第8話 リペア


 僕は少女を飼うことにした。



「三十九度、ですか」

 体温計を見て、阪口が呟くと、晶子の方が真っ青になった。

 今にも泣き出しそうな晶子にマスクを取ってこさせて、阪口は口元をマスクで覆う。眼鏡が曇るのが邪魔で、眼鏡を外し、テーブルの上に置いた。

「多分、インフルエンザだと思います。しばらく私はホテル住まいをしますから、君はこの部屋を自由に使って構わない」

 ここのところ、仕事が忙しかったから疲れていたのかも知れないと阪口は振り返る。仕事は忙しいが、晶子の世話に手を抜くつもりも無かったから、自然とオーバーワークになり、抵抗力が落ちていたのだろう。せめて、感染を広げることは避けたい。

「こら、離しなさい」

 玄関で、晶子は阪口のコートの裾を握って離そうとしなかった。



 受診して、ホテルにチェックインし、勤務先の連絡も終えて、やっと一息ついた。阪口が宿に決めたホテルは駅舎の上に建設されており、阪口の部屋があるマンションも、遠くに見渡せた。

 高熱にぎしぎしと体は痛むが、特にそれに構うこともない。剣道を長くやっているからだろうか。痛みがあれば、思考は余計に冴えてくる。




 僕は少女を飼うことにした。




 次の日の昼間、阪口はホテルのベッドで大半の時間を過ごした。

 昼過ぎに、勤務先から電話がかかってきた。阪口がメールで指示を出した事柄の進行と、学内の様子。

『本間先生が朝から冴えませんね』

 電話の相手は、尋ねてもいないうちに、晶子の様子を伝えてくる。結婚を前提にして、年長者である阪口が晶子を預かっている形の同居だと周囲は思っているから、現在の晶子の心情を推し量ったのだろう、同情的な口調だった。

「うつっていそうですか?」

『わかってるくせに、そうじゃないですよ。全く生彩を欠くというか、だいぶ前の本間先生に戻ってしまったというか、それよりも悪いというか』

 阪口は電話越しに見えないほほえみを返した。




 僕は少女を飼うことにした。

 少女は従順で、手と足が一本ずつ欠けていた。




 晶子は閉じていた目を開けた。

 昼の中庭には光が満ちている。

 昼食はろくにのどを通らなかった。めまいを感じて瞼を閉じていたが、目を開けても、めまいは収まらない。

 世界がぐらぐらと揺れている。蜃気楼の向こうにあるように、色も形もぐにゃぐにゃと崩れて、人間などは特にひどい。丸や三角を不安定に積み上げた塔が、ぶるぶると揺れながらやってきて、ガラスをひっかくのに似た声で言う。

「晶子先生、次の授業始まっちゃうよ」

 晶子は見当をつける。多分、これは、面倒見がよいあの女生徒。文系科目に比べて理系科目が得意で、部活はバスケットボール部。

 晶子はおそらく顔だと思われるあたりを見て、無理矢理に明るい表情を作った。

「そうね、急がないと」

 顔色悪いよ、と三角のあたりの色が茶色に変わる。丸はピンクと青を行ったり来たりだ。

「心配しすぎだよー、阪口のこと」

 そうだ、この生徒は阪口のことを呼び捨てにするのだった。男子生徒の半数と、女子生徒はそうする。

 晶子はまたぎゅっと目を閉じた。阪口が部屋に帰ってこなくなってからもう三日だ。ずっと学校も休んでいるけれど、抗ウイルス剤の処方も受けて、体調はそれほど悪くないと、晶子は朝礼で聞いていた。

「メールとか、電話とかすればいいじゃん」

 女子生徒は晶子をなだめるように彼女の肩に手を伸ばす。逃げたくなるのをぐっとこらえた。虫唾が走る。

「私、携帯、持ってないの」

 女子生徒が素っ頓狂に驚く。晶子は会釈して、膝の上のパンをナプキンに纏めて立ち上がった。


 阪口に会いたい。授業中も全く身が入らない。

 放課後のグラウンドからは生徒達が野球をする声が聞こえてくる。

 どうやって授業をこなしたかも覚えていない。晶子はまるで動物園の中にひとり取り残された迷子だ。みなつぶらな黒々とした目で晶子を見返してくる。ライオン、ゾウ、キリン、ペンギン。彼らはきっと檻の中にいるから、あれほど悠々と自信に満ちているのだ。晶子は自分を受け入れてくれる檻を探す。けれど、どこにも「人間」と書いた札のかかった檻はないのだ。

 言い表せぬ不安が晶子を苛んでいる。

 阪口は晶子から携帯電話を取り払い、空間を、時間を取り払い、社会的なしがらみも取り払った。それでいて、晶子が阪口のまねをして、教師という仕事に取り組むことを見守った。

