森の散歩

碧(midori)

サビ

エスは知り合いの猟師、ミヤネさんが飼っていた茶色のハウンド犬だ。できが悪いので、エスは猟に出してもらうこともできず、ほかの犬とは明らかに扱われ方が違っていた。そんなエスをわたしは引き取ることにした。できが悪いと言っても猟犬の血を引いているから、エスの散歩は大変だ。エスは鼻を地面につけたまま歩き続ける。猫や犬の歩いたニオイを拾うと、わたしの力では抑えきれないほど、リードを引っ張る。

「エス、ゆっくり歩いて。」わたしが何度言ってもエスは聞いてくれない。だからエスとの散歩は森と決めた。


森の道は薄暗く、ヒンヤリとしている。森の中で、エスがニオイを拾い始めると、遠くに鹿がいる。鹿はわたしとエスの様子をじっと見つめ、しばらくすると、ドスン、ドスンとその白くて丸いお尻を上下に揺らし、暗い森の中へ消えてゆく。

「エス、鹿がいたね。」わたしは得意げに言う。


今度はわたしが顔を上げると、目の前にカモシカがヌウと現れる。カモシカは気性が荒いので、エスと一目散に逃げ帰る。

「びっくりしたね、エス」と言いながらエスの頭をなでる。エスは遠くを見つめ、鼻をふくらませ、風を感じている。

森の散歩は不思議がいっぱい。


その日、わたしはスマホを片手にエスと森を散歩していた。するといきなりエスが「ウオーン、ウオーン」と吠えたので、リードを強く引っ張った。わたしは「何、どうしたの」と言ってエスをなだめた。辺りを見渡すと、何か動くものがある。近づくと、見たこともない動物の赤ちゃんが声を殺し、何が起きたのか見ようとして頭をゆっくりと動かしている。エスが赤ちゃんをくわえないように、「エス、帰るよ。」と言って、エスを連れていったん家に戻った。今度は一人で移植ゴテを手に、わたしは赤ちゃんのいる場所に近づいた。恐る恐る移植ゴテを赤ちゃんの前に出すと、「シャー」と鳴き、わたしを威嚇してきた。


わたしは猟師のミヤネさんに電話をして聞いてみた。

「見たこともない動物の赤ちゃんがいるんだけど」

「鳥のヒナじゃない ?」ミヤネさんは面倒くさそうに言った。

「ちがう、鳥じゃない」わたしは強く否定した。

「俺は忙しいから、見に行けないよ。そのままにしておけよ。」と言われた。赤ちゃんをそのままにしておくのは不安だったが、歯医者の予約があったため、その場を後にせざるを得なかった。


次の日は明け方から大雨になっていた。わたしは雨の音を聞きながら、( 赤ちゃん、大丈夫かな?)とときどき心配になった。午後、雨が止み、エスとまたあの森ヘ散歩に出かけることにした。もちろん赤ちゃんを探すためだ。赤ちゃんがいた場所を探すと、赤ちゃんはずぶ濡れになっていて、動かない。( 死んでしまったんだ……)

赤ちゃんをこのまま放置したら、きっとその死骸は猫やカラスに食べられてしまうだろう。それは自然の摂理というものなのかもしれない。自然界では弱いものが強いものに食べられてしまうのが掟だ。わが家に毎年つばめが巣作りをするけれど、元気に巣立ってくれる年もあれば、ヘビにヒナが食べられてしまう年もある。現代は人間のエゴがその自然の摂理を破って、猫やカラスを増やしてしまった。文明によって自然のバランスが壊れている。自然界の掟にしたがって、この赤ちゃんも強い動物に食べられてしまうのなら仕方がない。けれど人間のエゴによって増えてしまった猫やカラスに食べられてしまうのは忍びなかった。せめて、弔ってあげようと思い、ダンボール箱を家に取りに行き、再び森に入った。


木の枝で赤ちゃんに触れると、それはか細い声で「ギャー」と鳴いた。「生きている ! 」わたしは急いですくい上げ、箱にいれて、家に持ち帰った。エスは小さな声で鳴く赤ちゃんに気づき、心配そうにわたしを見つめた。

「大丈夫だよ、エス」

わたしは以前、鳥のヒナを拾ったことがある。ヒナを動物病院に連れて行くと、助手の人が新聞紙の下にカイロを敷いて、その上にヒナを乗せたことを思い出し、その赤ちゃんにもおなじようにしてみた。赤ちゃんはじっとしたままだった。


