第9話 ヘルマプロディトス
たくさんの目がこちらを見ている。
眼だ。
瞼の間からくり抜かれたそれ。神経の束を引きずっていたかもしれない、それは丸く整えられ、出来の悪い食品模型のような鈍い光沢を放っていた。
眼球には上も下もない。ゼラチン状の膜の向こうで光彩が伸び縮みして、瞳孔が呼吸する。上から、下から、近くから遠くから、晶子を見ている。
目は、晶子がうずくまる透明な床にもびっしりと浮かんでいた。手のひらの下に目、ついた膝の横に目。隙間なく、大小の目が幾何学模様を為していた。
晶子は逃げる。どこかへ。
目は彼女を追う。どこへでも。
逃げても逃げても目は追ってくる。
まるで追いかけてくる月のように、けれど、月よりも克明に、晶子を映し出していた。
「怖い夢を見ていたようですね」
乾いた手に額を撫でられる感触に、晶子は瞼を押しあげた。
頭ががんがんと痛む。瞼を開けたものの、恐ろしさはちっとも去っていかず、晶子はすぐ傍にあった温もりにしがみついた。
「せんせい」
晶子は阪口の胸に顔を埋めた。両手を彼の首に絡ませて、引き寄せながら自分の体を押しつけた。
体温が伝わる。鼓動が響く。阪口の匂いがする。阪口の肌が放つ温かさ、湿度。
(・・・・・・になってしまいたい)
四つ足の獣たちは、その舌で、歯でお互いを愛撫する。同じように晶子も阪口を感じたかった。
(・・・・・・食べられてしまいたい)
晶子の手が阪口の体をまさぐり始める。阪口はまずその手を止めさせて、晶子の唇を奪った。
「どんな夢でしたか?」
「・・・・・・夢」
「そう、怖い夢を、見たのでしょう?」
晶子は枕元の明かりに手を伸ばした。
急なことで痛んだ目に、やがて浮かび上がる。いつもかけている眼鏡を外し、前髪を乱した阪口の顔。怜悧な輪郭、よく磨かれた金属の色の目。
晶子は上下の睫を擦り合わせるように、目を眩しげに細めた。
そして、二人の寝床から這い出て、明かりの作る輪から少し外れたところに立った。
「晶子?」
晶子はおもむろに服に手をかけた。阪口が上半身をベッドに起こす。
晶子はじっと阪口を見つめたまま、衣服をゆるめると、肩から滑り落とした。
静かな闇の中、一糸纏わぬ裸身となって、晶子は阪口を手招いた。
「先生、見て」
揺らした手を、晶子は自分の顔に滑らせる。顔から首へ、鎖骨へ、まだ青い膨らみから、えぐり取られたように凹んだ腹部、浮かんだ腰骨から大腿へと、淀みなく晶子は辿った。
「目が、たくさん、私を見た。先生じゃないのに。先生しか見ちゃいけないのに」
晶子は顔を阪口に向けたまま、体をよじり今度は背中をも見せた。
やせた背中に背骨と肩胛骨が深い陰を作る。
「あとが・・・ついていたらどうしよう。先生にもう見てもらえなくなったら」
細い肩が戦慄く。阪口はベッドに腰掛け、晶子に手を伸ばした。
柔肌を這う繊手を、絡め取る。
「先生・・・・・・!」
白い裸身が翻り、阪口の腕の中に収まる。がっしりとした太股の間に挟まれて、腕は晶子の腰に回った。
心臓の前に阪口の顔がある。
「それは、ただの夢です」
「ゆ、め・・・・・・」
晶子の目から涙が溢れ出た。
阪口には伝わっているうだろうか。いや伝わっていないはずもない。阪口だけが、晶子を閉じこめる。阪口の、永遠に錆びない鉄色の目の中に、晶子の住処がある。
「もし、本当になったらどうすればいいの? 先生じゃないの、先生じゃないのに私を見ているの、先生が、先生がいなく」
「しーっ」
阪口は晶子の指に手を当てた。
指の代わりに唇を押しつけて、晶子の言葉を奪った。
「・・・・・・大丈夫です。私が君の前からいなくなったりすることはないし、もしもの時にはね」
阪口が横たわる晶子の耳元につぶやくと、晶子はうっとりと嘆息して目を閉じた。
翌朝、晶子は肌寒さを感じて、温もりを求めてシーツの上をまさぐった。
すると、温もりは自ら晶子の体に巻き付いた。
「おはよう、晶子」
気づけば、仰向いた阪口に腹這いで乗り上げていた。ぱっと顔を上げた晶子は、下から阪口に微笑みかけられて、勢いよく阪口の胸に顔を押しつけた。
「・・・・・・服?」
晶子は自分が服を着ていないことに気づいた。阪口の上で、赤い顔でもぞもぞとそれを確認する晶子を乗せたまま、阪口は体を起こし、彼女をシーツでくるんだ。
「今日は、昆虫館に行こうと思います」
休日の朝食は時間のゆとりに任せて、ブランチになることも多い。
珍しく阪口は早めに朝食を終わらせて、晶子に出かけることを提案した。
「昆虫館・・・ですか」
晶子の瞳がとまどいに揺れる。阪口と暮らすようになって、以前の虫への恐怖は殆どなくなっていた。しかし、実際に昆虫館などいう場所へ行くことには不安があった。
