遠い約束

群青更紗

2015.06.30


Side-K

 黒猫の幽(かすか)は幸せだった。基本的には野良暮らしだけれど、真由香に可愛がられている。病院での注射と手術は楽しくなかったけれど、毎日食べ物を貰え、昼間は家の中へ招かれ、撫でられたり膝に乗って寝たり出来た。

 しかし夜には外に出されてしまう。また時には、昼間でも突然締め出される事もあった。何事かと思っている間に怒号が聞こえ、今閉められた扉が乱暴に開けられる。幽はその直前、真由香が作ってくれた、一見それとは分からない猫小屋に素早く逃げ込むので、それ以上は分からない。

「ごめんね幽、」

 次に顔を合わせる時、真由香はいつも同じ言葉を繰り返した。幽に人の言葉は分からないが、何度も聞く言葉である事は分かる。自分が幽と名付けられた事もそうやって覚えた。「かすか」と、自分を呼ぶ真由香の優しい声が幽は好きだった。

「あなたと暮らせたら良いのだけれど。でもダメなの。ごめんね」

 こう言う時の真由香は優しいし、沢山撫でてくれるが、顔が悲しそうなのが幽はイヤだった。だから思い切り喉を鳴らす。そうすると真由香は喜ぶのだ。

「甘えんぼさんね、」

 真由香が笑う。幽はお腹を見せる。真由香が撫で回す。至福の時間。ずっと続けばいいと幽は思う。

 真由香が幽を抱き上げた。幽は真由香を見た。少し不安そうな顔をした真由香は、幽を座らせて背中を撫で始めた。


 幽は幸せだったが、自分の生活が繰り返されている事を知っていた。最初の記憶は満開の桜。川沿いを歩いて子どもに追われ、逃げ込んだ軒先で真由香と出会う。毎日食べ物を貰い、隠れ家のような住処を与えられ、部屋で寛いで夜には外へ出され時々追い立てらる。

そして風が涼しくなった頃、真由香が意を決したように背中を撫でて、

 ――気付くと満開の桜を見上げている。幾度目からか、幽はそれを辿るようになった。いつ子どもに追われていつ雨が降るか、どのタイミングで追い立てられるか分かっていた。

 だからそろそろ、真由香が自分を抱き上げて背中を撫でる事も解っている。幽は構えていた。回を追うごとに抱き上げるまでの時間が延びているが、そろそろだ。幽は構えた。構えて、

 抱き上げられなかった。幽は真由香を見た。真由香は困ったように幽を見つめていた。


Side-M

 真由香は迷っていた。この幽、9番目の幽に願いを託すか迷っていた。今までの幽は、託した後に来なくなった。最初に託した時、翌春に戻ってきたと喜んで病院へ連れて行ったら、未去勢の別個体だと言われて驚いた。それならそれでと思い、あまりに似ているのでまた幽と名付け、今度は託さないと思っていたのにやっぱり託してしまった。そしてまた春が来て、今年までそれを繰り返した。

 猫には9つの命がある。もちろん迷信だと思っていた。でも今は違う。戯言だと思われそうだが、真由香には恐ろしい予感があった。

 今までの幽は、自分の願いを叶えようとして死んだのでは。自分の願いは、外道なものだ。そうけなされて当然のものだ。それでも毎年秋が来ると、願わずにいられなくなってしまう。

 でももし、今年も叶えられなかったら。

 最初に幽を失ったときを思い出す。本当に悲しかった。もう同じ悲しみは要らない。なのに。

 幽がニャアと啼き、背伸びをした。そしておもむろに、真由香の前に香箱を作った。真由香はハッとした。

「……幽?」

 幽はもう一度、ニャアと啼いた。そして喉を鳴らした。

 真由香は深呼吸した。そして、幽を撫でた。願いを託し、9度撫でた。

 幽は出て行った。幽の去った窓を、真由香は茫然と、日暮れまでずっと見つめた。

 

Epilogue

 午後の最初の診察は綺麗な黒猫だった。この街に越してきて最初の診察だという。体重を量りながら年齢を聞くと、奥さんの方が「じゅっ……」と言いかけ、一瞬驚いた僕の顔を見て「いえ、おそらく二、三歳です」と言い直した。隣でご主人がキョトンとしている。

「ですよね、歯の状態から見てもそのくらいですし。名前は幽くんか……今日はどうされました?」

「はい、ワクチンと、マイクロチップの挿入を……」

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遠い約束 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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