。つまらない冗談だと思ってスルーするだろうか。それとも表面的には大人の対応を取りつつ、ドン引きして距離を置くだろうか。そう思いながら、わたしは再び眼鏡をかける。


「すごーい!! えるにもやって、千明さん!!」

 えるはわたしの想定したいずれの反応を選択することなく、ひたすら目を輝かせる。

「ねえねえ! えるも眠りたい! やってってば!」

 想定外の第三の反応に思わず一瞬固まってしまったわたしに、えるはそう催促する。

 えるはスルーもドン引きもせず、素直にわたしの目の力を信じたのだ。それどころか、「自分も眠りたい」とまで言ってのける。

 そう簡単にこの目を使っていいのだろうか。でも、本人が希望しているのなら仕方がない。まあ、ここなら眠っても安全だし、幸い他に人もいない。

 わたしはまた眼鏡を外し、えるの目を見つめる。


 しっかり眠りたければ、五秒くらいじっと見るのがコツだよ。


 そう言いかけようとした時には、えるは既に屋上のアスファルトの上に横たわっていた。コンクリートの上では頭が痛いだろうから、とりあえず、わたしの膝の上にえるの頭を乗せる。

 …なるほど、お前もりなと同類か。


 結局、昼休み終了のチャイムが鳴り、わたしが無理やり起こすまで、えるはまったく起きなかった。

 後になって、

「お昼ご飯食べられなかったよ…ひもじいよ…千明ちぎらさんの鬼! 悪魔!」

 と散々文句を言ってきたけれど、わたしは華麗に聞き流した。

 鬼と言うけれど、あんなに幸せそうな寝顔を見せられたら、相当サディスティックな鬼でない限り、彼女を起こすことはできないだろう。

 ちなみにりなは、昼休み終了十分前に何事もなかったかのように起床し、持参した弁当を素早く平らげて教室に戻っていった。高度に訓練された片藪りなには、もはやアラームなど必要ない。完全に手練てだれだ。

 ◇ ◇ ◇


 こうした経緯でえるはわたしの目の力を何の疑いもなく受け入れ、今ではわたしとすっかり打ち解けている。りなには及ばないものの、わたしの目も使いこなし、自分の任意のタイミングで眠りから覚めるテクニックも会得したようだ。いったい何者なのだろう、この人たち。


 しばらく一緒にいてわかったけれど、えるは、物事を一切疑わない天然キャラなのだ。小説や漫画ではありふれたキャラクターかもしれないけれど、こと現実では、こうした子は案外貴重な存在だ。何も考えていないとも言えるので、危なっかしい部分もあるけれど。

 無害な睡眠導入剤代わりにわたしを使用することはあっても、わたしの目のことを誰かに言いふらしたり、わたしの目を利用して何か悪事を企んだりもしない。もっとも、どうせ言いふらしたところで、結局スルーかドン引きなのだけれど。

 親友だとか絆だとか、そういう単語を使うのは照れくさいし、実際そういうものとも違うけれど、わたしが今やえるに対して単なる「知り合い」としての関係を超えた、特別な気持ちを抱いているのは確かだ。今では、高校生活で初めて会話をしたのがえるでよかったとさえ、わたしは思っている。

 でも、逆に言えば、わたしの目を何かに利用しようとする人がわたしの前に現れたなら、それはわたしにとって確実によからぬ存在だということになる。

 確かに、これまでわたしの目について大きく騒ぎ立てる人は現れなかった。えるやりなのような存在はさすがに例外的だとしても、みんな、さっき言ったように、スルーするかドン引きするかで終わりだった。あるいは、厨二病的な設定から卒業できない痛い子だと陰で思われていたかもしれない。

 それが、「小説」でない「事実」というものなのだと思っていた。

 でもそれは、わたしがこの目のことを積極的に周りに伝えてこなかったから、たまたまそうなっていただけなのかもしれない。


 わたしの目は、使いようによっては犯罪の道具にもなる。

 車を運転している人の目を眼鏡を外して見つめ、その人と少し目が合えば、その車はきっと居眠り運転で事故を起こすだろう。体質にもよるけれど、完全に眠りに落ちるまで見つめなくても、事故を起こしてしまうだけの集中力の低下をもたらすにはそれで充分だ。

 店員が一人しかいないコンビニや牛丼屋で、用があるふりをしてその店員の目を数秒見つめれば、泥棒や食い逃げだってきっとできてしまう。

 わたしがそうしようとしていないからそうなっていないだけで、この目はそれを充分にできるだけのポテンシャルを持っている。

 そういうことを考えるのは嫌だし、わたしがやらなければいいだけなのだから、これまで考えることを避けてきた。

 でも、両親やわたしを診てくれた先生、りなたち幼なじみ、そしてえる。わたしの目のことを知っている人々がみんなたまたま善人だったからこれまで何もなかったというだけで、もし、その中にわたしを利用しようとする人がいたなら、わたしは今ごろ、犯罪の道具としていいように使われていただろう。


 そして、百々ノ津茉莉は、そういう人かもしれない。

 まだそうと決まったわけではないけれど、わたしの前に初めて現れた、わたしを利用しようとする人かもしれない。

 彼女はあの時、わたしの目をまじまじと見つめたにもかかわらず、眠らなかった。

 それに、わたしは名前を名乗っていないし、これまで彼女に会ったこともないのに、彼女はわたしの名前を知っていた。

 そして、わたしと同じクラスに転入してきた。

 これで、彼女がわたしのことに何の興味もない、わたしの目についても何も知らない、単なる転校生だったとしたら、きっとそれは奇跡だ。

 やっぱりこれは、「なんでもないこと」ではない。犯罪に利用する目的かどうかはさておき、彼女はわたしの目のことを知っていて、それを何らかの形で利用しようとしている。それはきっと確かだ。

 日常には平凡であってほしい。そして、これまでの日常は、その願い通り、きわめて平凡だった。茉莉を避けるという選択も、これまで通りの平凡を求めるからだ。

 でもそれは、これまで何も大きなことがなかったからそう思えていただけで、わたしがきわめて平凡だと思っていた日常は、周りに善人しかいない幸運な環境が作り出した、奇跡的な日常だったのかもしれない。そして、それを否定できる材料は何もない。

 茉莉がわたしの前に現れたその時点で、たとえわたしがこのまま茉莉を避け続けようと、思い切って茉莉と対峙しようと、もはやわたしの望んだ平凡は失われてしまったのかもしれない。


「…なる、大丈夫? 眠いの?」

「なるちゃん、昼休み、あと十分しかないで。お昼早く食べな」

 わたしの膝の上には、ビニールを剥きかけたまま一口も食べていない焼きそばパンが置かれている。

 慌てて食べ終えたけれど、その味はまったく覚えていない。

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