「君も楽しめると思います」
阪口は半分に切ったキウイを手に取ると、スプーンで実をすくい、晶子の口元に差し出した。
キウイはよく熟れていて甘かった。舌の上でよく冷えたキウイを温めるように味わう晶子に、阪口は目を細めている。
阪口のその表情が好きだ。晶子にだけ向けられる顔。笑っているわけでなく、細められた目は、瞼がゆるめられているせいで陰が深い。
「好きですか?」
「好きです」
晶子が言うと、阪口はもう一匙キウイをすくった。
「あ、キウイのこと・・・?」
阪口にじっと見つめられ、晶子は赤面しながら、阪口の手からスプーンを取り上げた。
「先生は好きですか?」
「好きですよ」
晶子はキウイをすくう。阪口がやったように滑らかな動作ではなかったが、銀色のスプーンの上に金色の果実がこんもりと載る。
「はい」
差し出したスプーンを阪口はそのまま受け取って、反対に晶子の口の中にキウイを滑り込ませた。
「私が好きなのはこっちです」
まだキウイが口の中にあるうちに重ねられた唇、舌が器用にあたたかな口内に入り込んで固まりをさらっていく。
ついでとばかり、猫がしっぽで叩いていくように、敏感なところをくすぐられて、晶子は背筋を震わせる。
「甘いですね、おかわりしてもいいですか?」
晶子はとろりと目を潤ませて、雛鳥のように口を開けて、阪口が与えてくれるものを待った。
白地に墨で太く「武修館」と書いた看板を、晶子は帽子のつばの下から見上げた。
もうすぐ夏を迎える時期に、空気は生ぬるく、雲の間から時折差す日差しは鋭い。
晶子に白い帽子をかぶせた阪口は、駐車場に止まっている車を確認すると、晶子の手を引いて、塀に沿って歩き出した。
「珍しく大先生がこの時間からいるみたいですね」
塀は長く続いているが、それほど歩くこともなく、勝手口を阪口はくぐる。晶子もそれに続いた。
目の前にはプレハブが建っていた。開け放たれた入り口の向こうは薄暗い。
「ここは個人の道場なんです。ほら、あちらに見えるのが大先生のご自宅」
晶子は曖昧に頷く。誰かに会うかもしれないと思って、急いで帽子を取った。
入り口をくぐると、すぐに埃っぽい臭いが晶子の鼻をついた。
室内の暗さに目が慣れてくると、道場の奥に老齢の男性と、晶子と父親と同年齢と思われる男性がいた。
二人とも道着を着ている。
「拓郎か、よく来たな」
びりびりとよく響く低い声がかけられる。寂しくなった頭頂部を補うように、白髪のもみあげと、そろいの髭が立派な、頑健な体つきの老人だった。
晶子が頭を下げると、老人は「そっちのお嬢ちゃんも」と付け加えた。
老人の名は富沢善司と言った。善司と、息子の善雄は平日の夕方や休日に道場を開いていた。
阪口の亡くなった祖父と富沢は古い知己で、阪口も箸を持ち始めるのと同じくして、この道場で竹刀を振るようになった。
「珍しい蝶を手に入れたと善雄先生が連絡をくださったので」
すると、善司によくにた風貌の、けれど黒々とした頭をした善雄が阪口に向かってぐっと体を乗り出した。
「拓郎もきっと見たがると思ってな、それでえっと、こちらの女性は」
阪口に半歩体を押し出されて、晶子はふわりと長い髪を揺らして頭を下げた。
「晶子です」
親子はそろってぽかんと口を開いた。晶子は何か失礼があったかと、隣に立つ阪口を振り仰いだ。
阪口はその晶子の手を握り、先ほど押し出した晶子の体を半分ほど自分の後ろに押しやった。
それを見て、善雄は「紀美子が泣くな」と言った。
「折角だからやってけ」
善司の提案に阪口はあまり乗り気でない様子であったが、善雄に連れられていった。おそらく準備をしてくるのだろう。
晶子は善司と二人、薄暗い道場に取り残された。薄暗いといっても、採光は十分にある。プレハブ天井はむき出しで高く、窓から入ってくる光の中を埃が待っている。
「剣士としての拓郎は俺が育てたようなもんだ」
晶子はぼんやりと埃が舞う様を眺めていた。
老人の顔に皺は深い。晶子は阪口の祖父母を思う。早くに父母を亡くした少年の阪口と、彼らの姿を思い浮かべようとした。
「あいつは才能もあったし、根性もあった。道場に来たばっかりの時は、ちょっと擦り傷を作っちゃあべそかいてなあ。初めての試合でこてんぱんにのされて、わあわあ泣いて。そっからだな。負けん気が強いんだ。勝っちゃあ自慢げに騒いで、負ければまたびいびい泣いて。阪口の娘夫婦が亡くなるまでは。
「あの夫婦がいなくなってから、拓郎は泣かなくなった。勝ち負けにこだわらなくなった。そのかわりめきめき腕を上げた」
