時間旅行

群青更紗

2015.12.27

 佐伯さんは授業中、時々腕時計を見る。ただ見るのではない。

 彼女はいつも、比較的真面目に授業を受けていると思う。けれど時々、たとえば耳にかかる髪を軽く掻き上げたときに、ふとその手の手首にある腕時計の文字盤に目を止める。そしてそのあと――ほんの一瞬だが――、普段の朴訥とした様子からはちょっと想像出来ない、柔らかな微笑みを見せるのである。

 僕がそのことに気付いたのは、まだ桜の咲いていた頃だ。朝の小テスト中、解き終わって何気なく辺りを見渡した時、斜め右前に座っていた彼女のその仕草を見つけた。入学して数日、彼女は綺麗な顔だが、表情は乏しい印象だったので驚いた。それ以降、何となく目で追うようになり、それが彼女のランダムな習慣だと気付いたのだった。


「そんなの、『彼氏に貰った』とかじゃねぇの?」

 他校に通う親友の崇は素っ気なかった。初夏の休日、互いの近況報告の中で佐伯さんの話をした反応だ。

「いや……そういうのとはちょっと違うような……」

「それはお前の希望的観測だろ」

 崇はどうしても、僕が佐伯さんを好きなのだと決め付けたいらしい。違うんだけど、と思いながらやんわりと話題を変えてその日は過ぎたが、皮肉な事にそのあと本当に彼女を好きになった。そうなると崇の言った説がズシンとくる。会えない夏休みの間、時計を見る彼女の姿が浮かぶたびに胸が軋み、振り払うように勉学に身を入れた。


「それって、誰かに貰ったの?」

 新学期の席替えで、僕は佐伯さんの隣席になった。自身の感情のために緊張したが、窓際すぐとその隣の最後尾という環境は、自然と僕らの会話を多くした。それである晩秋の放課後、彼女が時計を付け直しているのを見て、思い切って尋ねたのだ。

 佐伯さんは少し僕を見て、それから「あ、うん」と答えた。

「入学祝いに、両親から」

 ホッとした。だが次の瞬間、彼女が「何で?」と聞いてきて、僕はすっかり慌ててしまった。

「え、あ、その、よく愛おしそうに見ているなぁーって思って」

 つい本当のことを言ってしまった。すぐ後悔した。次の瞬間、佐伯さんは明らかに固まり、僕を凝視したかと思うと、その顔がみるみる紅くなって、鞄を乱暴に掴んで教室を飛び出してしまった。残っていたクライスメイトたちが驚いて、だがすぐに元の喧騒に戻っていく中、僕は佐伯さんの机の上に残された時計を見ていた。針が、一時間先を指していた。


 余計なことだと思いつつ、僕は時計を佐伯さんに届けることにした。入学時に貰ったクラス名簿を元に尋ねると、母親が出てきて「まあまあわざわざすみません」と、あっという間に応接間に通され、押し運ぶように佐伯さんが連れて来られた。

「この子本当に無愛想でしょう。ごめんなさいね、でも良い子なのよ、仲良くしてやってね、ごゆっくり」と朗らかにまくしたて、母親は出て行った。佐伯さんはしばらく茫然と立ち尽くしていたが、やがて諦めたように僕の向かいのソファに腰かけた。

「……これ、」

 暫くの沈黙の後、耐えかねた僕はテーブルにそっと時計を置いた。佐伯さんはハッとして自分の手首を見て、慌てて取ろうとして、手を止めた。しばしの沈黙の後、彼女は小さく、「ありがとう」と言った。顔が紅くなっていた。


 彼女の時計は春休み、家族で台湾旅行に出かけた際、行きの便に乗る前の免税店で買って貰ったそうだ。時間潰しで寄って偶然見つけて一目惚れしたそれを、母が察して父と共に買ってくれたのだという。すぐに使い始めたので、時刻設定を台湾に合わせた。その差はプラス一時間。

「海外初めてで、楽しくて、また行きたいって言ったら、成績良かったらねって言われて、」

 それで、士気を上げるべく忘れざるべく、時差そのままで使っているのだという。

 話し終えて佐伯さんは、申し訳なさそうに僕を見て、「逃げちゃってごめんなさい」と言った。

「いいよ。それより、良ければ台湾の話聞かせて」

 僕が笑ってそう言うと、佐伯さんはホッとしたように、初めて僕に向かって、あの柔らかな笑顔を見せてくれた。

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時間旅行 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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