第11話 雨が降れば雨を避けて

 渡されたグラスには、濁った薄茶色の液体が満たされていた。

 晶子はそれを口に含んで、「おいしくない」と呟いた。

 もっと甘い蜜が欲しい。舌に乗せた瞬間に、全身までとろけてしまいそうに甘い蜜が。

 外は篠突く雨である。




 午後九時。普段であれば、マンションに帰っている時間だ。

 晶子は華奢な腕を返して、脈の上に乗った文字盤を見た。

 この店の照明はだいだい色で、本来なら白い文字盤も黄色く染まっている。店に入って暫くしてから激しくなった雨はかなり弱くなっている。雨足の早い雨だ。

「晶子さん、どう、楽しんでる?」

 店の隅は暗がり。そこに下心を隠して、男は快活な笑みを浮かべる。しかし、場を浮き立たせようとする彼の気遣いも感じられたから、晶子も素直に答えた。

「私・・・・・・こういう集まりに慣れてなくて」

 それをどういう意味に取ったのか、男は晶子の隣に座り込んだ。

「いいよいいよ、緊張するよね。晶子さんは箱入りだからって、あいつにもよく頼まれてるんだ」

 晶子は、あいつ、同僚の体育教師の顔を思い出していた。



 体格のいい体育教師が、小さな画鋲に手こずっている。通りすがりの晶子が、彼を手伝ってあげたのが夕方のことである。

 体育教師が掲示するプリントには、「若手教職員交流会」と書いてあった。いわゆる、合コンの誘いである。昨今の若者の晩婚化を憂う管理職が、地域の若手教員を集めて会を開けと号令をかけた。各校の担当が持ち回りで主催する。

 体育教師は「今日なんだけど、女子が一人足りなくて」と疲れた様子で呟いた。

「私、参加しましょうか?」

「えっ、いいんすか。でも阪口主任は」

「何ですか?」

「だから、阪口主任は」

「主任は主任、私は私です」

 晶子は目を白黒差せる体育教師相手に約束を取り付けた。

 体育教師は、自分が参加できない代わりに主催に話を通しておく、とため息をついた。


 今頃、阪口は何をしているだろう。

 勧められて口にしたカルーアミルクは、しつこいばかりで、ちっともおいしいと思えない。

 店は貸し切りで、少しおしゃれな居酒屋といった気軽な内装だった。料理も申し分なく、参加者も社会人でさほど乱れ騒ぐと言うこともない。こういった場に不慣れな晶子でも、とりあえず参加できるくらいの集まりだった。

「晶子さんは、彼氏いないの?」

 男ーーーオオタと名乗ったーーーはオレンジ色のグラスを揺らしている。彼は幹事だから、アルコールは控えるのだそうだ。

「恋人ならいます」

 晶子は上の空で答えた。

「あちゃー、残念だなあ。今日は彼氏に怒られなかった?」

 晶子はオオタの顔を記憶に刻むように見る。オオタは中肉中背で、目立つ要望ではなかったが、話しぶりが生き生きとして愛嬌がある。表情が豊かなのだ。最近、晶子はひとの顔を覚えることを努力している。

 晶子の視線にオオタがどぎまぎとした様子を見せてからやっと答えた。

「他の人に迷惑をかけないように、と言われました」

「ええ? ずいぶん余裕の彼氏だね」

 余裕、全くその通りだ。

 体育教師は、晶子を飛び越えて、阪口に了解を取りに行った。阪口は了承した。まるで保護者気取りだ。確かに阪口は晶子の保護者であるのだけれど。

 今日の晶子は失敗が多かった。言い張って作らせてもらった朝食のオムレツはスクランブルエッグになってしまったし、阪口のシャツにトマトジュースを飛ばしてしまった。

 全く君は仕方ないですね、阪口はいつものように優しげな笑みを浮かべて、同じようにトマトジュースのシミを作った晶子のブラウスのボタンに手をかけた。

「顔、赤いよ、酔ったの?」

 晶子はぷるぷると顔を振った。幼い仕草を見て、オオタは笑った。

「晶子さん、美人系なのに小動物っぽいというか。彼氏もこんなかわいい彼女合コンに行かせちゃダメだよね。どんな人?」

 晶子のブラウスを脱がせて、新しいブラウスを着せた人。

「真っ赤になっちゃってるよ。彼氏のこと好きなんだねー」

 晶子はオオタに聞いてみようと思った。晶子は自分が一般常識に欠けていることを最近はひしひしと感じていた。最近の自分の変調について理解するヒントを、オオタから掴めるかもしれない。

