八日目(1) 寛容な友人

「帰って来ねえじゃねえか」

 どっかと床に胡坐をかいた思誠しせいは、唇を歪めた。

 だぼだぼの上衣の背中に手を突っ込んで、ぼりぼりと音を立てて。

「痛!」

 ついにひっかき傷をこさえたらしい。

 爪の先には赤いものがこびり付き、溜め息しか出てこない。

 のそりと窓の外を見れば、今日も朝日が眩しい。

「どこまで遠出しやがった」

 こういう時だけは、占いの、先見の才能が欲しかったと切実に思う。

 傲岸不遜な友人がいないと何も見えない、はんじられない、そもそもこの事態の張本人がその友人だ、と背中に手を回し。

「……痛えよ」

 また引っ掻いた。

 ぎい、と扉が開く。

「そろそろ捜しに行くことを考えたい」

 冴えた視線で言い切ったのは、老文官。

「だが、出かけられた先が本当に征雲せいうんの本陣だというなら――容易たやすくはいかぬだろうな」

「……ああ」

 頷く。

 文官の後ろから、がっしりとした体躯の武官も入ってきて、腕を組んだ。

「何故止めなかった」

「止められるかよ」

 まさか、呆気にとられているうちに出て行かれたなどと。言えない。


―― 私の生はこの国の未来への供物だ。


「勝手に死ぬな、莫迦バカ

 がんっと床を蹴って、立ち上がる。

「責任持って行ってくらぁ」

如何様いかようにして」

 老文官の目が光る。思誠は肩を落とした。

「それだよなあ」

 そろりと廊下を見遣ると、手すりに凭れて羅英らえいが居眠りをしている。

「起きろ、阿呆」

「……むー、むにゃ」

「征雲のところに行くぞ」

 低く唸ると、ぱっと目が開いた。

「本気?」

「桂雅が帰ってこねえ」

「……それは、まずいんじゃない?」

「だから乗り込んで行くんじゃねえか」

「そ、そうか」

 はは、と羅英は乾いた笑いを立てた。

 思誠は息を吐く。

「連れて行け」

「……俺が?」

「他に移動の術を使える奴がいねえんだよ」

 羅英は笑みを消した。

「そりゃ、ね。言うは易しの典型みたいな術だからね。桂雅けいが様はお使いだったけど」

「あれは別格」

「思誠は使えなかったんだ」

「知ってて言ってんのか、てめえは」

「俺は使える」

 すうっと、表情がもう一段冷えた。

「だから、狙われたんだろうが」

「間諜向きの術使いだものねえ」

 睨み合い、吹き出した。

「思誠、だから気づいてたんだ」

「何をだよ」

「俺がさぐりを入れに来てんだって」

「……ああ」

 それは、と呟きかけたのを、手で止められる。

「桂雅様が占ったのかと思った」

「それでだったら、誰の間諜かまで知らせてもらうっつの」

「だよね!」

 今度は湿った笑い声だ。

 床に座り込んだまま、俯いて、羅英は肩を震わせた。

「参ったなぁ…… ねぇ、思誠」

「あんだよ」

「利用するだけしたけど、やっぱり友だと名乗っていいかな?」

「勝手にしやがれ」

 ふん、と横を向く。顔が熱い。

「それで、どうするの?」

 羅英が顔を上げる。その橙の眸は思誠を映し、老文官と将軍を映した。

「俺を信用してくれるってことだよね?」

「行きはそれで良かろう」

 武官の声は苦味を帯びている。文官は黙って首を振った。

「桂雅様がご無事に戻られた後は、覚悟されよ」

「はーい…」

 肩を竦めて、羅英がまた思誠を向く。

「本気で、行くんだよね?」

「当たり前だ」

 思誠は立ち上がる。

「桂雅も小娘もみんなまとめて連れ帰ってくるんだよ」

玉英ぎょくえいもね」

 ふっと笑われた。

「もう、征雲様に従う理由はないし」

 と、羅英は目尻を潤ませた。それから、ぐいっと背伸びをして、庭に飛び降りた。

