一手先すら碌々見えず。
「感無量です……」
そう呟いて、クリスは滂沱の涙を流しながら
まだ朝方で路地の石畳も冷たいままだというのに、膝から内股気味に姿勢を崩し、そのまま地面に座り込んでしまったのである。
クリスとは短くない付き合いがある私とヴェイロンであるが、このような痴態を見るのは初めての事であった。
「まるで白痴だな」
「まぁ、今回ばかりは無理からぬことであろう……」
私は若干クリスから視線を逸らしながら、ヴェイロンにそう呟いた。
確かにヴェイロンの言が正に適切というか、他に言い様がないと言った有様であるのだが、今のクリスにそれを言うのは余りに酷であろう。
まさに今回は、クリスからすればこの醜態も無理からぬ大事であるのだ。
何せ。
「まさか、まさか……直接、その御尊顔を拝せる日が来るだなんてぇえええ……!」
憧れの白騎士様が、目前にいるのだから。
******
例の怪文書について、百人長殿と話し合った後、私とヴェイロンは一応の事情聴取を受け、その後すぐにランティス氏の身辺警護の任に当たる事となった。
とは言え、今回の仮想敵は完全な外敵では無く、半分は身内と言っても差し支えない余所の騎士団である。
しかも、怪文書は門衛にも気付かれずに門扉に差し込まれていたのだから、内通者の可能性も考慮しなければならない。つまりは、防諜に対する配慮もする必要が出てくるわけである。
そうなれば、当然ながら大っぴらにランティス氏の護衛任務などを書面記録で残すわけにはいかない。ランティス氏の配属を急に変える事も、無暗に敵を刺激する結果になってしまう恐れがある。
故に、ランティス氏も我々も、結局のところ、全く今まで通りの扱いで日々を過ごしつつ、それとなく自然に警戒を強めなければならんと言う、何ともまぁ七面倒臭い状況にあるわけである。
だが、建前と書類上の扱いはどうあれ、現実に護衛しなきゃならん事に違いはない。
諸事情はどうあれ、何があるか分からん以上、実際にはしっかりとランティス氏に我々が張り付かなければならないのだ。
しかし、互いに所属も仕事も変える事は出来ない。
では、どうするべきか?
「なぁに、ンなのは簡単に済む話だ」
私のそんな懸念に対して、百人長殿はそうニヤリと笑い。
「大丈夫だ、解法はある。お前たちは今まで通りに言われた仕事こなしてくれてりゃいい」
そう告げて、その日は我々を塒へと帰したのである。
******
で、その翌日。
我々に示されたその解法とやらこそが、正にこれ。
「な、なな、なななな……何の話ですかね!?」
書類上騎士団
服装は何の変哲もないチュニックにウェストサッシュ、ついでに安っぽいミドルブーツと、一応は普段の白銀の甲冑とは掛け離れた野暮ったい格好をしているが……元が小奇麗なので既に若干浮いている。何より衛生面が全くよろしくない。汚くて問題というわけではなく、丁稚の割には不自然に清潔すぎて問題なのだ。本物の丁稚っぽさがまるでない。
「ご、御尊顔も何も僕はいつも……そう! いつも! 概ねだいたい素顔を晒して、清廉潔白のまま過ごしていますが!?」
そして、現在は見ての通り、突然現れた北方エルフに奇襲的なアヘ顔を晒されて、見ていて可哀想になるほどに動揺しており、その清潔で小奇麗な顔を焦燥の朱で染めている。
まぁ、その動揺もまた、無理からぬ事であろう。
百人長殿の計らいにより、現在の彼は名も知れぬ騎士団丁稚の雑用として此処にいるのだが、無論、書類上のランティス氏が白騎士から丁稚への異例の転職をしたわけではない。敵を欺くため、あくまで、書類上のランティス氏は今も詰め所で日頃の職務をこなしている事になっており、ようは影武者を立たせて、ランティス氏本人には丁稚という仮初の立場を演じさせる事で、危険から遠ざけようとしたわけである。
しかし、だからこそ、今此処にいる彼は、決して今を時めく白騎士、ランティス・オズワルド・オーベルグであってはならないのだ。あくまで、ただの無名の丁稚として此処に居なければならない。そうでなければ影武者の意味が何もない。
いわば、徹底的に正体を隠すことこそが、ランティス氏が身を守る上で大事な仕事であり、今正に帯びている重大任務なのである。
だと言うのに。
「わかります! そうです、そうですよね……白騎士たる貴方様が兜を被るのは舞台上のみ……! それ以外の日常はまさに今の様に素顔を晒し、清廉潔白のまま、そう生まれたままの御顔で過ごしていらっしゃるのですね……あああああ、公式資料にもないプライベートを垣間見ることが出来るなんて……ごちそうさまです!!」
「い、いや、ですから、そうじゃなくて!」
いきなりバレっバレである。
かの白騎士が着任から小一時間も経たずに任務失敗とあっては、流石に心中穏やかではいられまい。
「まぁ、相手が悪かったな……」
「ふん。悪客をのさばらせていた騎士団のツケだ」
またしても手前の事は完全に棚にあげるヴェイロンには最早失笑すら漏れないが……確かに、あんな靴音だけでランティス氏の気配を察知するような怪物を生み出してしまったのは、騎士団の罪である。
ランティス氏は殆どとばっちりみたいなものであるが、それだって咎の一端を担っていることに変わりはないし、気の毒ではあるが、これはこれで報いの一種であろう。
つっても、これじゃ正体隠してる意味ねぇじゃねぇか。
いくらクリスがランティス氏狂いの色欲モンスターだとしても、クリスに分かるのなら他のファンにもわかるだろうに……いや、わからないか……?
