一回戦第四典礼『黙示ノ墓標/禍津天球儀』

 一回戦 第四典礼

  夜翅ヨハネ・アウスフォレス

  罪状:不明

   対

  餓天使《罪業の惨禍》

  罪状:なし。無原罪生命。


 死者が墓から這い出てきたのか。

 そう思わせる風体の男だった。薄汚れた包帯で全身をくまなく覆い尽くし、赤茶けた頭髪だけが乱雑に伸びている。

 包帯の狭間から、粘度を帯びた暗黒の眼光が覗いていた。

 重い足音を立てて、至聖祭壇の荘厳なる石畳を進んでゆく。

 黒い墓標を思わせる長身を、煤けた屍衣のような外套で覆っていた。

「夜翅・アウスフォレス。身分や経歴や罪状などは一切不明。公的な記録は何も残っておらず、戸籍も存在しません。彼が何者で、なぜアギュギテムにいるのか。そして何を思って八鱗覇濤に参加したのか。何一つわかってはいません」

「あんたでもわからないことはあるんだな」

「まったく、司法剣死官の名折れですよ。この私にここまで尻尾をつかませないとは、それだけで尋常ではありませんねえ」

 刈舞は目元を悲しげに伏せながら、口元では笑みを浮かべていた。狼淵はこの男と出会ってそれほど経っているわけでもないが、どうにも奇妙な愛嬌のある奴だ。そこがまた胡散臭いのだが、胡散臭さを会話での武器にしている節すらある。

「……少なくとも、偽名なのは確か、だね」

 維沙が鬱々とつぶやく。相変わらず、喉元を押さえつけられているような口調だ。アギュギテムでは数少ないまっとうな人間なのだが、とにかく暗い。こいつの周りだけ黒い紗幕が垂れ下がっているかのようだ。まだほんの子供だというのに、無邪気な溌剌さなど欠片も感じられない。

「まぁ、な」

 夜翅・アウスフォレスと言えば、〈帝国〉成立前の時代に活躍した鍛聖の名である。並々ならぬ剣腕と鍛冶の腕を両立させ、数々の秋水を鍛え上げたと言われている。知らぬ者とてない偉人だ。

「いやあ、案外本人かもしれませんよ。包帯巻いてますし」

「巻いたからなんなんだよ……」

 狼淵がため息をついていると、

「……ん?」

 ふいに、若い女の声が流れてきた。

 細々と流れる清水のごとく、一定の旋律を繰り返し唄っている。

 刈舞が皮肉げな笑みを浮かべた。

「美しい唱和ですねえ。まさに天上アイテールの歌声といったところでしょうか」

 確かに綺麗な歌声だ。静謐な安らぎが、胸の中に満ちてゆく。

「これ、は……?」

 旋律は、徐々に大きくなってゆく。近づいてきているのだ。

「すぐにわかります。すぐに現れます。人類史上最悪の冗談にして、八鱗覇濤という式典の欺瞞を体現する者が」


 ●


 の頭脳中枢には、人類が一般的に想像するところのいわゆる「意識」のようなものは存在しなかった。

 強大な膂力を秘めたその巨体には、〈魄〉しか宿っておらず、認識と意志決定の中核たる〈魂〉はなかった。

 ただ、〈受肉の秘蹟〉によって人為的に刻まれた戒律に従い、聖務を果たしているに過ぎない。

 ゆえに、の脳裏では、宇宙蛇が持つ八つの位格のうちの一つたる「救世主」への讃美歌が穏やかに流れ、脇腹と背中から突き出ている副脳たちがそれを唱和しているばかりである。自分がかつて人間だったころの記憶など跡形もなく消え去っており、今はもはやその姿と行動によって〈魂魄〉の不滅と宇宙蛇の現世降臨を説く、としての在り方を、粛々と全うするだけの存在となっていた。


 ●


 その存在が至聖祭壇への出入り口より姿を現したとき、狼淵の意識は真っ二つに張り裂けようとしていた。

 厳かな崇拝と、生理的嫌悪。

 相反するはずのふたつの情感が、自らの〈魂魄〉を引っ張り合っているような気がした。

「なん……だよ、あれ……」

 かろうじて、それだけを喉から絞り出す。

 全身に汗が浮かび上がり、恐怖とも感動ともつかぬ震えが全身を駆け巡った。

 美しい娘の顔をしていた。卵型の白い顔に、ふっくらとした頬と、薄い唇、小さな鼻。その上に、穏やかな琥珀色の眼があり、大いなる慈愛が湛えられている。蜂蜜色の髪が豊かにうねり、可憐な簪で留められていた。

