第10話 蝶を愛でる

 誰しも美しいものが好きだ。

 愛でたり、時にはそれを汚したり、とにかく、美しさはひとを引きつけて止まない。


 阪口の前に座る娘は、まだ眠そうな目を瞬かせている。

 朝日に照らされた髪はつやつやと輝いていた。日本人に特有の温もりのある焦げ茶色の髪の毛は、所々もつれている。

 滑らかな頬は、皮膚が薄いのだろう、すでにうっすらと赤みを帯びている。眠りの名残は、幾分褪せた唇にある。普段は桃色の唇が、今は薄い桜色だ。

 何よりも素晴らしいのは彼女の瞳だ。長い睫が縁取る黒々とした大きな目は、時間を閉じこめた宝石よりも、なおきらきらと輝いている。

 晶子は自分の美しさを知らない。


 阪口は晶子をマンションから連れ出した。たまの休日、遅い朝食を外で取ってもいいだろう。外出のための服を、晶子は自分で選んだ。クローゼットの中の衣服は、すべて阪口が与えたものである。

 何度か服を持ってきて、これでいい?と晶子は聞いた。君の好きなように、と言うと晶子は唇をとがらせて自室に戻る。それを繰り返した。

 ノースリーブのワンピースをかぶった晶子は、どこからか雑誌を引っ張り出してきて、阪口に見せて、髪を編んでくれとねだった。見よう見まねで編んでやると、彼女は満足そうに、最後に髪留めを自らの手で飾った。

 その指の優美さ。すんなりと、細く先へとがる指。桜貝のような爪がちりちりと光を跳ね返す。親指と人差し指で髪飾りを摘むと、一層細い小指が反り返った。一仕事終えた指は、行儀良く手のひらの中に収まる。再度手のひらが開いたときには、指は阪口の指に絡められていく。

 阪口の固く節の立った指に、白い指が絡みついてくる様は、彼の劣情を誘った。


 今、その指は、カフェオレの注がれたカップを持ち上げている。設えられたテーブルは計算されて植えられた木々の陰になっていた。白い夏の日差しを避ければ、陰のうちは、水の中のように薄青く暗い。

 晶子は小さな顎をつんと持ち上げて、みずみずしい果実のような唇にカップを触れさせる。ほっそりとした喉を濁った液体が通り抜け、鎖骨の合間がくっと凹む。

 肉の薄い胸は、けれど骨が浮かんで羽織らず、緩やかに上下する。むき出しの肩が、白く浮かび上がる。

「おいしい」

 晶子は口元に残った砂糖と、ミルクと、コーヒーからできた滴を舐め取った。仕草には放埒なまでの無邪気さと、阪口だけが知る誘惑がある。

 にこにこと機嫌の良い晶子は、周囲の視線に気づかない。通り過ぎた若いウェイターが、彼女を振り返っていったことにも、隣のテーブルのカップルの片方が、椅子の足に絡んだ晶子のサンダルを履いた足の、丸い踝の白さに息をのんだことも。

 この美しさは阪口が花開かせたものであり、また、彼だけに向けられている。


 さて、ひとは美しいものを好む習性がある。美しいものをより美しく、何よりも美しく。咲き誇った大輪の花を、踏みにじった時、どんな心地がするだろう。しかし今はまだ、水をやり、土をくれ、株を大きくする時期だ。そうして秋が来て、冬が来て、何度の春が必要だろうか。


 晶子は阪口の手のひらで、幾度も羽化するだろう。そのたびに彼女の羽は美しく、大きく強くなるに違いない。やがて、手のひらを飛び立つほどに。その時を待ち遠しく、また、その時を迎えたときの己に恐ろしさを感じつつ、阪口は確かなもの、晶子の美しさに見入った。鱗粉を落としながら蠱惑する蝶。逃げるならその羽をピンで打ち、時を止めて閉じこめるまで。

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