夕暮 ―パルクール―


 空の色が変わる。

 青から赤、そして紫。最後には黒に――。


 未だ赤く焼けた部分を多く残す空の中、どこからか錆び付いた鐘の音が規則正しく打ち鳴らされ、響く。


 それら空の下。

 紛争によって廃墟と化した町並みの路上、多くの人々が集まる場所、闇市。

 まともな交易が成り立たないこの地域でも、人さえいれば取引が生まれる。それは、どこであろうと変わることはない。


 そしていま、多くの人々で賑わう大通りの中を、一人の少年が通り過ぎていく。


 グレーのジャケットに薄汚れたボトムス、そして目深に被った黒いキャップ。浅黒い肌の住民が多いこの地域にあって、少年の抜けるような白い肌は、それだけで周囲から隔絶された、独特の雰囲気を醸し出し――。




 銃声――。


 廃墟の軒下で羽を休めていた鳥たちが、一斉に焼けた空に羽ばたく。

 人々がざわめき、困惑した様子で辺りを見回す――。


 が、それら人々の中でただ一人。まるで銃声を合図としたかのように、人混みをかき分け駆け出した者がいた。



 ◆   ◆   ◆



 先程まで少年が立っていた位置、その背後の露天に着弾痕。

 

 狙撃だ。

 

 だが少年は、まるで自分が狙撃されることがわかっていたかのように高速回転するライフル弾を紙一重で回避。ある一点を見据え即座に駆け出す。


 多くの人で賑わう大通り、少年の頭部を二発目の弾丸が掠める。


 少年は路地裏へと繋がる細い通路めがけ地を這うような姿勢で侵入。壁面を垂直に走り抜けて道を塞ぐ人々の頭上を通り抜けると、手近な壁面を蹴り飛ばして薄い布の張られた屋根に着地、たわむ足場をものともせず、より高い建物の窓枠へと手をかけ、建ち並ぶ廃墟の二階屋内へと転がり込む。


 彼が目指すのは高所。

 少年にはわかっていた。自分が狙われていることも、狙撃手がどこにいるのかも。





「――避けやがった」

 焼けた空の下、この町で最も高い廃ビルの屋上。寝そべり、長大なスナイパーライフルに固定されたスコープから目を離し、壮年の男が口を開く。


(気づいたのはいつだ? いや、ここに一人で来た時点で誘ってたってことか――)


 ――正確な依頼人は不明。だが報酬は破格。

 聞いた話では、すでに数十名を越える追っ手が返り討ちに遭っているという――。


 今まで、彼はどんな依頼でも受けてきた。殺しを専門に請け負い、方法も様々。遠距離からの狙撃、至近距離からの射殺。毒殺、絞殺、爆殺――。

 

 彼はプロだ。依頼されればどんな汚れ仕事も完遂する。だが――。


 ターゲットとして示された、年端もいかぬ少年と少女の写真。

 地面から身を起こし、男は小さく舌打ちする。



「ここに来る」



 男が呟く。それは予知にも似た確信だった。男はやれやれという風に肩を一度すくめ、愛用のライフルを丁寧に解体すると、いつもの手順、いつもの動作で一つ一つのパーツを丁寧にケースへと収めていく――。


 そう、男は逃走を選ばない。彼の仕事は、まだ終わっていない。





 ――少年が加速する。石造りの階段を駆け、壁面を蹴り上がり、遠く離れた建物の屋上から屋上へと飛び移る。今も数メートルの距離を一足飛びに縮めると、淀みない前転受身で接地の衝撃を殺し、全く速度を落とさず、それどころか更に加速してビルへの距離を詰めていく――。




 ぱたん――と、軽い音と共にライフルを収めた黒いケースが閉じられる。

 それは今まで幾度となく繰り返してきた彼の儀式。

 痕跡は決して残さない。それは自身が殺害した相手に対し、自らが敬意と誇りを持って手を下したことを伝える手段――。




 少年の眼前に廃ビルが迫る。

 ビルの隣にはもう一つの高い建物。しかしそちらは既に崩落が激しく狙撃には適さない。少年はその構造を即座にみとめ、ビルとビルの間へと身を躍らせる。

 そして双方の壁面を交互に蹴り飛ばし、まるで少年自身が弾丸となったかのような機動で目指す屋上へと迫る。




 男は左手側に置いたバッグの中から黒い布に包まれた大型の拳銃――M686を取り出す。


 ――それは、男が最大の信を置く、彼の相棒とも言える銃だった。


 男はM686の装弾数を確認すると、ゆっくりとロックを解除すると、撃鉄をコック。そして隣の建物の方向へと片足を寝かせ、もう片方の足の膝を立たせると、立たせた膝の上にクロスした腕を乗せ、虚空に向かって一直線に銃身を構える。その様は、まるで彼自身が固定されたライフルと化したかのよう。


(――お前が来るのがわかっていれば、俺にも勝ちの目はあるんだよ)


 男は一度深く呼吸する。そして愛銃のフロントサイトに視線を重ね、そのまま静かに息を止めた――。




 ビル最上階。全身のバネをしならせ、体を捻りながら少年は屋上めがけ最後の跳躍。空中でジャケットからファイブセブンを引き抜く。


 そしてそれと同時、彼の視界に、ビルの屋上とM686を構える男の姿が映り――。

 

 銃声――。

 

 しかし、もはや鳥たちは飛び立たない。

 赤く焼けた空は、いつの間にか凍てついた黒い闇に染まっていた――。 


 

 ◆   ◆   ◆


 

 ――廃墟になった街並を風が渡る。

 その風に乗って、被っていた帽子が地面に落ちる。


 硝煙のくすぶる銃口を向けたまま、俺はゆっくりと息を吐いた。

 目の前には、眉間を撃ち抜かれ、息絶えた男の亡骸――。


「――強かった」


 呟く。


 銃口を降ろし、倒れた男の側に歩み寄る。


 見開かれた瞳、薄く開かれた唇。流れ出す赤黒い血液――。


 俺はそっと男の瞳を閉じさせると、闇の中に身をひそめる。

 

 まだ死ぬわけにはいかない。エアとの約束を果たすまでは――。

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