善司は道場の隅に晶子を座らせた。自身は立ったまま、試合場に目を向ける。
晶子には見えないが、善司にはきっと、幼い阪口の姿が見えているのだろう。
試合場の中を元気いっぱいに飛び回る少年の姿。まだ晶子と出会う前の阪口拓郎。
「俺が根性出せって言うとな、刃向かうのよ。大先生、そんな精神論では上達しませんって。生意気な坊主でな・・・・・・ははは」
刺し子の白い道着に紺袴の阪口が、晶子にも見えるような気がした。
「中学生になるともういっぱしでな。善雄も二本に一本は取られてたなあ。善雄とは趣味も合ったみたいでな、俺には拓郎は孫のような、善雄にとってはこどものような」
老人が晶子を振り返った。そして、晶子に無骨な笑いを向けた。
阪口は深く礼をしたあと、右足を前に踏み出した。
あたりに静寂が満ちる。
わずかな衣擦れの音も、呼吸すら、皮膚感覚を通じて伝わってくるような、張りつめた空気だった。
じりじりと摺り足で隙を探す善雄が、堪えかねて打ち込んでくる。それを、阪口は独楽が回るように、右足を軸にして素早く相手の竹刀を避けた。
善雄が打ち込んだ竹刀を構え直す間に、阪口は相手の懐に飛び込んだ。
「面!」
晶子には、阪口の背中が一瞬大きく膨らんだように見えた。速すぎて、動作の詳細はわからない。
男らしい声が道場に響いた時には、阪口の竹刀は相手の面を打ち、なおその背後の空気すら突き刺すように振り下ろされていた。
剣道は礼に始まり礼に終わる。
阪口と相手がきびきびと試合線まで戻った。
相手に向かってまた深く礼をしたあと、阪口は試合場を降りた。
試合場の隅で固唾をのんでいた晶子の前まで来ると、阪口は面を取った。
試合は数分だったはずだ。なのに、阪口の額にはうっすらと汗が浮いている。
晶子はハンカチを取り出した。阪口が少しだけ屈む。
紺の銅着の肩に掴まって、晶子は阪口の汗を拭った。
「全くなまっとらんじゃないか」
拓郎が差し出す竹刀を善司は受け取り、阪口の面を再現するように軽く振った。
「踏み込みが速い、打つのも速い。余計な力が入ってないし、軸がぶれない。何より、目がいい」
「恐縮です」
阪口は晶子の手を握ってハンカチを汗の浮いた首筋へと滑らせた。
阪口の手はいつもよりもだいぶ熱い。
「いやー、参ったね。拓郎もここで指導者をやらないか。ちょうど小学生や中学生を教える大学生が就活で休みがちになってさ」
防具をはずした善雄がタオルで汗を拭き拭き寄ってくる。
善司と善雄が揃うと、阪口はまた、晶子の体を半分だけ自分の後ろに押しやった。
「これでも忙しいんですよ。それより、善雄先生、そろそろ見せていただけませんか」
善雄は今思い出したという顔をして、自宅で待っていると言って道場を出て行った。
「大先生、それではまた」
「お嬢さん」
晶子が足を止める。
見上げた阪口と視線が合うが、彼は無言で晶子の手を離した。
「先に行きます」
阪口の姿が見えなくなると、老人はしゃがれた声で背を向けたままの晶子に言った。
「拓郎を・・・・・・道連れにするのはやめてくれんか」
「父さん、最近ぼけてきたって言うかねえ。道場のことも心配してるんだ。後継者は誰だなんてね。ずっと、拓郎を紀美子の婿にしてなんて言ってたから。あ」
善雄は自分の口に手を当てた。しょうがなく、晶子は尋ねた。
「紀美子さんって、どなたですか?」
善雄は口に当てていた手をひらひらと振る。分厚い手のひらで、指にはたこが目立つ。
善雄は公務員をしながら、先祖から伝わった田畑も耕している。いわゆる兼業農家だ。そこに道場主の肩書きが上乗せされるのは、確かに厳しいかもしれない。
「紀美子は俺の娘。拓郎のひとつ下かな。なにが楽しいのか仕事ばっかりして。気を悪くしないでくれな」
三人は話しながら庭を突っ切って歩いた。敷地は広かった。母屋と離れの間には、鉄筋がむき出しの二階建ての作業小屋があり、一階部分の車庫にコンバインが入れられていた。
庭木は完璧ではないが、そこそこ手入れされていた。池には鯉が泳いでいる。
「裏の畑のさあ、くず野菜を入れると食べるんだ」
晶子が池をのぞき込むと、善雄は畑がある方を指さした。田畑は塀の向こう側だから、相当な広さの土地を持っているのだろう。
徐々に傾く日差しの中を歩きたどり着いた離れにも、看板がかけられていた。今度は「昆虫館」と書いてある。
「俺が趣味で集めた標本をさ、道場に来る子供たちに解放してるんだ。結構見に来るんだぜ」
離れは六畳と四畳半の二間からなっていて、台所と風呂場がついていた。
その六畳の所狭しと標本箱が並べてあった。
