一日目(3) 裏切り者の魔術師
地に描かれた円陣が淡く光る。
その中から、にゅっ、と右手が突き出た。続いて、腕、肩、刺青の入った頬が現れる。すぽん、と爪先まで飛び出してから、円陣の外に着地。
「あ~、疲れた!」
背伸びした青年に、陣の傍らの影が低い声で呼びかけた。
「
びくっと肩を揺らし、そっと影の方へ顔を向ける。
長身に、裾の翻る
「まさか、ずっとここで待ってたわけじゃないよね、
「そのまさかだ」
すいっと胸を反らす雄飛に、羅英はさらに身を竦める。
「おまえが遅いのだ。転移魔術というのは、瞬時に移動できるものなのだろう。行って帰ってくるのにいったい何時間かけるつもりだ」
「行って帰ってくるだけってことはないよ。出先で情報収集してるんです! その時間を考慮してください!」
ぶうっと頬を膨らませても効果はない。雄飛はくいっと顎をしゃくった。
「
溜め息を吐き出してから、羅英は歩き出した背に続いた。
ぐいぐいと進んだ先は、ゆったり流れる川の岸に張られた陣の中だ。
西日から逃げるようにして木陰に座りこむ兵士たち。そこかしこに転がる剣や槍、凹んだ盾。立ち上る錆びた匂い。
「あれ? もしかしてもう勝った?」
「あのように弛んだ軍など、我らの敵ではない」
「
羅英が言うと、雄飛は高い声で笑った。
「たかだか一人が強いところで何の意味もなさぬ。お互いが軍としてぶつかれば、強い者をより多く揃えたほうが有利だ」
「強い者、ねぇ。でも、この軍、一人一人の腕っぷしは強いって言っても結局は征雲様の
「それがいいのではないか」
振り返った雄飛は、仮面からのぞいた唇の端を上げている。
「傀儡とは、操り手の魔力を受け、その魔力を使いこなし、時には操り手の思うままに動くようになった人間のこと。そうなることは忠誠の何よりの証だろう」
他ならぬ自身も傀儡である相手を見上げ、羅英は低く呟いた。
「……そうならざるを得なかった場合もあると思うけど?」
「つべこべ言わず、おまえも早く傀儡になればよい」
「それは……」
羅英が身を縮めると、雄飛の口元はすっと真っ直ぐに伸びた。
後は黙ったまま進んで行って、最後の一枚の幕を潜った先。そこだけは、地にも布が敷かれ、繊細な造りの椅子と机も置かれた、ゆったりとした空間だ。
「征雲様」
雄飛が甘ったるい声で呼びかけると、椅子に座っていた人が振り返った。
「お帰り、羅英」
そう言って、微笑まれる。
均整のとれた身体を包むのは柔らかな衣と輝く鎧。整った顔立ちの真ん中には、金色の眸。切り揃えられた髪が眸をより輝かせて見せる。
「おまえが出かけている間に戦は終わったよ。既に、星博の骸も確認した。僕の完璧な勝利だよ」
朗らかな声に唾を呑み込んでから、羅英は片膝をついた。
「それで。おまえは何処に行ってたんだっけ?」
声は真上から降ってくる。
「西寧へ行ってきました」
「ああ、
「桂雅様には直接会っていませんよ。桂雅様の下で働いている友人を訪ねてきただけです」
「ふうん。あ、桂雅に『様』は不要だよ」
「すいません」
「で? あいつは元気にしてるの?」
「元気なんじゃないですかね。今朝方、噂の娘を捕まえたそうですけど、問題の鍵は全くの役立たずだったって話ですよ?」
は、と息を吐いて、羅英が先程交わした話を掻い摘んで伝えると、征雲が目を細めた。
「そうか。がっかりしているかなー?」
ふふふ、と笑う。
「ねえ、
征雲の後ろに控えていた、これまた長身の、肩の広い青年がすっと立ち上がる。
山奥の上の草原と同じ色の眸を全く揺らさずに、彼は言った。
「鍵が役に立たぬと知れば、落ち込むのが定石ですが」
「でも、そこで逆ギレするのが桂雅だよね」
「確かに。この先も秘術に
「秘術を会得する以外、あいつが玉座に近づく手段はないからね! 拘るだろうよ」
征雲は高い声を立てて、椅子に座りなおした。
「怒って落ち着きをなくしているだろうところを、一気に攻めようか」
「よろしいですね。星博は死に、残る邪魔者は比陽と桂雅。蹴散らしてしまうのも一策。いい加減この戦いも終わらせたいものです」
「そうだね。疲れたものね」
宙に息を吐き出して、征雲は羅英に向き直った。
「おまえはどう思う?」
「……どうでしょう。桂雅様は、強力な魔力をお持ちと聞きますから。もしかしたら、鍵なしでも秘術を会得なさるかもしれませんよ?」
「随分と買い被っているね」
ふふっと征雲は鼻先で笑う。
「確かに魔力は強いよ? でも、強いだけ。伝統の傀儡の術は使えないし、王族の証である金色の眸も持っていない。そんな奴が新しい秘術を会得するなんて無理な話だよ。そもそもこの戦いに名乗りを上げた時点で厚顔無恥というものさ」