「オオタさんは恋人がいるんですか?」

「俺? 一応いるけど」

「オオタさんの恋人は、あの・・・恥ずかしがりませんか?」

「は? どんなとき?」

「あの・・・だから。オオタさんは恋人さん・・・」

「シノブ」

「そのシノブさんは、オオタさんが恋人としてすることを恥ずかしくないのでしょうか」

「そ、それってどんなこと」

「例えば、朝起きてお風呂に入れたり、髪をとかしたり、服を着せたり、ご飯を食べさせたり・・・」

 オオタは泡を食った様子で周りを見回した。周囲は程良く盛り上がっていて、晶子とオオタの会話に気を留めるものはいなかった。

「しょ、晶子さんの恋人は、晶子さんにそれをするの?」

 晶子はこくんと頷いた。

 以前は恥じらいながらも、むしろうれしさの方が勝って、阪口にされるがままになっていたのに、最近ではそれが恥ずかしくてならないのだ。

 心地よいだけであった阪口の視線すら、見つめられていると思うと恥ずかしくてたまらなくなる。

 だから阪口を拒絶するようなことを言ってしまう。阪口には受け流されて、晶子も意地を張る。反抗的になって、慣れない家事に手を出してみたりする。

 今朝も失敗して肩を落とした彼女を、阪口は抱き寄せて耳元で囁いた。

「君には向いていないと思いますよ」

「今日はたまたま・・・です」

 晶子は必死に身をよじって阪口の腕から逃げようとする。

「どうしたんです、私に抱かれているのがいや?」

 いやではない。間近に迫る鉄色の瞳や、それを彩る存外に長い睫、高い鼻梁。

「ん」

 形の良い唇を重ねられて、鼻から息が抜ける。口づけは深く、惜しみなく与えられる。

「おかしいですね」

 とろけた顔の晶子を透き通った目に映して、阪口は珍しくくすくすと笑った。

 晶子ははっとして、また猛烈な恥ずかしさに襲われる。あの濡れた唇が自分の唇を奪った。いや、唇だけではない。もはや、晶子の体で、阪口の唇が知らぬ場所などないのだ。

「恥ずかしい・・・・・・です。前はそんなに思わなかったのに」

「前は!? 前は思わなかったの!?」

 いやー・・・・・・とオオタは汗を拭ってから、グラスを一息に開けた。

 晶子は思い出して真っ赤になった顔を両手で覆った。

 どうしてこんなに恥ずかしいのかわからない。阪口に触れられること、見られること、すべてが恥ずかしくてならない。

 ちらりと見えた文字盤が十時をさす。晶子は痛恨のため息を漏らした。

「イヤー、その彼氏会ってみたいわー・・・・・・」

 オオタが飲み物を載せたメニューを取り上げたとき、店の扉が開いた。視線がそこに集中する。

 冷房が利いた店内に比べ、外は蒸し暑い。開いた扉からは湿った空気が入ってくる。その空気とは正反対に、冷ややかな雰囲気を纏ったすらりとした体つきの男が閉じた傘を傘立てに入れた。無駄のない動きに、どこからかため息が聞こえる。

 彼が目を上げると、見ていた人々は慌てて目をそらす。

 晶子だけは目を逸らさず、彼の視線がまともにぶつかった。晶子の真っ赤な顔を見て、阪口は眉をひそめた。

 再び喧噪の戻ってきた店内。阪口は目を伏せたまま晶子の座る場所まで来ると、しゃがみ込んで晶子に小さく「帰りますよ」と言った。

 オオタがまた「イヤー」と言う。

「イヤー、これがその」

 阪口と晶子を交互に見やりながら、オオタは「イヤー」を繰り返す。

 阪口はオオタに会釈し、「ご迷惑をおかけしたようですね」晶子の荷物を持った。





「迎えに来いと言ったのは君でしょう」

 呆れた口調の阪口から、晶子は鞄を取り返す。

「と、当然です。恋人ならそのくらい」

「そもそも、大方の人は恋人がいるのに合コンには参加しませんよ」

 晶子はぽかんと口を開けた。

「だから君は」

「だ、だって、私、早く、この恥ずかしいのを何とかしたいんです」

 実は何度も阪口に訴えたのだ。どうしてかわからないが、阪口に触れられると恥ずかしくてかなわない、不用意に見るな、触るな、そう言っても阪口は取り合わない。むしろ面白がっている節すらある。

「そんなに恥ずかしいですか?」

 皮膚がひりひりするくらい恥ずかしい。阪口に伝えるのもままならぬくらい恥ずかしい。

「そんな顔をすると、もっと恥ずかしいことをしてやりたくなります」

 晶子は首を傾げた。これ以上恥ずかしいことなどあるのだろうか?