 阪口の指が好きだ。器用な指、料理が得意な指。美しく、けれど癖のある字を書く指。あの指が、指揮者のように宙を舞う。晶子はそれに合わせて踊る。

 指揮者がいなければ、踊り子はただの人形に戻ってしまう。

 教室をうろうろと歩いていた晶子が、窓際に立ったちょうどその時、大きな音を立てて、教室の窓ガラスが爆ぜた。

 グラウンドから飛んできた野球ボールが、窓ガラスを突き破って、教室に飛び込んできたのだ。

 大きな破片は床に落ち、小さな破片は宙を舞って、晶子を襲った。

「えっ……あ、いた、痛い……、痛い…………」

 きらきらと光が晶子を包む。光はすなわち凶器で、美しさに比例した鋭さで、晶子の皮膚を切り裂いた。

 グラウンドから大きな声が聞こえる。「あー、やっちゃったよー」「職員室行けよ」「ネット張らないでやるからだろ」

 首筋や、頬がちりちりと痛む。身じろぐと、肩からガラスの破片が砂のようにこぼれ落ちた。ガラスはいくつもの線条を発し、晶子を貫いている。

 晶子は、ひりひりと痛む頬に手をやった。手に血が移る。

「血が……傷が、あ、あぁ」

 阪口は晶子が傷つくことを厭った。包丁や火気には極力近づけない。許されれば、先のとがった鉛筆でもボールペンでも、その他ありとあらゆるものから、晶子を隔離しようとでも言うように。阪口の手だけが、無制限に晶子に与えられていた。

 晶子に傷が付いたら、きっと阪口は悲しむだろう。あれほどまでに注意を傾けていてくれたというのに、うかつな晶子は傷を負ってしまった。

 阪口は悲しみ、そして、晶子に落胆し、晶子を捨ててしまうかも知れない。

「いや、傷、だめ……だめ…………」

 晶子は頬を闇雲に擦る。またガラスの破片が晶子の体からこぼれて床に散る。襟から入った破片は、晶子の背中の皮膚に食い込んだ。

 傷を消そうと、擦ってるのに、どんどん血が溢れ出てくる。

「いや、いや、どうして…………」

 晶子の足の下で、ガラスが踏み砕かれる。その間も、血は擦るほどに色を濃くする。擦っては手に移った血を見て、また傷を擦る。何度も何度も繰り返す。そのうち痛みは熱に変わり、体中が心臓になったように感じられてきた。

 膨らんで血を流し、萎んで血を吸い上げる。小さな傷口がやがて大きくぱっくりと開き、中から出てくるのは



 連絡を受けて教室にやってきた女性教師の悲鳴が教室に響いた。




 養護教諭は、カーテンを半分閉めた先のベッドに横たわる晶子を横目に、書類にペンを走らせた。カーテンからは、シーツに包まれた足だけが見える。

 学内の事故に関しては報告書が必要だ。野球ボールは窓ガラスを割り、幸い、けが人は教員一人。

 同僚の教員に抱き抱えられるようにして保健室にやってきた晶子は、口をきこうとしなかった。驚いたのだろうが、それにしても、全くの無反応で、気味が悪くなるほどだ。様子を見ていると、晶子は瞬きをしないのだ。目が赤くなるくらい乾いたであろう頃に、やっと瞼が下りてきて、遅く瞬く。そしてまた開きっぱなしになる。彼女が動くと、小さく、ちゃり、と音がするので、服の中にガラスが入っているのではないかと養護教諭は心配したが、当の晶子が無反応だから、為すすべもない。

 仕方なく、見て取れた傷だけ処置をして、ベッドに横にさせた。晶子はベッドの上で、やはり目を開けたまま、ぴくりともしなかった。

 もとから線の細い、弱々しげな女性だと養護教諭は思っていた。年の割に幼く、すれたところもない。生徒達の方がよっぽど世慣れている。繊細に整った顔立ちは、ビスクドールを思わせた。

 一時のショックで呆然としてしまうことはある。しかし、これはそういった範疇を越えているのではないだろうか。たかがガラスが割れた程度で、このように真に人形のようになってしまうものだろうか。どこかちゃんとしたところを紹介した方がよいのではないだろうか。

 保健室のドアが開いて、眼鏡をかけた長身の人物が入ってくる。養護教諭は詰めていた息をほっと吐いた。

「阪口先生、もう具合は」

「ええ、もうすっかり。連絡を貰いましたので」

「そうなんですよ。何が何だか、本間先生は何というか……いえ、あの」

「彼女は人一倍繊細なので」

 阪口は養護教諭に向かってゆったりとほほえんだ。あんまり阪口が落ち着いているので、養護教諭も寄せていた眉根を緩ませる。婚約者であり、優れた教員である彼が、一顧だにしないのだから、ひょっとしたら自分が心配しすぎたのかもしれないと、養護教諭は事務椅子に乗せた尻をもじつかせる。