そのうち、ダンボール箱をのぞくたび、赤ちゃんはふっくらしてきた。

( この赤ちゃんは一体何の子どもなのだろう?目はまんまるで、シッポはからだの大きさより長い。モモンガかな?そうかもしれない。)でもなにか違うような気がしてネットで検索してみた。『モモンガとムササビの違い』というキーワードで探したら、写真が載っていた。「ムササビだ、間違いない、この写真とそっくりだ。」さらに、わたしと同じように、ムササビを保護した人の飼育日記もネットで見つけた。その人はムササビのことを「ムーちゃん」と呼んでいたので、わたしも「サビ」という名前をつけた。その日記によると、ムササビはりんごやキウイを食べるようなので、わたしはサビにりんごのすりおろしをあたえてみることにした。

「サビ、りんごだよ。」

サビは目も開けられるようになった。サビの口にストローを近づけると、口は閉じたままだったが、その晩、サビはモッソと動く回数が多くなった。


翌日は仕事の帰り、サビに必要な粉ミルクとスポイトを買って帰宅した。ダンボール箱をのぞくと、サビがいない。すると洗面所の方で、カタッと小さい物音がしたため、慌てて駆け寄ると、サビがいた。「サビちゃん ダンボール箱から抜け出して移動できるほどになっていたんだね。」わたしはサビを抱きかかえ、ミルクを作り始めた。そうは言ったものの、どのくらいの温度がいいかわからなかったが、人肌の温度のミルクをとりあえず作り、サビに飲ませようとした。サビは「ギャーギャー」鳴き声をあげ、動き回ろうとする。わたしはサビの口にスポイトを近づけてみたが、サビは飲もうとしない。もう一度ミルクを口にあてると、「チュッチュッ」と音をたてて飲む。また少しミルクをあげると、サビは「チュッチュッ」と元気に音を立ててミルクを飲んだ。箱に戻すと、サビはモソモソしながら眠りについた。


夜中に心配になってダンボール箱をのぞくと、わたしの気配に気づき、「ビクッ」と飛び上がるサビ。「ごめんね。驚かせて。」サビは生まれて間もなく、親とはぐれ、雨の中一晩中、真っ暗い森のなかでたった一人だったのだ。寂しかっただろう。不安だっただろう。物音には敏感になっているのも当然だった。サビを抱き上げると、わたしの手を伝って動き回った。わたしのお腹のところで、「チュッチュッ」と洋服を噛む仕草をした。「おっぱいを探しているんだね。」「ごめんね、お母さんじゃないんだよ。」わたしはお母さんのおっぱいの代わりに、またミルクをあげた。サビは元気よく飲んでくれた。もう一度口に当てると、サビは「ゲボゲボ」とミルクを吐き出してしまった。スポイトを押すわたしの力が強すぎたようだ。でもサビは元気になっていた。おしっこもたくさん出るようになった。綿棒を使って刺激すると、綿棒が湿るくらい出た。「これで今晩もよく眠れるね、サビ」と言ってサビを床に置く。サビは隅の方ヘ歩き出す。サビは隅が好きなようだ。わたしが抱き上げると、今度はシャツのボタンとボタンの間に顔をもぐり込ませ、そこが気に入ったのか、しばらくごそごそしていた。「もう寝ようね」箱に戻すと、飛び出しそうになった。そのうち丸くなり「チュッチュッ」という音が聞こえてきた。「何してるの?サビ」わたしがのぞくと、サビは一本一本の爪を研いでいるらしい。生まれたばかりの赤ちゃんで誰にも教えられたことがないのに、爪を研ぐなんて、これこそ野生の本能というものなのだろう。生命とは本当にたくましいものだ。そのうちサビはおとなしく眠りについた。


サビは元気になっていたため、このまま育て続けることはできないと思い、昼間わたしは県の鳥獣保護センターに電話をした。県の担当者は冷たく「野性動物は保護してはいけません。親から盗んだことになります」と言い放ち、結局、明日わたしがセンターにサビを連れていくことになった。翌朝、わたしは鳥の鳴き声で目が覚めた。鳥の朝は早い。まだ朝の4時40分だ。サビを鳥獣保護センターに連れて行く前に、最後にもう一度ミルクを飲ませようと抱き上げた。サビは「チュッチュッ」と言いながらたくさんミルクを飲んで、おしっこもいっぱいしてくれた。でもまたサビはわたしのお腹でおっぱいを探す仕草をしたので、わたしはせつなくなってサビを抱きしめた。「お母さんが恋しいよね、サビ。」