流石に靴音だけでも分かる様な狂人はクリスくらいなものか?
……いや、まぁ、どちらでもいいか。
何にせよ、クリスのせいで正体が白日の下に晒されたことに違いはないのだ。
御忍び護衛大作戦は早くも頓挫である。
こうしている間もずーっと早口で捲し立てながら、びっくりするほどキラキラした目でランティス氏ににじり寄るクリスと、それに困惑し続けているランティス氏を見ながら、私は大きく溜息を吐いた。
「とりあえず、正体が露見しては無意味であるし、一度、皆で詰め所に引き上げて百人長殿の指示を仰ぐとするか……」
「? 何を言っているのだ勇者よ。放っておけば良いだろう。むしろ、クリスが構っている間はより安全ではないか。今誰か近寄ろうものなら不逞の輩どころか、俺達にすらアレは牙を剥くぞ」
「まぁ、確かにああなったクリスはある意味、一種の結界術式の様な頼もしさではあるが……それはそれ、これはこれであろう。正体が知れてしまっては、この行いに意味はあるまい。何より、他のファンまで寄ってきたら手に負えんぞ」
クリスがあの調子で騒ぎ続け、このまま、まがり間違ってランティス氏の名前でも叫ぼうものなら、遠からず此処が白騎士ゲリラライブ会場になるであろう事は想像に難くない。
幸いにも今は朝の忙しい時間帯であるので、路地裏の我々は喧騒に紛れられてはいるが、ランティス氏の正体が完全に周囲に露見してしまえば、この幸いも長くは続くまい。
しかし、ヴェイロンはそんな私の心配を嘲けるように鼻で笑う。
「正体とは何の話だ? 勇者よ」
つい、私は怪訝な顔をして、眉間に皺を寄せる。
今更お前が知らばっくれてどうなると言うのだ。
「第三騎士団の有事には協力するのではなかったのか?」
「無論だ。戦友の為に戦うのは騎士として当然の事だからな」
「だったら、尚の事今の状況は早急に報告せねば……」
「それは状況が変わった時に必要な事だ。今は何も状況は変わっていない」
「……クリスは身内の様なものだから、異常の数に数えなくて良いと言う楽観か?」
「ハッ! その様子だと、本当に気付いていないようだな。勇者という連中は全く俗世の世情には疎いのだな」
「……やけに小馬鹿にしてくるではないか」
「貴様なら、言わずとも気付くと俺は思っていたんでな」
呆れた様子で肩を竦めて、ヴェイロンは笑う。
癪であるが、まぁ、騎士団事情はコイツの方が詳しかろう。
仕方ないのでさっさと聞いてしまうことにする。
「悪いが、お前の期待には応えられそうにない。ワケを教えてくれまいか?」
知らぬは一生の恥であるが、聞くは一時の恥だ。
対するヴェイロンはやおら大きく嘆息してから、億劫そうに答えはじめる。
「例の文の送り主の狙いはあくまで白騎士であって、何処の誰とも知れん丁稚ではないからだ」
「だから、その白騎士の正体が……」
……と、私が続けようとしたところで、ヴェイロンが素早く右掌を突き出して来た。
重厚なガントレットが目前に迫り、つい私は言葉を飲み込む。
そして、そのままヴェイロンは有無を言わせぬ態度で。
「白騎士は今も詰め所に居る。そこでどこぞのコソ泥に絡まれているのは、ただの小奇麗な丁稚でしかない。それが全てだ」
先ほどと似たような事を、まるで鸚鵡返しの様に言ってきた。
「それは書類上の話ではないか」
「そうだ。だが……それが全てだ。」
「それが……全て? ああ……」
私はそこで、ようやく、ヴェイロンの言わんとしている事に気付いた。
つまり、こうである。
誰が何と言おうが書類では白騎士は詰め所にいるし、此処にいるのが丁稚である事は、やはり書類上で覆る事はない……例え、何かを勘違いした誰かに今此処にいる丁稚が殺されたとしても、詰め所にいるはずの白騎士とは何の関係もないのだ。
「書類上で処理されていない以上……此処で彼……今は丁稚の彼が殺されたとしても、いくらでも言い訳が出来ると言う理屈か」
「その理屈が奴を守る盾になっている……白騎士の名分を身に纏わない今の奴に政治的価値はない。象徴はその象徴を纏った状態で討たれなければ、いくらでも替玉が効くからな。故に、この状況を作り上げた時点で、奴はあの甲冑を身に纏わない限りまず安全だ。礫のような悪客に絡まれる事は、今後もあるかもしれんがな」