「紀美子は小さいとき拓郎のお嫁さんになるって言っててな。父さんもそれが忘れられないのかな。さっきは泣くなんて言ったけど、紀美子は、あっそう、で終わるかもしれないね。こどもは大人になっても、大人はいつまでもあの頃のままでさ」
晶子はそこでようやく、老人が試合場に何を見ていたのかわかった気がした。
彼は、自分の大切な道場が、孫娘夫婦に引き継がれていく、そういう幸せな風景を見ていたのだ。
「拓郎もすっかり落ち着いたもんね。ほら、未来とか孝太郎とかまだ道場来てるんだぜ、あいつらも時々拓郎のこと気にしてるぜ」
晶子の知らないたくさんの名前が会話にのぼる。
阪口はそれらの名前を聞いて、時折笑みを浮かべる。質問をすることもある。善雄も楽しそうに、身振り手振りを使って、彼らの話をする。
晶子はただ座って、それを見ていた。
善雄が肝心の標本を取り出す頃には、小一時間が立っていた。
「関西の友人が譲ってくれたんだ」
そこに羽を広げた蝶は、善雄の恭しい手つきからすると、貧相に見えるほどの大きさだった。
「オオムラサキ」
晶子が真っ先に答えた。阪口は晶子をちらりと見てから、晶子に優先させるように、体を引いた。
「よく知ってるね!」
善雄は嬉しそうに、晶子の近くへ標本箱を押しやってきた。
大きすぎない茶色い羽に、斑紋が乗っている。晶子はまず黄色い斑紋から羽の全体をとらえ、
「・・・・・・え?」
と呟いた。
オオムラサキは雄にだけ羽の中央に青紫の光沢がある。雌は光沢がない代わりに一回り大きい。
しかし、標本の蝶は、左側の羽には青紫の光沢があり、右側の羽には光沢がない。その上、左右の羽の大きさが違う。右側が一回り大きい。
「雌雄同体・・・・・・ですね」
自然界には雌雄同体の昆虫が希に見つかることがある。カブトムシやクワガタにも見つかる。昆虫はそういった奇形が発生しやすいのだ。人間などと比べ。
オオムラサキは日本の国蝶で、生息範囲は広い。いくつか発見例も報告されているはずだ。晶子は教師としての知識を頭の中から引っ張り出す。 知識としては知っているはずだった。しかし、こうして見てみると、全く違った。
もはや、晶子は自分が虫を恐れていたことを忘れ、食い入るように蝶を見つめていた。
善雄や、阪口まで眼中にない晶子に、善雄は苦笑した。
「不思議な子だね」
標本箱を抱えるようにした晶子は、その声にはっと我に返って、阪口を振り返った。
阪口は晶子を見ていなかった。善雄は続けて阪口に話しかけ、彼は善雄に笑いかけていた。
一頻り知人たちの近況について、またやりとりしてから、善雄は晶子から標本箱を受け取った。
「その子、大切にしてあげろな」
「ええ、大切にしていますよ。その蝶のように」
善雄は標本箱に視線を落とし、それから奇妙に歪んだ笑顔になった。
「やめろよ、人間と虫は違う」
答えない阪口に、善雄は真面目な顔で諭し始めた。
「標本みたいに扱われて喜ぶ人間はいない。お前はやっぱりまた道場に来い。剣を振らなくなったからそんなこと考えるんだ。
いいか、人間と虫は違う。もし、この子をお前が虫と同じだと思ってるなら、それは」
晶子は耳を塞いで立ち上がった。
「私、先に失礼します」
そして、そのまま離れから飛び出した。
老人の目に自分はどう映ったのだろう。
自分の愛弟子、息子のように育てた男。いつかは孫娘の婿にと望んだ男が連れてきた娘。
青白い頬に、ガラス玉じみた目をした人形のような娘。
老人のそばで笑い、ともに時を紡いでいくはずの存在が、人形遊びに興じていると、老人は思ったのかもしれない。
老人は言ったのだ。
「拓郎はあんたとは違うんだ」
と。
道場を含めた家屋敷の敷地を出て、塀が見えなくなるくらいまで走ってから、晶子は足を止めた。
土地勘のない街だった。晶子は闇雲に走ったせいで、自分がどこにいるのかわからない。
「・・・・・・どこ」
呟くと、なおさら不安がわき上がってくる。
あたりには夕闇が満ち始めていて、晶子は自分の肩に手を回した。
携帯電話はおろか、財布も持っていない。晶子は阪口の手から飛び出れば、何もできない。
住むところも、食べるものも、服も、阪口に与えられていた。
晶子には何もない。
例えば、タクシーを捕まえ、実家まで行ってもらう、それくらいだろうか。それも人の手を借りることで、晶子自身ができることは、思いつかなかった。
「当然よ」
ぽつりと地面に涙が落ちた。
ぽつぽつと歩くうちに、路地から車が通る大きな道路に出た。
そのまま華奢なストラップのついたサンダルを歩道に鳴らしながら、晶子はとぼとぼと歩いた。
このサンダルは阪口が選んだもので、すぐに足が痛んできた。
「この靴、歩きにくかったのね」
