七日目(4) 泳ぎ始める娘
「泳げると思わなかった」
岸に上がって、息を整えて、最初に言われた一言に、
「王宮で育った人間が、川に潜る必要などないだから仕方ないだろう?」
睨まれる。
金色と深い海の色で一対をなす眸は、この七日間で見た中で一番不機嫌そうだ。
「不思議。慌てることがあったのね、あなたにも」
「本当はね、脱いで着替えるのが一番だけど」
「それが叶わないことは分かる」
傍に膝をついて、裂けた袖を絞る。
ひた、ひた、と土に水が染みていくのに合わせて、肌に当たる風が冷たくなっていく。
「早く逃げなきゃ」
「そうだな」
川幅はそんなに広くない、流れもさほど早くない。だが、月と星が照らす石塔はそれなりに遠くに見えた。
「追いかけて来ていないかしら?」
「どうだろうな。今のところ、気配はないが」
「ちなみに、あなたはどうやってここまで?」
「術で飛んできたが――先ほど叔父が言っていたが、同じ技で帰ることができないよう結界を張られているようだ。この外まで別の方法で行くしかない」
「歩けってことね」
ふと、背中から抱きしめられた。
「……何?」
「いいや――温かいな」
「うん」
そうだ、と唇を噛む。
「生きているから、温かい」
返事はなく、ただ、絡みつく腕に力が入った。
じわり、体の芯から熱が沸く。
その腕が離れ、また羊歯を踏んで歩きだす。
桂雅は、歩くことも下手だった。
「どうしてそこで根につまづいちゃうの!?」
「この夜の中で見えるわけがなかろう!」
「影が移っているでしょう!?」
そもそも、足元を見て歩くという考えがないらしい、と三度目の転倒でようやく思い至った。
「切った」
と唸る声を聞いて、屈み込んだままの顔を覗きこむ。頬にすっと赤い一筋。
「木の枝かしら?」
「知らん」
不機嫌だ、とまた吹き出す。
案外、人間臭い。
もういっそお腹の皮が
「おまえも存外失礼な娘だな」
この一言で耐えきれなくなった。
笑う。
声を立てて、眼の端が潤むまで。
「あなたに言われたくない。散々酷いことをしてきたくせに」
「そうだな」
あっさり頷かれて、ようやく笑いを止められた。
「酷いことをしたと、思っているの?」
一度、唇を噛んでから、桂雅は息を長く吐いた。
「比陽を結局死なせてしまったな。生かしてやりたいと思ったから、
くくく、と喉が鳴る。
「死なせたと言えば――
「どんな有様?」
「珍しいことではないだろう、と今では分かる。前触れなしに、本陣の真ん中に乗り込んだ。そうして攻撃されたのを防いだら、戦うものと見做された。止まれなくなった、倒れるまで」
太い樹の根元に座り込んだまま、彼は片手て左目を隠した。
金色が見えなくなる。
「やっぱり、王族なのね」
「どういう点がだ」
「人を平気で傷つけられる」
「その言い草は、比陽の論理ではないか」
「だって、それしか知らなかったもの」
「そうだな」
ふっと彼の唇が綻ぶ。
「でも、あなたも、あの
「どちらも酷い男だと云うか」
「そうね。どっちも酷いわ。あなたはわたしを散々な目に合わせて。あっちは、人質をとって、誰かに嫌なことを遣らせようとしているの」
「ああ…… そうだったな」
「酷いことをしていると思ってる?」
彼は俯いてしまった。
「俺は――焦っているのか」
「そうなの?」
「早く、恵まれた未来が見たい、と」
すっと真っすぐに見つめられる。伸ばされた左手が頬を包んできた。
「おまえが母になれ。この国をより大きくする賢王の母に」
「その人も金色の眸を持っているの?」
首を縦に振られて、凜は傾げた。
「その金色の眸に映る世界を作りたいの?」
もう一度首を振られる。
「返り血を浴び続けた俺が、慈悲深い王になどなれるはずがないだろう。だが、信じたい。今まで見た占の中で唯一、そう願うものだ」
反対の手が凜の手を握る。
柔らかく、唇が重なった。
「子を産め。その子と幸せに時を過ごせ。おまえはそれだけでいい」
それだけ、と口の中で呟いて。
ごんと額をぶつける。
「何も知らない相手の子をのんびりと育てられるとでも?」
すぐ目の間で、金色の眸がぐらりと揺れるのを見た。
「勝手を言わないで。わたしは、村で結婚して、そこで家族を作って、一生を終えるんだと思っていたの。今更、どうやって、家族を作れというの? 一緒に親となってくれる男はどこにいるっていうの!?」
「それは」
「そこまで考えてよ! 確実に来る未来だからって投げ出さないで! あなたも何かしてよ!」
金色だけでなく、碧い方も揺れる。
桂雅は黙り込んでしまった。
鼻の先と先がくっついてしまいそうだ。二人、黙って睨み合う。
「己のことは何も見えぬのだよ」
先に口を開いたのは桂雅のほう。
「明日如何なっているのかは勿論、遠い先は、己の死に様は何も見えぬ。知らぬ」
「見えない方が好いに決まってるじゃない」
くすくす笑う。
「もし、村が焼き討ちに遭うんだと知っていたら、わたしも村の皆も、それまで生きていなかったかもしれないわ。不幸せになると分かっていて、そこまで呑気に笑ってなんていられない」
「良い未来が待っていると信があるのは、幸いか」
桂雅も笑む。
それから、また抱きしめられた。
「……なに?」
「おまえに子を身籠もらせよう。そして、その先に安寧を用意できるよう、力を尽くそう」
ゾクリ、と背筋が震える。
ゆっくりと桂雅は立ち上がった。
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