いよいよサビをセンターに連れて行くため、カゴに入れ車の助手席に置いた。サビは静かに眠っていたが、20分もするとカゴから出ようと鳴きながら動き回った。わたしはたまらなくなって車を止め、、サビを抱き上げた。「手放したくない」という込み上げてくる気持ちを抑えるため、サビの顔は見ないようにした。わたしもサビも少し落ち着いたので、カゴにサビを戻して、センターヘ向かった。サビはわたしの気持ちを察するように、センターに着くまでおとなしくしていてくれた。


「ムササビを保護しました。」

「話は聞いております。名前と住所を記入してください」やはり冷ややかな対応だった。

センターの人からサビの健康状態を尋問のように聞かれ、「野性動物はいったん人によって飼われると、山に帰る確率は低いです」とまたしても冷たい声で告げられた。

わたしはサビに「 さよなら 」は言わず、センターの担当者に心を込めて「よろしくお願いいたします」と言って深々とおじぎをした。


その日の夕方、猟師のミヤネさんとエスと一緒に、サビを見つけた木の下にもう一度行ってみた。ミヤネさんは「いるね。ほら、木が光っているよ。」と言って、一本の大きな二股に分かれている杉の木をぐるぐると周り、巣穴を探し始めた。

「巣穴は見あたらないけど、ほら、隣の木にもその跡があるよ」とミヤネさんはサビのお母さんが戻って来たことに確信を持っているようだった。

サビが巣から落ちてしまった時、エスはサビではなくお母さんを見つけて吠えたのではないか ? お母さんはサビをたすけようとしたがエスに驚いて逃げてしまっていたのかもしれない。


わたしはサビをお母さんのところに戻してあげたい気持ちでいっぱいになった。センターにいたところで、野生に戻れるかどうかわからない。もし野生に戻れなければ動物園にでも送られて、展示物になってしまうかもしれない。お母さんの愛情を知らないまま、動物園で見世物になるなんて…… すぐにセンターに電話をし、「サビを返してほしい」と訴えた。センターの担当者は以前にも増して冷たい声で「お母さんが再び赤ちゃんを育てることは考えにくいし、そういった事例がありませんから」の一点張りだった。それでもわたしは「一時間だけでいいですから、サビを木の下に置かせてください。もし親がサビを連れに来なければ、センターにすぐにまた戻しますから」と懇願した。「違法飼養は法律で禁止されていますからね」とセンターの人からは念を押されたが、親がサビを連れに来るかどうか確かめるだけという条件で、何とかサビを返してもらうことができた。


「エス、猫が来ないように見張っていて」とわたしは言って、エスを森の入り口に座らせた。それからサビをお母さんが暮らす木の下に置いた。「サビのお母さん、サビを助けてあげて」わたしは祈りながらその場を去った。サビは泣き続けていた。わたしはエスといっしょに森の入り口でカラスがいないか見張り続けた。一時間待っている間に、無謀だったのではという後悔の気持ちと、もしかしてうまくいくかもしれないという期待がわたしの胸のなかで渦巻いていた。長い一時間が過ぎ、木の下のところに行ってあたりを見渡した。

「サビがいない。」

「エス、サビを探して。」エスと一緒にサビを探し始めた。エスは鼻を高く上げ、木の上のニオイを拾おうとしている。「エス、サビはお母さんといっしょにいるの? 本当に奇跡が起きたの?」

お母さんがサビを巣に連れ帰ってくれた! サビはもうさみしくない、お母さんと一緒なのだ。わたしは興奮しながらセンターの人に「奇跡が起きたんです」と電話で伝えると、センターの人は「考えにくい話ですね。くれぐれも飼育をするような違法はしないで下さい。」と冷や水を浴びせられた。


センターの人の対応には失望したが、自然がわたしに見せてくれた奇跡に感動し、自然への感謝の気持ちでいっぱいになった。

「よかったね、サビ。お母さんからおっぱいをたくさんもらってね。」

「お母さん、サビをお願いします。」

わたしは木の巣穴に二匹の親子が寄り添って寝ている姿を想像しながら森を出た。

「エス、明日もまた森を散歩しようね。」

森の散歩は不思議がいっぱい。

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森の散歩 碧(midori) @midori-mori

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