そんなことにも気づかなかった。当然だ、長く歩くようなこともなかったのだから。
歩道を歩く晶子の隣に、静かに車が止まる。
そちらを見なくても誰かわかった。
「乗りなさい」
晶子は答えずに、痛む足を引きずるようにしてまた歩き始めた。
「晶子」
阪口の声は普段と変わりない。ビロードのように滑らかで優しい声立った。
しかし、それが今は晶子の感情を逆撫でした。
「・・・・・・放っておいてください」
一瞥した阪口の表情は判然としなかった。
夕闇が深くなり、車の中は更に暗い。
いっそ、今すぐに夜の闇が晶子を覆い隠してくればいいのに。
俯いて歩く晶子の腕が後ろに強い力で引かれる。
あまりの強さに痛みが走り、晶子は顔をしかめて振り返る。
車を降りた阪口だった。走ったせいで汗をかき、べそをかいた顔はみっともないに違いない。晶子は咄嗟に顔を覆った。
「なぜ? 私に顔を隠すのです?」
「醜いからです。私が醜いから」
「逃げるのですか?」
晶子は激しく首を振った。
「もう、いいんです、わかったんです。わ、私が、おかしいんです」
口にすると楽になった。
阪口は何もおかしくない。まともな人間で、まっとうな人生を歩めるのだ。しかし、晶子は違う。
逃げたりしない。逃げたくなどない。ずっと阪口に捕らわれていたい。ドイツ箱に閉じこめられた虫みたいに、時間の経過も忘れた部屋に。
(人間と虫は違う)
今日の外出は、阪口がそれを晶子に思い知らせるためにあったのかもしれない。
「わたしが先生をだめにする。先生を不幸にする。私が幸せになるために、先生を狂わせる」
「私が、あなたをすべてから守ると言ったでしょう」
晶子は猫なで声の阪口をきっと睨みつけた。
「ごまかさないで! 私だって、それくらい、わかります!」
こんな大声を出したのは生まれて初めてかもしれない。
阪口に逆らうことも、怒りをむき出しにすることも。
そうして、晶子は自分の中に、ごうごうと燃える炎があることに気づいた。それは時に晶子を炎の揺らめきで惑わした。炎の中に取り込もうとした。晶子は目を凝らす。
「いいから乗りなさい」
「いやっ!」
阪口の指が腕に食い込んで痛む。かまわずに暴れる晶子を抱き込んで、阪口は白い小さな耳の近くで囁いた。
「ここで、君を犯してもいいんですよ」
子音の立った囁きは、内容とは正反対に無機質に晶子の耳に響いた。晶子は聞いたことが信じられずに、暴れる体から力を抜く。
その隙を阪口は見逃さずに、一息に晶子を抱き上げた。
「そんなくだらないこと、考えられなくしてあげます」
晶子の抵抗をものともせず、阪口は晶子を助手席に乗せると、車を発進させた。
何かがおかしい。
晶子が望んだ、晶子のための檻が、晶子を苦しめようとしている。
その檻は強固で、清冽な輝きを放つ、水晶か、金剛石か、なお美しい。
映るのは晶子の姿だ。この檻の中には晶子しかいない。晶子と、檻に映し出された晶子だけの、実は彼女だけの世界。
晶子が望んだのは壊れない檻だ。自分を閉じこめる完全な檻は、晶子の時を止める。晶子はそこで何者に脅かされることもなく、静かに過ごすのだ。
完全なる静寂がそこにあるはずだった。
「君は、私が君の理想の主だと思ったのでしょう。逆に言えば、条件さえ満たせば、私でなくとも良かったんです」
阪口の運転する車は国道に出ると、追い越し車線に入った。
制限速度を超過している。車窓を風景がものすごい速さで流れる。経験したことのないスピード感に尻が浮くような心許なさが晶子を遅う。
「君を誰かが見るだけで、私がどれだけ嫉妬するかなんてこと、考えもしないんでしょうね」
「やめてください、そんなこと」
知ってる、いや、知らない。
晶子にとって阪口は、晶子を閉じこめる完全な檻だ。晶子の理想の主、支配者、時折覗かせる見知らぬ顔には目をつぶってしまえばいい。
晶子の世界には、晶子だけがいればいい。檻はそれを守るもの。
裏返せば、檻ですら、晶子の中には入って来られない。
「私がいるのに、君が満足しないのはね、君が君だけを見ているからです」
ひどく残酷なことを言われた気がした。
そして同時に晶子は深く頷いていた。晶子は、晶子の殻に閉じこもったままでいたいのだ。永遠に羽化することを忘れた蛹のように、空の美しさを胸に描いて、そのままひっそりと朽ちていきたい。
阪口はその最良の番人だった。阪口自身も、それを受け入れた筈ではなかったのか。
「だから、もういいと言ったじゃないですか。もう、いいです。私がいなくなればきっと」
「あなたは私を不幸にするかもしれない。私の不幸くらいで、あなたは逃げていくのですか? 私の破滅をおそれて?