鋭い声音に、羅英はそっと顔を伏せた。
それから征雲は、ふう、と息を吐いて手を振った。
「お疲れ、羅英。下がっていいよ」
「その前に……」
「何。まだ何か用?」
征雲が眉を寄せ、声を低くする。
ぞくり、と背筋が震えた。
そうだこの眸が怖いんだ、と改めて思う。
この国を支配する王族だけが生まれながらに持つ、金色の眸。
その強すぎる征雲の眸を見上げながら、羅英は両膝をついて両手を差し出した。
「お約束の物はください」
「うん?」
ぱちぱちと目を瞬かせてから、征雲は手を打った。
「そうだった。おまえにはご褒美が必要だったね」
にこりと笑って、彼は維祥に見向いた。
維祥は頷き、傍に置いてあった櫃から、小さな紙包みを五つ取り出す。
それは征雲の手を経て、ふわりと羅英の掌の上に落ちる。
「持っておいき」
「これだけ」
「文句あるの?」
すうっと冷えた金色の眸に睨まれる。もう一度背を震わせて、それでも。
「これが無いと生きていけないのです」
と口を開く。
「知ってるよ」
さら、と征雲は髪を掻き上げ、目を細める。
「お慈悲を」
ぐっと唇を噛んで、膝をつき頭を垂れる。すると、征雲の高笑いが響いた。
「いいなぁ! 美しいね、兄弟愛」
するりと衣の裾を翻し、羅英の前に屈みこんで、くいっと羅英の額の髪を掴み上げた。
「僕は仲良くできる兄弟がいなかったからね。ほんっとうに羨ましいよ」
じっと金色の眸に見つめられながら、羅英はがくがくと首を振る。
「僕が怖い? 当然だろうなぁ。でもその怖い僕にも立ち向かえる勇気を与えるほどの、兄弟愛?」
ひとしきり肩を震わせてから、征雲はゆっくり首を振った。
「じゃあ、次はもっと頑張れるね。楽しみだなぁ」
立ち上がり、手を振る。
羅英もゆらりと立ち上がった。
そのまま、羅英は静かに幕の外に出た。雄飛が付いてくる。
「まだ、こき使うつもりなの」
「もう一度、西寧に行ってもらおうか。桂雅の動きを探ってこい。変わらず秘法にこだわるつもりなのか、それとも武力を押し出すつもりなのか、な」
「そうですか」
「私も動こう」
「本気で!?」
羅英は目を丸くした。
「それが征雲様のためとあらば」
「う、うん」
「すぐ向かうぞ」
「や、せめて、待って。すぐ戻ってきますから。薬を弟のところに届けに行かせて?」
ね、と首を傾げる。
「いいだろう。今度は待たせるなよ」
雄飛はふっと吐息を零して、踵を返した。
羅英はとぼとぼと足を引きずって、先ほどの円陣に飛び込んで。
次に飛び出した場所は、家の中。
木の壁に囲まれた部屋、堅牢な作りの棚にはぎっしりと本が詰め込まれ、象や花の刺繍の入った掛布がかかっている。
窓からは赤く染まった空。
「お帰り、兄さん」
その赤を背にして陣の傍で待っていたのは、よく似た顔立ちの少年だった。
橙の眸と顔かたちは似ていても、その頬に刺青はない。肌は蒼白く、頬は痩け、指先は骨ばっている。
「ただいま、
笑うと、笑い返される。頬が緩む。
「体調はどう?」
「今日は調子がいい。薬が効いているんだ。ありがとう、兄さん」
「ああ……」
そっと頷いて、玉英の手に紙の包みを落とした。
「こんなに沢山! いいの!?」
「勿論!」
「ありがとう。早く、薬に頼らなくていいように、病気治さないとね」
弾んた足取りの弟が薬を戸棚にしまいに行くのを見送って、羅英は唇を噛んだ。
本当は、病気なんかではない。
あの薬は、体を健やかにするものではない。
飲めば飲むほど、体を蝕む毒。一度飲むと、飲まずにはいられなくなる、毒だ。
最初にそれを呑ませたのは、維祥。そして、呑ませるように命じたのは征雲だ。
いったい何がいけなかったのか、と思う。自分が、弟が、何をしたのが気に食わなかったのか。逆に気に入ったのか。自分たちを追いこもうとあの王子が考えたのは何故だったのか、と解けない問いがまた首をもたげる。
一つ確かなのは、王子様たちの金色の眸に映る世界は、すべて彼らに従っていなかればいけないものらしいということだ。
――毒を持っているのは僕だけだよ。もっと欲しかったら…… 弟君を狂わせたくなかったら、毒を取りに来るんだね。むろん、タダでは譲らないよ。
頷くしかなかったと唇を噛む。長年の友人を
それでも、弟の命には代えられない。
「だってねぇ…… こんな世界でも生きていたいって思うんだよ」
ぽつんと吐き出された言葉は、すぐに空気に溶けていった。
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