 養護教諭が見守る中、阪口がカーテンを開ける。すると、晶子は起きあがってこちらを見ていた。

 長いまつげに縁取られた大きな目が、またゆっくりと瞬きをする。瞳が洗われて、瞼の下から光り輝いて現れた。

「せんせい」

 養護教諭の耳には舌足らずに聞こえた。

 晶子の目が潤み、にっこりと微笑む。

「先生、先生」

 笑ったことで、処置のテープが引き連れたのだろう、不思議そうに晶子が頬に手を当てる。

 阪口がベッドに腰掛けて、晶子の両手を取った。

 晶子がまた瞬きをする。数回、ぱちぱちっと音がするように早い瞬きだ。

「そろそろ限界だろうなとは思ったんですよ、ごめんね」

「…………え? 先生、いつの間に。あれ、ここは、保健室?」

 晶子があたりを見回そうとすると、阪口が晶子の両手を引く。晶子は困惑しながらも、阪口の顔をじっと見つめた。

「先生、インフルエンザは?」

「もう治りましたよ。お詫びに、何か私にできることがありますか?」

 晶子の顔がじわじわと赤くなっていく。そして、俯いて、ぼそぼそと言った。

「うつっても、よかったのに……」

「よくありません。私が部屋にいたら、君は看病しなきゃいけなくなりますよ」

「看病くらいできます」

「そうでしょうか」

 養護教諭は書きかけの書類を手に取った。どうやら、犬も食らわぬ何とやら、下手に口を出せば、馬に蹴られて、ということかもしれない。すっかりやれやれという気になって、阪口が晶子を抱き上げて保健室を出ていく頃には、先程まで考えていたことは忘れてしまった。




 僕の少女は従順だ。




 浴室で晶子の服を全て取り払うと、ガラスの小さなかけらが出てきた。

 薄い背中に、ひっかき傷がいくつもできている。

 阪口はその傷のひとつひとつに舌を這わせた。晶子はおとなしくされるがままになっている。

 手当を終えた後も、晶子は阪口から離れようとしない。

「そうでした、看病ごっこをするんでしたっけ」

 阪口が言うと、晶子はぷっと頬を膨らませた。

「ごっこじゃありません」

 阪口の膝の上で、晶子は体を丸めている。まだ長い髪は湿っていて、甘い香りがした。

「私だって、何するかわかりますから。先生が」

「先生じゃないでしょ」

「た、拓郎さんが、汗をかいていたらパジャマを変えて、体を拭いて。あとは、消化に良さそうなものを作ったり、よく眠れるようにとんとんしたり」

「とんとん…………」

 阪口は額に手を当てた。

 晶子の頬のガーゼをつんとつつく。

「この傷はどうしたんです?」

 阪口が尋ねると、晶子はことんと首を傾げた。最近よく見るようになった、幼い頃の晶子がよくした仕草だ。肩に首が乗るほどに深く傾けて、晶子は大きな目をくるりと回す。

「ボールが教室に入ってきて……?」

 教室に駆けつけた女性教師は、晶子が傷口から出る血を、顔中に塗りたくっていたと言った。興奮状態で、言いくるめるのになかなか骨が折れた。

 阪口は、ホテルでの数日の療養のあと、病院で診断書を取ると、一旦部屋に戻った。

 置いていった眼鏡をかけて、学校に行く前に室内を検めた。晶子は、阪口が留守にした間どうやって暮らしていたのか、ちょっとしたものの場所も動いていない。冷蔵庫を開けると飲み物とヨーグルトやゼリーが幾つか減っている。自炊した気配もない。洗面所を覗くと、洗濯はしていたようだ。シャワーの栓が閉まりきっておらず、薄く湯気が出ていた。そのせいで、浴室の鏡についた手形が浮かんで見えた。

 ベッドの上には阪口のガウンが広がっていた。ガウンにはちょうどひとがひとり丸まった程度のへこみがある。

 そこまで確認して、阪口は笑ってしまった。

 そして、部屋を出発しようとした時に、学校から連絡が来たのだ。「本間先生が怪我をした」と。

 晶子はなかなか続きを言わない。

 阪口が晶子を抱き寄せると、晶子は頬をすり寄せてきた。

「そういえば、先生はどんなに羽の破けた蝶も、直してたものね。もし、きっと、壊れても大丈夫だったんだ」

 安心しきって晶子が呟く。

 阪口は頷く。晶子の爪の間には血がこびりついていて、阪口はその細い指を口に含んだ。




 僕は少女を飼うことにした。

 少女には何かが欠けているが、それが僕にはちょうどいい。

 僕は少女を飼っていて、少女は狂気を飼っている。



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