だから言ったでしょう、あなたの檻が壊れるときは、あなたも一緒に壊してあげると」
「それじゃダメなの! 先生が・・・。先生はダメなの・・・」
もしもの時には一緒に連れて行ってあげるから、そう言われて、嬉しくない程度には、たぶん晶子は阪口の侵入を許してしまった。
「私も、先生を大切にしたい」
晶子は嫉妬したのだ。阪口の過去を知る人物達に出会い、彼が気の置けない笑みを向ける様子を見て、深く傷ついた。
対抗心とはまた違う。けれど彼らは晶子に、晶子がいかに歪んでいるかを見せつけた。だからこそ、晶子は晶子以外の人間がするようなことを阪口にしたいと思った。けれども、それは無理だとも思った。
晶子は、他の誰かがするように、阪口を幸せにすることはできない。
「大切にするとはどういうことです。居場所を決め、そこに戻し、古くなれば捨て、新しいものをまたそこに置き」
阪口の声には楽しげな色が乗っていた。
遮って晶子は続けた。
「それは、虫を・・・・・・標本でしょう。人間は違います。人間にはそのようにしてはいけないんです」
阪口はのどを鳴らすようにして小さく笑った。車の速度は変わらない。笑みを含んだまま、阪口の視線はフロントガラスの向こうに向けられている。
「私は本当はあなたが幸せでもどうでもいいんです。ただ、あなたは私の腕の中に閉じこめられていればいい」
晶子は言の穂を継げず黙り込む。
阪口も黙ったまま、車をわき道に逃げさせた。
あたりはすっかり暗くなっていた。国道を過ぎる車のヘッドライトが、ガラスチューブを走るビー玉のようにいくつも通り過ぎていく。
阪口は、パーキングエリアの隅に車を止めた。まばらに立った灯りが、阪口の横顔を照らす。
「君は、私が死のうと言えば、簡単に首を差し出しそうでした」
晶子は頷いた。
「でも、それは、してはいけない、ことなんでしょう?」
緊張の糸がゆるんだ晶子の目から涙が溢れ出た。
「さあ、私にはわかりません。けれど、そうしても、君は私のものにはならない。私はね、君が幻を見る暇もないくらい、縛り付けてしまいたい。君が己の狂気に怯えるのが許せないくらいにね」
「先生は、私にどうしろと言うの?」
涙に濡れた晶子の頬を阪口は撫でる。
数時間ぶりに触れた温もりは、よく知っているようで、全く知らない温もりでもあった。
ここにいるのは、晶子が待ち望んだ、晶子の世界の番人ではない。
あわよくば、晶子の世界を打ち壊してしまおうとしている侵略者だ。
どこからボタンを掛け違えたのだろう。晶子を蝶のように捕らえ、虜にする筈の少年は、まるで晶子の思うとおりにならず、彼女を引き裂くことさえ厭わないと言ってのける。
だから、晶子から解放してあげようとしたのに。
「それくらいのことで私をあきらめるのですか」
晶子は阪口の顔を見上げた。
頼りない灯りが、彼の美しい瞳を銀盤のように光らせている。
晶子はゆるゆると手を挙げて、阪口のたくましい首を包んだ。
脈打っている。
晶子は指の腹で、一番具合のいい場所を探った。
ここぞと言う位置に、それぞれの指を置く。
阪口は身動ぎもしない。
晶子は親指を阪口の喉仏に置いた。
そして、太い喉仏を両の親指で潰すようにして、渾身の力を込めた。
晶子の指が、喉仏と頸動脈を締め上げる。
阪口が、ぐぅっと喉奥からうめき声を上げる。けれど彼は抵抗しない。晶子は指に力を込め続ける。もう少し。
「だめ」
自分に呟いて、晶子は突如、阪口の首を絞めていた手を離した。
「・・・・・・疲れたの」
晶子は涙を流したまま、助手席のヘッドレストに頭を寄りかからせた。そのまま目をつむる。
これが私。阪口のくれた微睡みから目覚めさせられた晶子。
暗闇の中に炎が踊る。今や、炎は晶子になりつつある。ひどく頭が痛む。ひとつの終焉。
阪口が咳をしたので、晶子は目を開けた。
阪口の喉には晶子の指のあとが赤くなっている。晶子はくすりと笑った。
「私は先生を大切にできない」
阪口の腕に体を休め、夢を見て眠ることが許されなくなれば、晶子の狂気は晶子を飲み込んで、檻の外へと向かう。
阪口は晶子に手を差し出した。晶子はその手に、つい今まで彼を殺そうとていた指を絡ませる。
「ものとひとの違いはどこです。虫と人間も、さほど変わらないでしょう」
晶子は阪口の厚い手のひらを辿る。冷たくて固い、強靱な力を秘めた指。
「ええ、私にとっては。先生にとっては違うでしょう」
「私は、蝶を飼いたいのではない。君を飼いたいのです」
「先生、おかしいわ」
「昔の人間は愛を宝物と訳したそうですが、宝物のようにするなら、誰にも目のつかないようにして、鍵をかけてしまっておかなければいけませんね。私は君をそうするつもりです」
晶子の背中を寒気が走る。これは恐怖から、それとも。
「君は、私をどうしたいですか?」
やがて辺りに雨が降り始めた。
再び阪口は車を発進させた。一度は降りた国道にまた乗る。
濡れた道路の上を、車は静かに滑る。