 公王ディクタトルの後宮でもなかなかお目にかかれないであろう、絶世の美姫である。

 ……常人の五倍近い大きさであることを除けば。

 そして首に相当する部分はなく、異形の筋肉が波打つ両肩の間に、巨大すぎる顔が半ば埋まっていた。

「〈魂〉の濃縮による救世主の降臨こそが、餓天宗の教理の根幹であり、全人類の救済と言われています。餓天使とは、その遠大な計画の途上で〈魂〉の適切な管理・保管を行うために創造された、生ける祭壇です」

「創造された……って、あんな化け物どうやって作り出したんだよ!」

 そう――化け物だ。

 背丈は人間の三倍以上。音を立てそうなほど張り詰めた筋肉が全身を鎧っている。

 上半身のおおまかな輪郭は、人間に近い。厳めしい両肩からは太い縄をより合わせたような巨腕が伸び、先端には並の人間の身長ほどもある節くれだった五指が備わっていた。

 腋からはもう一対、白く艶めかしい腕が生えている。すぐ上の剛腕と比べれば繊細でか弱い印象すらあるが、それでも人類の範疇を逸脱した大きさだ。

 胸部から腹部にかけて、たわわに実った乳房が八対十六個ほど揺れている。まるで自らの卵を抱える蛙だった。

 背筋はくたびれた老人のように丸められ、陰鬱にうなだれた猫背を形作っている。

 巨大な上半身を支える下半身は、蜘蛛じみて八本の足が四方に伸び、膝で曲がって地面を捉えていた。ひとつひとつの造形は女の艶めかしい脚そのものだが、ここまで大量に生えていると意識が遠くなるような酩酊を感じる。

