チャチャ

山田ひつじ

第1話

司は曲がったネクタイに気がつかないまま、電車の中でウトウトと船を漕いでいる。電車がガタンと揺れる度に、今、自分がどの駅にいるのか慌てたように窓の外を見る。

大丈夫、司の降りる駅はあと二つ先だ。


「はぁ……」


と、口から零れるため息は疲れとストレスによるものか。

窓の外に見えるビルの明かりが作り出す景色に少しうんざりしながらも、頭の中はすでに明日の仕事のことでいっぱいになっていた。

スーツのポケットからスマホを取り出して見るとメールが1件入っている。

画面に表示された名前を見て、未だに子離れ出来ていない母の顔を思い出す。


『仕事は慣れましたか』


こんな短い文章が1日1件必ず届く。昨日は『ご飯はきちんと食べてますか』だった。返事はいつも『大丈夫』とか『はい』とかそっけないものだけれど、それでも息子の些細な返事をいつも嬉しそうに見ていた。


正直に言えば、仕事は未だに慣れていない。上司に毎日怒られ、帰るのはいつも終電かその一本前の電車だ。ご飯だってスーパーの半額になった惣菜やコンビニのカップラーメン。お世辞にもいい食生活とはいえない。

社会人になって1年が経とうとして、辞表をいつ出すかなんて考えることが多くなってきている。


『仕事は順調だよ。大丈夫』


なんて絵文字のない簡素なメールを送り返した。

嘘ばっかり。

大丈夫なんて言葉を司が使うときは大丈夫じゃないときだ。

母はそんなメールを見て、察したみたいな文面で、『嫌になったらいつでも戻っておいで』と送り返した。

メールを見た司は身体の奥から溢れるみたいに押し寄せてきた涙を、他の乗客にバレないようにこっそりとスーツの裾で顔を隠し、寝たフリをしたのだ。





司の夢は獣医になることだった。近所の橋の下で拾ってきた子犬を大事そうに抱えてきた司は、家族に懇願して飼うことを許してもらった。

白と茶色のジャックラッセルテリアで、名前はチャチャと付けた。茶色だからチャチャ。とても単純な理由だったけれど、チャチャは司にすぐに懐き、司もチャチャの面倒をよく見た。

小学生に上がったばかりの司は、ピカピカの黒いランドセルを自慢げに背負い、チャチャのリードを持ち散歩するのが日課だった。


「あら、可愛い」


なんて瞬く間に近所のマスコットになり、散歩から帰ってくる頃には司とチャチャのお菓子を満足気に持ち帰っていた。

司は毎日のようにチャチャと遊んでいた。

雨の日に庭をただただ走り回って、泥ん子になりながら家の中に入っていったら母にこっぴどく怒られたこともあった。

寝るときもいつもチャチャは司の布団の中で眠っていた。

そんな1匹と1人の寝顔を見ながら、こっそりと撮った一枚の写真は今でも母の携帯の待ち受け画面になっている。

中学に上がり、部活動が忙しくなった司はだんだんとチャチャと散歩する頻度が減っていった。

勉強、部活動、恋愛、そんな日常に追われていた司はチャチャと接する時間はだんだんと短くなっていた。

そしてチャチャもそんな司の姿を察してか、自分だけで寝るようになっていた。




「チャチャが死んだ? え?」


高校3年のころ、チャチャが死んだ。理由は老衰だった。最近、寝たきりでいることが多かったけれど、受験勉強でそれどころじゃなかった司は、母からの電話にすごく動揺した。

図書館で勉強していた司は慌てて、勉強道具を鞄に入れて家に戻った。


「チャチャは!?」


家に上がり、バタバタとチャチャに駆け寄る。冷たくなったチャチャの亡骸を抱きしめ、今頃になって色んな感情が押し寄せてきた。

チャチャをぎゅっと抱きしめ、もっと遊んであげればよかったと後悔の念を抱いていた。

そんなことはない。


チャチャは知っている。


司がいつも愛を持って接してくれていたこと。どんなに遅く帰ってきても、真っ先に頭を撫でてくれたこと。

老齢になって元気に動けなくなっても、慈しむみたいに話しかけてくれていたこと。

チャチャはだからこそ、最期の時を見られないように司がいないときに天国へと向かったのだ。


「ごめん、ごめん……チャチャ……」


それから司は獣医を目指した。動物が好きだったからだ。チャチャの死後、獣医という職を意識しだし、目標へと変えた。

しかし現実は厳しく、1年の浪人の末、普通の国立大へと進学した。偏差値と授業料の壁は司にとって乗り越えることは容易ではなかったからだ。

大学卒業し、東京の企業へと入社した司に待ち受けていたのは社会の厳しい現実だ。

東京という環境は司の肌には合わなかった。他人に無関心な人間と、他人を蹴落そうとする人間ばかり。中には優しい人もいたが、そんな優しさは日々、軋轢に耐えてばかりの司には中々見えなかったのだ。