「じゃあ、行こうか」

 ガリガリと土に円陣を刻む。

「思誠?」

「おう」

 ぐっと眉を寄せて、立ち上がった背中をどんっと押された。

「俺も! 俺も行く!」

「てめっ、奏牙そうが!?」

「早く早く!」

 押し進められて、円陣の中へ。

 羅英が腕を振ると視界が白く濁った。


 その次に見えたのは、深い緑。

「おかしいね」

 三人、木の影から、開けた川岸を見遣る。

 そこかしこに白い天幕の張られた戦陣は、人の動きが緩慢だ。

「よく、征雲様が怒りださないな」

「そうなのか?」

「ああいう、のんびりした動きはお嫌いなんだよ。ご自分はだらけていることもあるのにね」

「ふうん…… 怒りぼなんだ」

「奏牙」

 小声で嗜めると、少年はべっと舌を出してきた。

「べっつに。俺は可愛がってもらっているわけでもなんでもないもん」

「そうかい」

「桂雅様だけだもん」

「はいはい」

 ぽんぽんと頭を撫でて、羅英に目を映す。彼は真っ直ぐに陣を見ている。

「もしかして――留守かな」

「征雲がいないって?」

「そう。だとしたら、桂雅様もここに居ないかな」

 でも、と唇を舐める。

「玉英は」

 羅英は笑った。

 思誠はさらに目を細めた。

「行く気か」

「連れて逃げる」

「何処に」

「どこだっていいよ――征雲様には助けてくれる気持ちがないのはもう分かっているし。結局薬がなくて死ぬまで苦しむんだったら、何処だって一緒」

 それでも、と笑みを深くする。

「どんなに苦しんでいても、生きていてほしいって願うんだよ」

 また黙る。

 言葉が浮かばないという感触に、首を振った。

「とりあえず、俺の家に行っとけ」

「まじで!?」

「ばあさんが面倒見てくれんだろ」

 はーっと羅英が息を吐く。

「寛容だねえ」

「うっせえよ」

 ふん、と鼻を鳴らし、思誠は奏牙を振り向いた。

「俺らは桂雅を探すぞ」

「どうやって」

 うむ、と唸ったところで、甲高い笛の音が響いた。

 振り向く。

 甲冑を着込んだ兵士だ。

「気づかなかった!」

「おう。俺らは大分間抜けだな」

 がやがやと集まってくる足音に、三人顔を見合わせる。

「どうする? 殴る?」

「適当にな――ここから逃げれりゃあいい」

 奏牙が大声を上げて、先頭の一人を殴り飛ばす。

 吹っ飛んだ兵士にぶつかって、もう一人倒れる。

「次!」

 叫び、また一人蹴り倒した。

 羅英が陣に向けて駆け出す。

「行くぞ!」

 思誠はその逆へと走り出した。後ろを飛び跳ねながら、奏牙がついてくる。

「何処に行くの?」

「桂雅を捜しに――と言いてえところだが、何も手掛かりが……」

 と、足を止める。

 目の前の、蔦と幹の合間。ぴりり、と張りつめる何かがある。

――結界。何のための?

 眉を寄せる。

 後ろには、がしゃがしゃと具足の音。

「ねえ、また殴る?」

 奏牙が問うのに、首を振る。

「いいや。俺とおまえだけでここを潜っちまおう」

「そんなことできるの?」

「やってやる」

 結界を破るのはお手の物だ、と片手を突き出す。

 覚悟していた以上の痛みに呻きながら、体をねじ込んで、奏牙を引きずり込む。

 兵士たちは結界の向こう側でたたらを踏んでいる。

 踏み込もうと思えば踏み込めるのに、それを躊躇っているかのような。

「何故だ?」

 ごちて、首を振る。

「今は逃げるのが先か」

「違うよ! 桂雅様を探すのが一番大事!」

「あいよ」

 奏牙はずんずん木々の間を進んでいく。

 思誠はまた背中を掻いて、のそりと踏み出した。

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