そう、ヴェイロンは未だヒートアップを続けるクリスを見ながら、嘲笑を漏らした。
確かに、今のランティス氏の姿を見て、即座に白騎士と結びつける事が出来る連中は、クリスのような相当にコアなファンか、ランティス氏の同僚連中だけだろう。
ようは近しい人物でなければ、見分けることはまず不可能なはずだ。
何せ、白騎士は普段は顔を隠しているし、声も普段は兜でくぐもっているのだ。
あの白銀の甲冑さえ脱いでしまえば、即座に当人と看破する事は難しい。
……思えば、私はそれを身を持って知る者の一人であったな。
そんな、私の個人的な納得を余所に、ヴェイロンは続ける。
「例の文の送り主が俺達の予想通りの手合いだとするなら、本質的に欲しているのは白騎士の命ではない。目的はあくまで、白騎士の命が奪われる事によって齎される第三騎士団の凋落と、そこから零れ落ちる予算だ。となれば、誤魔化しの効かない機会を見計らう必要がある。タダでさえ、白騎士は装飾華美な兜で素性を誤魔化している連中だからな。衝動的に始末したところで、適当に言い訳されるのがオチだ。こんな路地裏なんていくらでも死因を曖昧に出来る場所では、襲撃者側に地の利はない」
これも確かに、ヴェイロンの言う通り、白騎士は全員フルフェイスヘルムで顔を隠している関係もあって、書類さえ纏まっているのなら、申請上だけでいえば咄嗟の生死の誤魔化しは恐らく容易であろう。第一、事件性のある死体の調書を最初にとるのは正しく騎士団なのであるから、調書の改竄などやろうと思えば朝飯前の筈だ。
ランティス氏ほどの人気となると流石に長期的に影武者を使ってファンを誤魔化し続ける事は不可能であろうが……病床に臥せってそのまま逝去というシナリオを作る程度の時間だったら、悠々稼ぎ切る事が出来るだろう。
ランティス氏を失えば第三騎士団の白騎士興業は確かに大きな打撃を受けるだろうが、それでも致命打になるかどうかといえば、無論否である。白騎士は別に彼一人ではない。
あくまで、第三騎士団に対して打撃を与えることが目的なら、癪な話ではあるが、ランティス氏一人をただ闇から闇へと葬るだけでは、大したアガリにはならないのである。
「白騎士の身が一番危険に晒されるのは、此処では無く、然るべき大舞台だ。無数の耳目がある場所で死ねば、どのような誤魔化しも言い訳も通用しない。相手が余程の馬鹿か、ただの下らん愉快犯であるなら、今この場で襲われるかもしれんがな」
「そう言った例外を迎え撃つための保険が我々……と言う事か」
「員数外の護衛はそうやって使うものだ。想定より多く人員が配されているというだけでも退く敵はいる。あの百人長の采配は中々悪くない」
そう、ヴェイロンは珍しく百人長殿の事を褒めながら、やおら、その辺の木箱に腰掛ける。
この話はもう終いだ、と言う事なのだろう。
普段は頓珍漢な事ばかり言う男なのだが、こと戦が絡むと……あんまり認めたくないが、なんだかんだ頼りになる奴である。
まぁ、しかし、教えて貰った事に違いはないので、改めて頭を下げることにする。
「流石は騎士といった洞察であったな、ヴェイロン。教授してくれたこと、素直に礼を言うぞ」
「礼を言われる程の物をひけらかしたつもりはない。貴様ら丙種勇者が
そう言って、ヴェイロンが指差した先を見ると、ランティス氏がいよいよ、迷子の猫のような目でこちらを見ていることに気付く。
よく見ると、巧妙にクリスには見えない角度で、此方に対して手招きをしている。
まず間違いなく、救難信号である。
「員数外の護衛は私一人では無い筈なんだがな?」
「安心しろ、俺は殿を務める」
じゃあ、いざという時の援護を期待してもいいと言う事か? と問おうかと思ったが、この男の援護射撃は往々にして味方も巻き込むので、ぐっと堪えた。
まぁ、教授の世話を受けたばかりだ。今回は私が折れておこう。
「そういう事なら、背中は頼んだぞ、騎士殿」
「任されよ、それこそが騎士の誉だ、勇者殿」
柄にもない応酬を互いに返して、私は苦笑を浮かべながら、ランティス氏の救援へと向かった。
無論、クリスからの電撃的な奇襲を受ける事となったが、援護は特になかった。
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