花開くとき

群青更紗

2015.05.31

 気付けば終業式だった。葉月は大きく背伸びをした。

 制服目当てで入学したのが甘かった。県下有数の進学校の勉強地獄は予想以上で、葉月は落ちこぼれまいとあらゆる娯楽を捨てて全力で勉強した。いつの間にか夏が来ていた。

 正直ホッとした。ようやく自分のペースで勉強出来る。息切れしそうだった1学期のような日々はもう懲り懲りだ。2学期からこそ余裕を持てるように――

 と、七夏に声をかけられた。入学時から席の近い、現在一番気心の知れているクラスメートだ。

「ね、今からウチに来ない?」

「え……いいけど、」

 少し驚いた。彼女とは学校でしか一緒に過ごしていない。まして家に呼ばれるのは初めてだ。

 しかし断る理由もない。返事を聞いて七夏は笑った。

「良かった。見て欲しいものがあるんだ」


 葉月の家とは逆方向の、坂を上って降りたところの七夏の家へ、二人で自転車を押して歩き、最後は七夏に続いて滑るように下りた。空がどこまでも青く、入道雲がそびえているのを見た。

 他の家族は留守らしい。お昼を七夏の好意に甘え、夏らしく素麺を2人ですすり終わると、さて、と七夏が言った。

「お待たせ、いよいよメインイベントだよ」


 案内された和室は中央にちゃぶ台の置かれた八畳間で、縁側への戸が開けられて簾と風鈴が見える。風が入るらしく、それらは静かに揺れていた。

七夏に勧められてちゃぶ台前の座布団に座ると、布巾のかけられたお盆が目に入った。その視線を確認して、七夏は葉月の向かいに座ると、意味ありげに一呼吸置いてから手品師のようにスルリとそれを取った。

「え……これって、」

 葉月は驚いて七夏を見た。その姿に、七夏は嬉しそうに頷く。

「うん。葉月ならすぐ分かると思った」

 風鈴が鳴った。凛とした音が、二人の空間を揺らした。

「あの本に出てきたよね。工芸茶だよ」


 去年の校外模試だった。国語の文章題に使われた小説が物凄く素敵で、葉月は危うく試験そっちのけで世界に入り込むところだった。

 田舎の中学生に工芸茶は手に入れづらく、せめて引用元を読みたいと思った直後、志望校見学で偶然図書室にあるのを見つけた。入学したら読めるとの希望は制服に次いで受験モチベーションを上げてくれたが、まさか七夏も同じだったとは。

「いざ借りに行ったら、葉月に先越されてたんだよね。予約して借りた後で貸出カード見て気が付いたんだけどさ、」

「……知らなかった」

「うん……ずっと話したかったんだけど、私が借りる頃には葉月、隙あらば勉強って感じだったから、」

 その通りだった。工芸茶のことも本のことも、今の今まで忘れていた。あんなに好きだと思ったのに。

「だから、今日なら良いかと思って」

七夏が工芸茶の封を切る。小さな手鞠のような緑のそれは、硝子の急須に優しく入れても、カランと硬い音を立てた。七夏の用意した給湯ポットが、沸騰完了を告げる。

「いくよ、」

 葉月は頷き、七夏は勢い良く湯を注いだ。

 緑の鞠がクルクルと回る。やがて小さな泡を吐きながら、ゆっくりと急須の底に座り、少しずつ開き始める。

「これ春先に、中国にいる叔父が送ってくれたの。入学祝いにって。それで本読んでから淹れるつもりだったんだけど、」

 そこまで言って、七夏は少し恥ずかしそうに笑った。

「……どうせなら、話の分かる友達と一緒に飲みたいなと思って」

 葉月は少しだけポカンとして、それからやはり、照れながら笑った。


 硝子の急須の中で、工芸茶が花開く。早速飲むと、独特の味と香りがした。初めて飲むジャスミン茶だった。湯を足し、本の話をし、飲み、湯を足し、を繰り返し、しばし黙って工芸茶を見つめた。

「ね、私たち今、中国の空気を吸ってるんだよね」

 七夏が言った。葉月は頷いた。工芸茶の吐いた泡の広がる世界。今だけは、いつもとは違う世界。二人だけの、共有世界。

 風鈴が強く鳴った。風が夕方を告げていた。

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花開くとき 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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