九日目 止まる娘

 桂雅けいがが泣いている。

 床にへたり込み、両手で頭を抱えて、涙を流し続けているのだ。

 凜は瞬いて、その前に膝をついた。瞬間、ゆっくり視線を向けられた。

奏牙そうがが死んだ」

 それは誰の名だったかと思考を巡らせて、先ほど森の中にも来ていた少年の名だと、桂雅の一番だと豪語していた彼の名だと気付く。

――大嫌いと言われたんだったわ。

 うん、と首を振ると、桂雅は静かに息を吐いた。

「俺が傀儡にした子どもだ」

「ええ」

「故に俺を慕ってきた」

「そうなのね」

「放っておいたら、賊に襲われた傷で死んでいただろう。それを救ったら、ずっと俺の傍にいた。どんなに邪険にしても」

 また頷いて見せる。

 桂雅は嗤った。

「俺が与えた力で死んでいった――死なせるために与えた力ではないのに」

 そう言うとまた涙を流す。堪らず、両手を伸ばすと、胸に倒れ込んできた。もう何度も、この胸に圧し掛かってきたのと同じ躰なのに、ひどく頼りない。

 肩に両腕を回すと、擦り寄ってきて、緩やかな震えが伝わってきた。

 ぎゅっと唇を噛む。


 それから、耳を澄ませて、見回した。


 手の込んだ調度品の数々、窓から吹き込んでくる乾いた風、見える青空。

 駆け回る足音はいくつあるのか数え切れない。

 その中から一つ近寄ってきたので、振り向いた。

「お疲れ様」

 羅英らえいだ。顔も服も泥だらけだ。一緒に逃げてきたんだな、と頷く。

「さっき、思誠しせい玉英ぎょくえいを、医者だという人が見ていたよ」

 彼はだらりと腕を下げたまま、笑っている。

「思誠は全然なんともないって」

「良かった」

「玉英――弟の弱った体も、もしかしたら」

「――良くならないの?」

「いいや。見てもらえるって」

 落ち着いた声音。凜もなんとか笑えた。

 その横に、また一つ影が立つ。何度も顔を合わせてきた女官だ。

 眉を下げた彼女は、そっと膝をついた。

「桂雅様――どうぞ、お召し替えを」

 暫くは何も返事はなかった。女官の膝がそわそわと動きだした頃になって、桂雅は顔を上げた。

 その頬はからりと乾いている。

「分かった」

 すっと立ち上がり、歩き出して、振り返る。

「凜も見てやれ」

 桂雅がそれだけ言って、出て行ってしまったので。

 女官が凜を向く。

 まだ眉を下げたままだったが、口元に浮かぶ苦々しさは少し色を変えている。



 そうしてまた、風呂に突っ込まれた。

 散々洗われて、真新しい衣裳を着せられて、寝台に倒れ込んで。

 そのまま翌朝まで寝ていたらしい。



 目の眩む輝きを放つ朝日。

「俺は見せつけられるために入らされたわけじゃないんだぞ」

 だぼだぼの上衣に手を突っ込んで、体を掻きながら、思誠はがっくりと項垂れていた。

 大きな寝台の真ん中と端でそれぞれ起き上がる。

「いつの間にいたの」

「おまえが寝付くのが早すぎるんだ」

「だから痴話喧嘩すんじゃねえ」

「失敬な」

「それ以外に言い様がねえよ!」

 戸口から思誠は一歩も動かない。凜は寝台の端に腰掛けて。桂雅は胡坐をかいている。

 髪を掻き上げる。金色と碧で一対の眸は瞬きを繰り返すうちに冷たい光を放ち始めた。

「征雲はどうなっているか、伝わってきているか」

「……今朝、川の向こう側に急に現れた、と。なのに、誰も起こしに来なかったんだよ!」

 どうして俺が、と思誠は肩を落とす。

「背中の傷は大したことないから構わねえけどよ」

 ぶつぶつ口許だけで喋る彼を見て、凜はただ瞬くしかない。

 その横から、桂雅は寝台を降りていった。

「余程、私に怒っているらしい」

「目の前から逃げたからじゃないのか?」

「それで、軍を一気に移動させたようだな。魔力を消耗しただろうに」

「一気に街の目の前に来なかったのは……」

「見せつけるためだろう。私と、私に従ってくれる臣をいたぶってみたいだけだ」

 薄く笑みをはいた唇を、赤い舌先で舐めて。

「遠慮なく潰させてもらうさ。叔父の軍は、傀儡しかいない。だからこそ、一気に崩れる」

 桂雅は嗤い、思誠が首を捻る。

「全員が征雲の分身じゃねえか。魔力オバケだらけだぞ?」

「分身でなくせば――傀儡でなくせばいいのだろう?」

 思誠が目を見開く。凜も、ゆっくりと瞬いた。

「おまえ…… そんなこと」

「できる術を見つけてしまっていたんだよ。先代の王は」

「……それ、もしかして」

 桂雅が笑みを深くする。

「王の残した秘術の正体だ。他者を服属させるのみならず、他を主と仰ぐ傀儡の服従さえも踏みにじる術を用意して喜んでいたんだ」

 さらりともう一度髪を掻き上げて、彼は続ける。

「術が効くのが、傀儡であるもの全員だったら、奏牙や比陽にも影響があるだろうと思って使えなかったんだがな。もう遠慮はいらぬだろう? もう、この世界に残っている傀儡は征雲叔父の傀儡だけだろうからな」

 こつん、と床を蹴って桂雅は出て行った。

 きい、と鳴く扉の向こうは、雨の過ぎ去った青空。汚れのない雲が眩しい。

「なんてこった」

 と、思誠は呟いた。

「占って知ってたんなら早く言えよ」

「……知っていても使わなかったのは」

「自分でも言ってたじゃねえか。桂雅から送られる魔力が切れたら、奏牙も比陽も死ぬっきゃなかったんだからな。ぶっちゃれけば、怖かったんだろう。死なすのが」

 ああ、と彼は宙を仰いだ。

「困った主だ」

 そして、思誠も廊下を戻っていく。凜も立ち上がり、廊下に出た。

 建物を囲むように走るそこで、手摺に手をかけて庭を、塀を見る。

 この向こうに、戦いのために奔走している人たちがいるのだろう。

 全く術を持たぬ自分はじっとしているだけだ。

「今は」

 視線を落とすと、艶のある衣が見える。

 この布を絹と呼ぶのだと、昨夜知った。海を越えて運ばれて来た品であるのだ、とも。

 村にいたら知らなかったことだ。

 知らなかった方が幸せだっただろうか、それとも、と首を捻る。

 もはや、一つしか未来が見えぬと、目を閉じる。


 ずっと此処に居るのだろう。そして、あの青年が王となり、老いていくのを見つめるのだ。


 溜め息を吐いて、顔を上げる。廊下の向こうから、顔馴染みと呼べるようになってしまった女官が歩いてきている。とても渋い表情だ。

 だが、少しは環境を良くする努力も必要だと、唇を引き結ぶ。

「お願いです。仲良くなってください」

 頭を下げると、彼女は目を丸くしていた。

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