仔猫の心臓

「黄褐の八鱗、帰納棍リガートゥルに聖別されたる勇士、罪燐・ルシリウス。その〈魂魄〉は結合より解き放たれ、〈魂〉は対手たる螺導・ソーンドリスへ、〈魄〉はこれなる肉体に残るなり――」

 餓天法師の祝詞が、粛々と響き渡る。

 狼淵はその荘厳な声を、聞き流していた。

 罪燐の遺体が入った棺が担ぎあげられ、粛々と運ばれてゆく。

 これまで接点はなく、言葉を交わすこともなかった相手だ。

 だが、狼淵の心に、何かを確かに刻んでいった。

 ――何のために生きるのか?

 ――心の安らぎ以外、人が追い求めるに値するものなどあるのか?

 だけどそれは、人が生きてゆくことへの否定ではないのか。安らぎたいだけなら、感じる心など邪魔なだけではないのか。

「あの人の言葉、僕には重く、痛い。人が人らしく生きる限り、決して幸せになれないのだとしたら、いったい僕たちは、何なんだ……」

 押し潰されそうな、か細い声。

「わかんねえよ。でも、心の安らぎ以外のすべて喜びが、仮にその場限りのものだったとしても――生きるってのはその場その場の嬉しい悲しいが集まってできたものなんじゃねえのか。だったら、その場限りだからって無意味とは限らない」

「強い人なら、それでもいいかもしれない。でも、僕は、弱いんだ。どうしようもなく、惨いほどに……」

 狼淵は、口を開きかけ、やるせなく閉じた。返す言葉は、見つからなかった。

「――案ずることなかれ。恐るることなかれ。悲しむことなかれ。しかして、忘るることなかれ。宇宙蛇アンギス・カエレスティスはすべてを見ている。聖三約を遵守せし罪燐・ルシリウスの〈魂魄〉は、すでにして救済を約束されり――」

 餓天法師の祝詞が続く。

 たとえ背教者であったとしても、第七炎生礼讃経典儀テスタメントゥム・デュエリウムに則った最期を遂げれば、その罪は赦され、祝福されるらしい。

 その根拠は、何だ。殺し合いをどうしてそこまで神聖視する。

 溶鉄の中へと下ろされてゆく棺をじっと見つめながら、狼淵はこの世界を形成する秩序の歪みを思った。

「なぜ今のような世界が形成されたのか――私もこの疑問に答えを求め、〈帝国〉全土を行脚する身でありますが、やはりなかなかに難しい。どこかに諸悪の根源たる者たちがいて、彼らを打倒すればすべてがうまくいく――などという能天気な状況でないことだけは確かです」

 横で刈舞が単眼鏡モノクルの硝子を拭いている。その目は少し、疲れて見えた。

「異律者はどうなんだよ。誰がどう見てもあいつらはいないほうがいいだろ」

「それは同意します。しかし、では異律者を絶滅させることが現実的に可能なのか。もし仮に滅ぼせたとして、それで人類社会は万民が幸福を得られる理想郷となるのか。そう考えるととても楽観視はできません。狼淵どの……人は艱難は共にできても、繁栄は共にできないものです。異律者が、人類間の争いを最小限に抑える外圧として機能していることは紛れもない事実なのです」

「じゃどうすりゃいいんだよ! 今の状況は誰のせいでもない仕方のないことだから受け入れて一生耐え続けろっていうのかよ!」

「もちろん、そんなことはありません。あってはならない。より良き道を探し求め続けなくてはならない。だが……しかし……より良き道がいったいどちらにあるのか。それさえ見えない。誰にも、見えない……」

「……ぁ……」

 維沙が小さく声を上げた。

 そちらに目をやると、隻眼に明らかな怯えの色がある。

「……? どうしたよ?」

 維沙の視線の先には――十数名の、異様な集団がいた。

 全員が鮮烈な朱色の長衣トーガで身を包み、右の頬からこめかみにかけて鱗の連なりを模した刺青を掘り込んでいる。

「《緋鱗幇》か」

 アギュギテムの世俗方面での秩序を形成する、八つの《幇会》が一。

 頬を歪めながら、こちらに向かってくる。

「……っ」

 維沙が踵を返し、一目散に駈け出した。

「あ、おい!?」

 《緋鱗幇》の面々も、走り出す。狼淵と刈舞を無視して、一直線に維沙を追う。

「なんなんだよ……」

 所詮、子供の足だ。遠からず追いつかれるだろう。


 ●


 維沙・ライビシュナッハは、男でも女でもない。

 その体には雌雄いずれの徴もない。胸は膨らむ兆しも見せず、いかなる性器も存在しない。

 この異様な肉体ゆえに、彼でもなく彼女でもない維沙の生は、暗澹たるものとなった。

 ――僕は醜い。

 ――僕は汚い。

 ――僕は臭い。

 ――僕のことを知れば知るほど、みんな僕のことが嫌いになる。

 胸ぐらを掴まれ、石壁に押し付けられた時、維沙の脳裏にはそんな言葉が駆け巡っていた。

 踏みにじられ、奪われることこそが、自分の役割なのだ。

 そのたびに、心を殺す言葉を反芻するのだ。

 自分は醜く、汚く、臭い。だから何をされようが仕方がないのだ。

「ナメた真似してくれたじゃねえか、えぇ? バケモノのガキがよ」

 《緋鱗幇》の男が、歯茎を剥き出しにして笑う。

「……ぅ、ぅ……」

「わかってんだろ? どこにも逃げ場なんざねえってことはよォ」

 腹に拳がめり込んだ。

「かっ……」

「な? いい加減観念しろや。てめえは生まれた瞬間ブチ殺されてなきゃなんねえはずだったんだよ。それを何の幸運か十年も生かしてもらったんだ。充分だろ実際。な? おじさんらと一緒に行こうや。な?」