「あぁ、母さん? どうしたの。電話なんて珍しいね」

「アンタがちゃんと東京でやってるか心配でね」

「大丈夫大丈夫。俺ももうすっかり都会人や」

「……ちゃんとご飯食べてる?」

「心配しすぎだって、いい加減子離れしなよ」


コンビニで買ってきたカップラーメンを啜りながらそんなことを言って強がってみせる。

カレーと味噌汁が恋しくなっているはずだ。


「親は一生、子離れなんてできないのよ」

「そんなもん?」

「どうせアンタ、毎日カップラーメンかコンビニ弁当なんでしょ。早く彼女でも見つけなさい」

「うるさい。余計なお世話だって」


恋人なんて今は作る余裕もない。仕事のことで司の今は手一杯なのだ。

やれやれ。


「もう明日も仕事だから電話切るよ?」

「あ、そうだ。そろそろチャチャの命日だから……。仕事が休みの日にでも帰ってきなさい」


母はこうでも言わないと息子はきっと帰ってこないと思ったのだ。母は聡い。


「分かった。スケジュール確認して、都合が着いたらね。それじゃ」


司は電話を切って、テーブルのタバコの箱に手をつけた。中を確認すると空だ。仕事の忙しさと比例するようにタバコの減りが早い気がする。ため息を付きながら立ち上がり、上着を羽織り、コンビニへと向かう。


「寒……」


外は風が吹き付ける。

司はチャチャのことを考えていた。そういえば、こんな夜寒い日に散歩をして母に怒られたこともあったっけ。

こんな寒い日はいつもチャチャを抱いて寝ていたっけな。

玄関を開けたらいつもチャチャが尻尾を振って出迎えてくれたっけ。

司はコンビニでタバコを買うのを止め、人通りの少ない道で空を見上げてみることにした。


「空を見上げるのが趣味なんですか?」


女の子の声。

司は突然の声に驚きながらも背後を向く。小学生くらいの活発そうな女の子だ。もう寒いというのに、ショートのワンピースを着た不思議な女の子。


「……こんな時間に子供が出歩いたらダメじゃないか」

「私、子供じゃないですし」

「どう見たって子供だろ」

「そんなことはどうでもいいです。お兄さんは空を見上げるのが趣味なんですか?」

「別に。気晴らしかな」


気晴らしという割に浮かない顔をしている。

思いつめたみたいな。


「昔飼ってた犬のことを思い出してた」

「お兄さん、犬好きなんですか?」

「まぁ。チャチャって言うんだけど、人懐っこいやつでね」

「へぇ……」


司は初対面の女の子に、何度も何度も嬉しそうにチャチャとの思い出を話した。少女は飽きもせず、嬉しそうに司の言葉に耳を傾ける。


「最近、仕事が忙しくてチャチャのこともすっかり忘れてた。中学に入ったときも部活にかまけて、高校に入ったときも受験勉強にかまけて。あんまり遊んでやれなかったことを今更後悔してる。俺、ダメな飼い主だったな」

「……そんなことありません。人生の中であなたは一度だってそのワンちゃんのことを忘れていなかったはずです」

「そうかな」

「そうですとも。あなたがどれだけ愛してくれたかをそのワンちゃんはよく分かっています。きっと最期の最期まで幸せだったでしょう」

「そうだといいな」


司は空を見上げた。一面の星空。

きっとチャチャはあの星の一つになって見守ってくれているのかもしれないな。なんて思うのは子供すぎるだろうか。


「とても嬉しそうに思い出を話すあなたを見てると、何だかくすぐったい気分になります」

「恥ずかしいやつで悪かったな」

「いいえ。何だか元気になったみたいでよかったです」

「別に元気になってねぇよ」

「強がりはいつになっても治らないですね。じゃあこうしちゃうぞっ!」


少女は司のズボンのポケットから財布を抜き取ると全力で走り出した。


「てめっ! 財布返せ!」

「私を捕まえたら返してあげますよ〜」

「ふざけんなっ!」


少女は楽しそうに走り回る。司も少女に食い下がるように何度も追いかけた。司が本気で追いかけるたびに少女は嬉しそうに逃げ回る。すぐに司の方がくたびれて、道の傍らに大の字になって倒れこむ。明らかに運動不足だ。


「だらしないですね〜」

「はぁっ……はぁっ……うるせぇ。これでも中学は陸上やってたんだよ」

「それも知ってます」

「な、何言ってんのお前……」

「あー、楽しかった。私はそれじゃそろそろ帰りますね」

「帰れ帰れ。財布置いて帰れよ」

「薄給サラリーマンの給料奪うほど鬼畜じゃないですもん」

「ひでーやつ」

「じゃあ、お仕事無理しないでください。あと、ご飯はちゃんと食べてください。電車で居眠りもやめてください。あとお母さんを大切にしてください」

「……何言ってんのよ」

「あと、あと! ずっと愛してました。ありがとう」


なんて、言いたいことの100分の1も言えてないけど。

頑張れ司。



「今から帰るよ。有給取ったからね。電車乗りつぐから、夕方には着くよ」

「じゃあ私、アンタの好きなの作っててあげるからね」

「楽しみにしてる」


電話を切る。

前より少し気が楽なのは何故だろう。課長に頭を下げまくり、ようやく手にした有給。ガラガラに空いた電車の中で俺は、景色を楽しむ心の余裕があった。

帰ったら一番にチャチャのお墓の掃除をしてやろう。大好きだった餌も添えて。

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チャチャ 山田ひつじ @wahu21

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