シリウスの約束

群青更紗

2015.09.30

 真珠の波打つ海の向こうに、今日も変わらずあの人がいる。猫の額の根城だけれど、窓からの景色だけは桃源郷だ。一日を終える少し前、床につくまで眺める間、城は暫く船となる。この船旅だけを楽しみに、私はいつも生きている。


 冬将軍が訪ねてきた夜、由貴(けい)はまだ職場で馬車馬だった。やっと人に戻ったときには、もう冷気団を置き土産にされていた。白い溜息を吐きつつ、念のためにと持ってきていたニットを余分に着込み、家路を急いだ。立ち仕事は脚が棒になる。それでも事務所でうっかり座り込んだら、そのまま尻に根が生えてしまっていただろう。

 部屋に着いてもホッとしない。手洗いうがいを済ませたら、そのまま風呂に湯を溜め布団を敷き、化粧を落として湯船に浸かる。ただの人間から、ようやく自分に戻っていける。由貴はこの瞬間が好きだった。ゆっくり浸かって好きな香りに包まれて、命の洗濯をする。今日は柚子湯だ。バス・トイレが別でないのが残念だけど、目を閉じて過ごしている。

 ――さて、どうしたものかな――。

 風呂上り、髪を手早く乾かしパジャマになったものの、由貴は迷っていた。予期せぬ残業で狂った予定の再構築である。こたつで寝落ちするのを防ぐため、ひとまず寝床は作ったものの、このまま今日を終わらせてしまうのは惜しかった。明日は休みでもある。

 ――よし、決めた。

 由貴はパジャマの上からエプロンを付けた。冷蔵庫を開け、下準備済みのものを含めて食材を出し、鼻歌交じりに調理に取り掛かった。小さなキッチンだが、由貴は魔法のように料理を生み出す。時折招く友人からは、「よく使いこなせるね」と舌を巻かれている腕前だ。

 小一時間後、料理が揃った。ふろふき大根、餅巾着の吸物、かぼちゃの煮付け、さつまいものはちみつレモン煮、枝豆とチーズのミニ春巻き、栗の渋皮煮。小鉢ばかりである。そして、梅酒のお湯割り。

「やれやれ」

 一通り、こたつ机に並べたところで、由貴はエプロンを外した。

「それじゃ、始めるか」

 そう独り言つと、デスクライトを灯して部屋の明かりを消した。一度深呼吸をしてから、思い切り良くカーテンを開ける。――船旅の始まりだ。


 ちまちまと箸を進めては、漬け瓶の梅酒を汲んで、魔法瓶の湯を注ぐ。地に降りて早数年、毎年出回りの梅をブランデーで漬けるのはすっかり習慣となった。由貴はザルである。普段は晩酌程度だが、こと今宵と決め込めば鯨飲である。今夜はその夜だ。

 と、良い気分になってきたところで、船景色に変化が起きた。チラチラと影が見える。もしや、と近付いて窓を開ければ、予想通り、雪だった。牡丹である。初雪でもあった。

「あれ?」

暫く寒さを忘れて眺めるうち、今度は別の気配を感じた。と、同時に玄関のチャイムが鳴る。こんな夜中に来るのは、まさか。

「よっ」

 ドアレンズで確かめてから開けると、相手は片手を上げて挨拶してきた。冬将軍である。

「え、どうしたの、仕事は?」

「もう終わったよ。ついでに雪も降らせた。見たでしょ?」

 ブーツを脱いで、知った勝手で上がり込んだ冬将軍は、宴の机を見て叫んだ。

「あー、ずるい!一緒に食べるって話だったじゃん」

「それはそうだったけど、でもこっちが遅れたからもう来ないかと思って」

「あーあ、寄って正解だったわ。貰うよ、」

「いいけどさ、」

 二人でこたつを囲み、冬将軍にも箸と湯呑みを渡す。

「乾杯。お疲れ様。……来るって知ってたら、待ってたのに」

「いや、こんなに早く終わると思わなくてさ。成長してるのかな、それなりに」

「そうね」

 湯呑みに梅酒と湯を継ぎ足す。

「……そんなに早く成長しなくてもいいよ」

 暫く後、由貴がポツリと呟いた。

「私、まだ暫くそっちには行けそうにないし。でも待ってて、必ず追い付くから」

 冬将軍は少し考えて、それからニッコリと笑って由貴を撫でた。

「頑張れ、未来の雪の女王」

 そう、今は人の世で馬車馬でも、いつか二人で。

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シリウスの約束 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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