 ――民間信仰。

 いまだ現世の穢れに侵されきっていない子供を、乾燥させて粉末状にすり潰した代物は、万病に効く霊薬の原料となる。食い詰めた錬金術師の広めた根も葉もない虚言だが、口減らしの必要に迫られた農奴らの間では一定の信奉者があり、需要があった。

「おめえの〈魄〉が欲しいっつってる御方がいるんだよ。名誉なことじゃねえか。な? どうせ獄都ここにも外にも居場所なんかねえんだよ。命の有効活用、しとこうや」

「おい、委書記閣下に献上する前に、ちょっと検分しとこうぜ」

 別の一人がにやつきながら言う。

「検分ってお前、こいつの体のこと知ってんだろ? どんだけ見境ねえんだよ」

「馬ァ鹿、だからだよ。女も男も抱き飽きてんだ。ちょっと楽しませてもらうから見てろよ」

 維沙の襤褸に手がかかった。

 ――心を、殺せ。

 目を閉じる。何も見たくないから。何も知りたくないから。

 闇の中で、鈍い音が、した。

 続いて、うめき声。

 維沙は不審に思い、薄目を開ける。

「おい、てめーら。なにしてんだ? 俺の連れになんか用か?」

 聞き覚えのある声。少年と青年の狭間に生きる者の、活力に溢れた声。

 見ると、維沙の衣服に手をかけていた《緋鱗幇》の一人が、顎を掴み上げられ、壁に押し付けられていた。

「あぁ? ガキが、いきなり何……」

「喋んな。息が臭えんだよ」

 その少年――狼淵は片手一本で掴み上げていた男を、仲間の方へ投げつけた。

「うぉっ」

 受け止めて、一瞬だけ狼狽えた隙に、狼淵は風のように踏み込んでいた。

 鞭のようにしなりを利かせて放たれた裏拳が、二人の顎先を打ち抜く。脳髄を揺さぶられ、二人とも一撃で昏倒する。

「てめっ」

 横の一人が即座に手袋を外し、引き抜きざまにチョキを突き出しにかかる。

 迅い。外界ならば、どこかの道場主か百人隊長ケントゥリオに収まっていたとしても不思議ではない反応速度だ。《幇会》の杯を頂いた武侠の、これが実力だった。

「遅ぇ」

 突き上げた膝が、肘関節を破壊した。

 絶叫が上がる。あらぬ方向に曲がった己の腕を抱えて、男はのた打ち回った。

「やあ、大したものですな。さすがは神聖八鱗拷問具アルマ・メディオクリタスに見初められた勇士と言ったところですか」

 いつの間にか、隣に刈舞が立っていた。足元には三人の《緋鱗幇》が泡を吹いて倒れている。

「維沙どの、お怪我はありませんか? なにやら粗略な扱いを受けていたようですが」

「だ、大丈夫、だけど……」

 維沙の胸中に、困惑が広がった。

「あの、あなたたちは、何を、しているんだ?」

「何、とは?」

 狼淵の裂帛と、連続する打撃音を背景に、刈舞は首を傾げていた。

「どうして、ここに? なんのために、あの人たちを倒しているんだ?」

「何のためと申されましても……維沙どのが窮地にあるように見えたもので……あの、いらぬ介入でしたか?」

「いや、そんなことはない。おかげで助かった。だけど、どうして僕を助けるのかがわからない」

 刈舞は目を瞬かせると、困ったように頭をかいた。

「その、維沙どの。あなたはきっとこれまで過酷な生を強いられてきたのでしょう。だから、狼淵どののような御仁が実在することが信じられぬのかも知れませんが……」

 ぽん、と頭に手が置かれる。

「世の中にはね、特に理由がなくとも今日会ったばかりの他人を命がけで助けようとする人間が確実に存在しているのですよ」

 見ると、狼淵は最後の一人を戦斧のごとき回し蹴りで吹き飛ばしていた。

 刈舞は苦笑する。

「まぁ、今回は命がけというほどのことでもなかったようですが」

 実際、狼淵は手袋すら外していない。そして一人の命も奪っていない。

 首を鳴らしながらこちらに歩いてくる。

「よう、無事だな」

「う、うん……」

「ったく一人でいきなり逃げるんじゃねえよ、追っかけるのが面倒くさいじゃねーか」

「だって」

「次に阿呆が絡んで来たら俺に言え。以上。この話は終わりだ」

「でも」

「つーか隣でのほほんとしてるそこのオッサン! ほとんど俺が倒してんじゃねーかよ! もうちょっとやる気出せ!」

「あいや私は維沙どのの安全を確保するという重要な役割をですね……」

 何やら言い合いながら歩みだす二人の背中を、維沙は呆然と眺めた。

 理解できない。

 今までに会ったこともない人種だ。

 維沙は駈け出して、二人に追いついた。

 じっと、彼らを見つめていた。

 いつまでも、見つめていた。

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