一日目(4) 逃げられない娘
ここは西寧の街だ、と告げられてもピンとこなかった。
川の流れに沿って、山を下り、森を抜け、平原を横切った結果辿り着いたのが
窓から見下ろす瓦屋根の街並みの向こう、群青の景色が海なのだと言われてようやく、生まれ育った山から離れた遠い地に来たのだと感じて、身震いした。
海はすべてが水なのだ、遥か先――見えなくなった向こうへもまだまだ続くのだと聞かされて、怖いとしか感じない。
きっと、青い色も駄目なのだ。
あの青年の眸を思い出させるから。
首を振ると、髪が揺れた。
その髪は、今まで生きてきた中で一番綺麗だ。起きるなり浴場に連れ込まれて、体中を洗われたからだ。
生まれて初めて使った石鹸は、しつこい汚れをさっぱりと落としてしまった。その後は、至るところに花の香りの油を擦り込まれた。
結果、髪も肌も滑らかに輝き、自分の体ではないようで。
纏わされた光沢を帯びた衣もまた、馴染まなくて。
今居る、かつての我が家の部屋よりもずっと広い部屋も、落ち着かない。頑丈な造りの椅子や寝台も、飾られた壺や花も、目に痛い。
なにもかもがしっくりこない。
息が詰まる。
窓際の椅子に腰かけたまま視線を動かすと、部屋の反対側に澄まし顔の女官が
「わたし、いつまでここに居れば……?」
問うと、彼女は紅を塗った唇の端を吊り上げた。
「城主様がいらっしゃるまで。私たちはあなたを外に出すなと言われておりますから」
ふくよかな顔立ちの彼女は、こちらを頭のてっぺんからつま先まで舐めるように見遣ってきた。
「どうしてまた、城主様もこんな娘に。傷のない素肌と言えば聞こえはいいけれど、魔力を宿すための刺青を入れられない、位の低い家の小娘だということでしょう?」
唐突に向けられた冷たい空気に、椅子に掛けたまま、両手で体を抱く。
「ただ『鍵』を持っていた、というだけなのに。どうして……」
女官の眸は冷えていくばかりだ。
「いいことを教えてあげましょうか。全く夫人を迎えようとしない城主――
「城主?」
それはあの青年のことだろうか。名前にはどこか聞き覚えがある、と首を捻っている間にも、相手の言葉は途切れることなく流れていく。
「私たちの気持ちを分かっておいでだからか、商売女を相手にされることをはあっても、城にいる娘をどうにしようなんてされなかった。それが、いきなり現れた小娘においしいところを持っていかれて、気持ちのいいわけがありますか」
最後、女官は大きな溜め息を吐いた。
「本当に、瘦せっぽちの、何の力もない娘なのに」
それきり、彼女は口を噤んだ。
何も、言えない。動けない。
陽が沈んでも続いた気まずい空気を動かしたのは、他ならぬあの青年だった。
やってくるなり手を振られ、女官は眉尻を下げてから、ゆっくり腰を折り、出て行った。
広い部屋の中に、青年と取り残される。高価な
視線が絡む。
「磨けばそこそこになったではないか」
深い海の色の中に自分が映ったのを認めて、かち、とまた奥歯が鳴らす。
「私が、怖いか」
がくがく、と首を振る。
それを抑えるように顎に触れる指先がきつくなる。
すっと顔に影がかかり、唇に生温い感触が触れた。
歯を立てる。腕を突き出す。
ガタン、と椅子が引っくり返った。
床に転がり落ちて、這いつくばって進んで、壁にぶつかって止まった。
大きく目を開けて、振り向く。
「成程」
青年は先ほどの処に立ったまま。口元にすうっと赤い筋が流れていくのが見えた。
「屈強な兵士の追跡からも逃げて来たと
眼帯に隠されていない方の眸を細めて、頬を緩ませた彼は、窓枠にもたれかかり腕を組んだ。視線はまだ真っすぐに向けられたまま。
「名は?」
問われ、瞬いて。首を振った。
「答えられぬ、と」
「名は…… あったわ。もう誰も呼ばないだけで」
父も母も兄妹も、近所のうるさいおばさんも、いつも笑っていたおじいさんも、淡い恋心を抱いていた男の子も、みんな殺されたのだ、と告げたら。あの眸はどう動くのだろう。
そう思ったが、もう一度首を振った。
「私には呼ばせられぬ、と」
「……何者か分からない相手に名を呼ばせるな、と言うでしょう?」
「成程、一理ある」
床を軋ませて、彼は大股で近寄ってきた。
遠ざかるように、ずりずりと、壁を背に動く。そしてその背がまた、柔らかいものに触れた。
振り返れば、真っ白な敷布の寝台。
息を呑んでいる間に彼はもう目の前に居た。
すっと腰を落として、視線を合わせて。
「
彼は名乗り、続けた。
「この国の王にならんとする一人」
片側しか見えない眸を見つめながら、ああ、と呟く。
「王族の一人」
だから名を聞いたことがあったのだ。
――
自分を巻き込んで逃げ出して、そのままはぐれてしまった人が恐れていた一人だと思い到って、また体を揺らす。
「王族なのに、金色の眸じゃないの?」
問うと、彼は僅かに眉を寄せ。
「おまえに名をやろう」
また笑い直した。
「
艶やかな声が響く。
「
ぞくりと、背筋を何かが這い上がっていく。
ぐいっと腕を掴まれて、引き上げられて、放り出された。
柔らかな綿の上に落ちる。顔のすぐ横に手を置かれて、身を竦めた。
音を奏でる絹から覗く、引き締まった腕。覆い被さってくる、広い肩。
「やだ……」
もう一度首を振ると、また顎を抑えられた。
「おまえは
深い海の色の眸が笑む。ぎり、と胸の奥が痛む。
「我が子を産め。次に王となる子を」
崩されていく。溶かされる。泣いても喚いても、手は離されない。
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