 今でさえ、全身が痺れたみたいだというのに。


 晶子のシートベルトを締めるために体をかぶせてきた阪口に、深く口づけられる。晶子は一瞬頭を引いたが、すぐに舌に従順になった。思う存分、甘い蜜を味わった。濡れた唇を厚い舌がなぞって離れる。阪口の目の中に晶子がいる。それを見てぼんやりと、この恥ずかしさは当分薄れないだろうと思った。




 阪口が晶子に着せたのは、膝が隠れる丈のワンピースだった。

 晶子はマンションの玄関の鏡に自分を映してみる。

 ほっそりとした体に、薄青色のワンピースと、白いジャケットを来ている。靴は銀色。オズの魔法使いに出てくるドロシーの靴。

 湿気を吸って柔らかくなった長い髪に、雨の滴が乗っている。晶子が指で弾くと、滴は鏡に飛んだ。晶子は鏡に顔を近づける。全体的に小作りなのに、目の大きい顔立ち。不思議な気持ちになる。

 こんな顔なのか。

「何してるんです」

 奧から阪口に声をかけられて、晶子は慌てて靴を脱ぐ。

 洗面所で阪口はタオルを広げていた。そのまま晶子の頭の上に置く。

「じ、自分でやりますから」

 晶子がタオルを奪おうとすると、器用にタオルが逃げていく。

 晶子はタオルのみを見て手を伸ばすから、阪口が目を細めて晶子が躍起になる顔を見ていることに気づかない。

「んぷっ」

 勢い余って晶子は阪口に抱きついてしまう。タオルはひらひらと舞って床に落ちた。晶子の腕に、阪口の体の厚みと体温が伝わる。自分とはまるで違う、固い体。

 顔を上げると阪口が見下ろしている。晶子はまた顔を赤くして、唇を震わせた。

「ご、ごめんなさい」

「どうして行ったんですか? 今日」

 阪口の腕に抱かれている。それは晶子にとって当たり前の筈なのに、心臓が口から飛び出そうで困ってしまう。

「だって」

 放して欲しいが、放して貰えないことも予想できた。阪口に隠し事もできない。

「あなたが言ったんです。普通はすることだって」

「合コンを?」

「それに」

 晶子はテレビを観るようになった。最初はちかちかして短時間しか観られなかったが、最近は気に入った情報番組もある。朝、ぼんやりと観ていた番組では、若者の婚活が取り上げられていた。その時阪口が言ったのだ。

「あなたも、行ったことあるって言いました・・・」

 画面では、男女が楽しげに浮かれ騒いでいた。あの中に阪口もいたのだと思うと、胸がむかむかしてきた。きれいに装った女性の注目を、さぞかし集めたことだろう。ひょっとしたらそのうちの一人や二人と深い仲に鳴ったのかもしれない。以前、阪口にはそういうつき合いの女性がいたことも知っている。

 考えれば考えるほど、むかつきはひどくなっていく。

「なるほど」

 阪口は顎に指を当てた。

「わ、笑わないで!」

 狭い洗面所でもみ合うようになるが、晶子はこみ上げる羞恥に我を忘れている。阪口が見かねて晶子を抱き上げて、バスルームに連れ入った。

 そのまま湯をためたバスタブに晶子を落としてしまう。

「きゃあっ!」

 晶子は悲鳴を上げる。湯の温度は高くはなかったが、びっくりしたのと、服を着たままであったから、急いで浴槽から出ようとする。

 その晶子の襟元に、阪口の指が差し入れられた。

 指はひんやりと冷たく、晶子は肩を竦める。

「君があんまり暴れるので」

 指はそのまま背中にまわり、ファスナーを下ろし始める。

 晶子は恨めしげな顔で、反対に機嫌の良さそうな阪口を見上げる。

「笑うから・・・・・・・」



 晶子の頭の中も、心の中も、今や阪口でいっぱいで、他の何者も入る余地がない。晶子はまるで新しく生まれ変わったように、新しい自分の形に戸惑っている。

 それを阪口がいかに喜ばせるか、晶子はまだまだ理解できない。


 抵抗もむなしく裸に剥かれ洗い上げられ、今夜も、晶子は観念した。

 与えられるのは甘い蜜。中毒になると知っていて、晶子は蜜をねだる。

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papilio 千日紅 @sen2_k

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