国道の脇はガソリンスタンドが放つ白い光と、時折、どぎつい色のネオンサイン。
晶子は首を捻って窓の外を見ていた。それらの光が途切れるときに、鏡になったガラスに阪口の横顔が映る。
こんなひとだっただろうか。晶子は目を凝らす。
平たい額からすっと落ちる鼻梁。官能的な唇から顎への曲線。顎から顔の輪郭はのみで彫ったように鋭い。複雑な耳の形、耳にかからない長さで、清潔に整えられた髪。幾分長めの前髪は分けて後ろに流されている。
そして銀色のフレームの眼鏡と、フレームにほぼ水平にすっと伸びた眉。鉄色に鈍く光る目。
彼は晶子の目の前で、目にも留まらぬ速さで竹刀を振り下ろした。そこにいた誰よりも強く美しかった。
(傲慢そうな)
晶子は頭に浮かんだ言葉にガラスを見つめる目を見張った。
(冷酷そうな)
晶子はきつく目をつぶる。今まで見ていた阪口の姿を消そうとして。しかし消えてはくれない。
(先生は優しい)
晶子の保護者、晶子を守る絶対的な存在であるはずの阪口の姿が、徐々に解けていく。
(先生は)
(拓郎さんは、阪口拓郎は)
晶子の憧れであった阪口の姿が見えなくなる。現れたのは、鉄色の目をした男。彼の目には慈しみや思いやりは微塵も浮かんでいなかった。
彼の手には刀がある。必要なのは力ではない。相手の懐に入り込む、素早さとずる賢さだ。欲するものを手に入れるためには、奸計の罠を巡らすことも躊躇しない欲望への服従。そこには晶子がやはり憧れてやまない強さがあった。
車は国道から、ネオンサインのひとつに滑り込んだ。晶子はたじろいで運転席の阪口を見やるが、彼は何も言わない。
車を降ろされ、引っ立てるようにして連れ込まれたのは、モーテル型のラブホテルだった。薄暗い室内の空気はどこかじめじめとしている。急に、晶子は自分が道場を走り出て汗だくになったことを思い出した。
阪口は上着を脱いで備え付けられた鏡台の椅子に放り投げた。そして、ベッドに腰掛ける。
そして、立ち尽くす晶子を見下ろした。
「何をしてるんです」
阪口の鋭い視線をまともに受けて、晶子の膝がふらつく。けれども晶子は座り込むこともせず、己の脚を叱咤した。
「先生こそ、何をしてるんですか」
阪口はネクタイとワイシャツの間に指を入れて、左右に揺らしながらネクタイを緩めた。そのままネクタイを引き抜く。
「言ったでしょう? くだらないことを考えられなくさせてあげるって」 思わず後退りした晶子の足が浮いた瞬間を、阪口は見逃さなかった。
ただでさえ震えの来ていた足を払われ、晶子は体勢を崩す。
晶子は阪口に抱きしめられていた。ネクタイが床に落ちる。
「本当に君は覚えが悪い。そもそも、私は君が自分の世界に閉じこもっていいなんて思っていない」
もがけども、腕はなおさらからみついてくる。
室内の隅に置かれたスタンドの灯りがやけに赤い。赤い光を受けて、阪口の髪が炎のように透ける。
どこかで見た。
急速に意識が過去へ向かう。よみがえるのはあの日見た阪口の姿だ。
赤々と輝く夕日を背にして、阪口は傲然にさえ見えた。
晶子は心臓を鷲掴みにされたように、体をびくびくと波立たせた。
(こわい)
晶子はあの瞬間、阪口に圧倒的な強さを見たのだ。自分が従うべき支配者の姿を。
阪口は優しかった。いや、優しさを纏っていたから、晶子はすっかり忘れたふりをしていた。本当に忘れてしまうくらい。
(この人は恐い)
晶子は己の相反する願いを見た。
時間を止めていたい、生も死もないところで、標本の虫のように閉じこめられていたい。
圧倒的な力に身を委ねてしまいたい。
二つの願いは同時にはかなわない。他者の力を受け入れること、そういった変化は、時が止まった存在にはあり得ない。前者で生死を否定する願いをし、後者で生死を肯定する。死んだように生きていたい晶子を否定する。
「幻と君を分け合うことにうんざりしてきたところです。お望み通り、ひどく抱いてあげますよ」
「ま、待って、先生」
「私は十分あなたを待ったと思いますよ。あなたのおままごとにつきあうくらいはね」
「先生は何をしたいの」
阪口は晶子の首筋に舌を這わせた。びくびくと跳ね上がる体を押さえつけたまま笑う。
「君もよく知っているでしょうに」
晶子の知る阪口の抱き方とはまるで違った。阪口の冷たく固い指が、未熟な晶子の性を無理矢理に開花させようとする。みすぼらしいラブホテルの一室で、雨は降り止まない。晶子は阪口と、何夜も過ごした。そのどの夜も蕾が綻ぶまでじっくりと温めるように加えられた愛撫。その記憶すら消え失せてしまうような苛烈さだった。
恐ろしいことに、阪口はそうして快楽で晶子をひれ伏させ、己に奉仕させることまでした。晶子は涙しながらも、阪口に従った。
行動を強制され、思考を奪われる。屈辱でしかない行為を通して、阪口が晶子の奥深くまで浸透してくる。晶子が幼心に築き上げた、標本箱の世界すら破壊して、根こそぎ阪口のものにされる。
晶子は何度か拒否を訴えた。それは全く受け入れられなかった。晶子の望みは何でも叶えると言ったのと同じ唇で、晶子の皮膚を噛み破った。晶子は入れ替わり立ち替わりする苦痛と快楽に、悲鳴で喉を枯らした。血の味がする唇を、阪口は嬉しそうに舐った。
目覚めたときは真夜中だった。
薄明るいのは、スタンドの光が夕日のように赤いからだ。
耳を澄ますと、雨の降る音がした。それに混ざって、ひとの話し声が聞こえた。それはいつか喘ぎ声に変わる。
晶子はずっと、雨音だけを聞きたいと思っていた。自分が湿った空気の一部になれればと思った。けれど、それでは阪口をつなぎ止めてはおけないのだ。
頬を傾けると、ベッドのヘッドボードにもたれて阪口が座っていた。
片膝を立て、そこに手を置きその上に顎を乗せ、眠っているようにも見えた。
確かに阪口は晶子を何も考えられなくさせた。
だからこそ、今はわかる。
「もし、先生が私を置いていったら、私が先生を」
彫像のように静かに収まっていた手が晶子を抱き起こし、引き寄せる。
「君が?」
震える晶子の唇を、阪口が指でなぞる。親指の腹で腫れ上がった唇を擦りあげ、晶子が痛痒さに顔をしかめると、我が物顔に人差し指と中指を唇の間に差し込んだ。
親指で顎を固められ、二本の指に口内をまさぐられる。苦痛に細めた瞼の間から、思わせぶりに阪口が唇を舐めるのが見えた。
「ここもいっぱいにしてあげたでしょう」
阪口が音を立てて指を引き抜くと、晶子は突き上げる嘔吐感にむせかえった。
涙で滲んだ視界に阪口の顔が見える。
変わらない怜悧な美貌。どうして彼を優しいばかりと思っていたのか。 阪口があの頃と同じように、そっと羽を開くように、晶子の唇を拭う。
「・・・・・・あなたが好きです」
「どのくらいですか」
阪口は物憂げにむき出しの肩を揺らした。晶子はシーツを自分の胸元まで引っ張り上げる。
「あなたの・・・・・・時間を止めてしまいたいくらいです」
おそらく安物の、肌触りの悪いシーツ一枚だが、晶子と阪口を隔てるのには役に立った。
「引きずり込んでしまいたいです」
晶子の中にあった炎は、晶子を焼くものではない。それは今や晶子と混じり合って、怒りすら晶子にもたらしていた。
「それは難しいですね」
阪口は晶子の唇をすっかりきれいにすると、満足げに唇を合わせた。
「キスは好きですか?」
「・・・・・・好きです」
「セックスは?」
「それは・・・・・・嫌いです」
「それも、難しいかもしれませんよ。私は君を貪るのが好きだから」
晶子は悔しさに顔を歪める。阪口はひとりベッドから降りた。裸身を隠そうともせず。阪口がバスローブを羽織る短い間、晶子は顔を背けたままでいた。
「おいで、体をきれいにしてあげましょう」
「いやです。ひとりでできますから」
阪口はベッドを回り込み、背けた晶子の視界に自ら入り込むと、膝をついた。
「私は君の世話をするのが好きなんです」
阪口が甘くほほえみ、晶子は全身をおののかせた。
「勝手・・・・・・なんですね」
「ええ、ずっと、私は私のしたいように君を愛しています」
「閉じこめて? 手入れをして」
そんなのは間違っている、そう晶子は言えない。なぜなら、晶子にも正しい愛し方はわからない。自分がいやだと思うからという理由で、否定することもできない。
「すべてをね」
阪口が求めているのは、晶子のすべてなのだ。晶子の内的世界もーーー狂気も含めたすべて。それと同時に、晶子が一片でも阪口に隠し持ったものがあれば、晶子を壊してでも手に入れる。すべてが壊れても手に入れば満足する。
そういう男に望んで囚われ、奪われてこそ、晶子は初めて生きることに感情を揺り動かされていた。決して阪口を許すまい。晶子をこのようにもとから作り替え、その上で吐息さえ阪口のものにする。この残酷な男を決して許すまい。晶子が生きて、阪口が生きている限り、決して逃がしはしない。
「これが私のすべてです」
完全に自分を明け渡してしまって、晶子はそこに檻がないことに気づく。晶子は自由だった。
隅々にまで澄んだ力が漲り、どこまでも飛んでいける。しなやかな強さが羽に満ちていた。飛んでいける。イカロスが太陽に近づきすぎて墜落したように、天高くまで。首には枷があるが、枷は相手にもつながっている。相手が鎖を離さぬよう、鎖の主の周りをくるくると飛び回る。いつしか、鎖が相手に絡みつきがんじがらめにしてしまうまで。
そうして飛ぶ蝶は、羽の大きさも色合いも左右違う。雌雄同体なのだ。生物としては変異体。雌雄をともに持ちながら、生殖の機能も持たず、次代に何か伝えることもなく、ただ、死んでいくだけの蝶。
晶子は阪口の手を払い、ひとりで立ち上がった。シーツを体に巻き付け、阪口をおいてバスルームに向かって数歩歩いたところで足を止めた。そして、口づけを待つ貴婦人のように、彼に向かって手をさしのべた。
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