「さて……餓天法師のお歴々は、我々のような世俗の者には窺い知れぬ技術を持っているようですねえ」

 だが、それらと比べてもなお狂気じみた特徴が、餓天使の肉体にはあった。

  ――ら……ら……きらきら、と……

   ――きらきら……きらきら……

 愛らしく澄んだ声で、巨顔が口ずさむ。

 さらに別の声が唱和し、幾重にも共鳴しはじめた。

 餓天使の右脇腹から娘たちが、高音域を担当している。

 餓天使の左脇腹から娘たちが、低音域を担当している。

 そして、張り詰めた筋肉によって隆起した背中から娘たちが、全体の拍子をとる旋律をひしり上げていた。

  ――いとたかく……とおく……ら……ら……

   ――らぁら……きよらに……きよらに……

 肉声のみにて奏でられる、荘厳なる讃美歌。

 十六人の、等身大の娘たちは、輝くような裸身を震わせ、恍惚と歌い上げていた。

 彼女らの下半身は、青い血管が浮き出る肉塊の中に埋まっている。樹木に宿る茸か何かのように、異形の巨体から上半身だけが生えているのだ。

 餓天使の右側から生える娘たちは、右手首から右脇腹にかけて白い羽根が無数に植え込まれている。

 餓天使の左側から生える娘たちは、左手首から左脇腹にかけて白い羽根が無数に植え込まれている。

 痛々しい縫い目から鮮血を滴らせながら、しかし意に介した風もなく、一斉に翼を広げて餓天使の威容に神々しい輪郭を与えていた。

  ――かがやき……みはるかす……

   ――らぁら……ら、ら……

 美しさ、という概念は、醜さをも内包しうる。そんな当たり前の事実を、狼淵は初めて実感し、理解した。

 全身が総毛立つ思いだった。

 狼淵は、確かにこの狂気の産物を、美しいと感じたのだ。

 自らの正気を、疑った。

「あれはこの世界の構造を戯画化したものです。宇宙蛇の不完全な複製たる世界の、さらに不完全な複製というわけですね」

 刈舞ののほほんとした解説が、頭の中を通過してゆく。

 こつこつと澄んだ足音とともに、餓天法師が至聖祭壇に姿を現した。

 対峙する両者の間に立つ。

「これより八鱗覇濤が一回戦、第四典礼を執り行う。双方、五歩の間合いを取り、心機臨戦せよ」

 すると、餓天使はこっくりとうなずいて、右の巨腕を掲げた。ただそれだけの動きで、空が陰った。

  ――あいを、もって……たてまつる……

   ――〈停滞〉の八鱗よ……

    ――紅紫の憂愁を抱き……

     ――凝固せよ……

 多数の頭が、口々に唱和。同時に右の巨腕から天竺牡丹を思わせる風雅な色彩があふれ出てきた。

 暮れなずむ夕闇の色。終わりゆく世界の流す血。それが餓天使の右腕より迸り、収縮し、凝固する。

 紅紫の結晶質で形作られた、凶悪な鉤爪が姿を現す。黄金律をその湾曲に宿した巨大な曲刃が、五指に沿うように一本ずつ伸びていた。半透明の装甲が手の甲から肘までを覆い尽くし、巨腕の輪郭を一層分厚いものにする。

「号して「太極爪」。銘を「コグニティオ」と言います。餓天使《罪業の惨禍》がその身に宿す二つの拷問具のうちのひとつです」

「二つ!?」

「ええ。二つ。明らかな優遇を感じますねぇ」

 そして刈舞は、八鱗覇濤の欺瞞を語った。

 ――囚人に恩赦の機会を与えるというのは建前である。餓天宗は最初からあの存在に参加者を皆殺しにさせ、その至高の武威を秘めた〈魂〉をすべて管理下に置くことが目的なのだ。

「事実、これまで百五十回ほど行われてきた八鱗覇濤のうち、実に百三十七回は餓天使による虐殺で幕を閉じました。かの巨大な肉細工は、根本的に人間が対抗できる存在ではないのです」

「なんだよ、それ……!」

 一方、幽鬼めいた男――夜翅・アウスフォレスが、薄汚れた包帯の巻かれた手を差し伸ばした。相対する怪物に比べると、絶望的といっても良い体格差である。夜翅とて人間の基準では長身と言ってよいが、餓天使を前にすれば人形にしか見えない。

 重く掠れた声が、その口から流れ出てきた。

「〈統合〉の八鱗よ。宿命の闇をまとい、凝固せよ――」

 掌が黒く泡立ち、煮えたぎる暗黒が噴出した――かに思えた瞬間、ぎゅっと収縮し、一振りの黒き刀を形成する。

「おぉ――なんと!」

 刈舞の目が見開かれる。周囲の参列者たちも一斉にざわつきはじめる。

 それは、豪壮な拵えの野太刀であった。寸尺は並の大人の背丈にも匹敵する。反りは深すぎず、しかし斬撃の力を効果的に分散するに十分な限界点をぴたりと見極めている。八鱗を拷問具として鍛え上げた古代の人々の、並々ならぬ技巧が伺えた。刀身は、透明な刀型の容器に黒く粘度を帯びた液体が入っているかのように見える。内部の構造は見通せず、時折なにか長細い生物めいたものが〝水面〟近くに現れては潜っていった。

「黒鱗の拷問具! よもやこの眼で見ることになろうとは!」

「……珍しいのか?」

「神聖八鱗拷問具の中でも、黒のふた振りは長らく所在が謎に包まれていました。第七炎生礼賛経典義テスタメントゥム・デュエリウムにてそれらが存在することは明記されていましたが、これまで歴史の表舞台に現れたことはなく、当然八鱗覇濤にも黒の使い手が出場することはありませんでした。神代にて人類の前から姿を消していた黒き鱗が、数千年の時を経て今ここに現れた――何やら意味を感じますね。今回の八鱗覇濤は、どうにもきな臭い」

 刈舞は自らの顎をつかんで、思案を始める。

 一方、餓天使《罪業の惨禍》は、状況がわかっているのかいないのか、そもそもそういった判断を行う知能が存在しているのかも定かではないが、ともかく常人の何倍もの大きさを持つ顔面に愛らしい笑みを浮かべて、夜翅を見下ろしていた。

 餓天法師が手を振り上げる。

「夜翅・アウスフォレス。並びに《罪業の惨禍》。第七炎生礼賛経典義テスタメントゥム・デュエリウムが典範に従い、宇宙蛇アンギス・カエレスティスに己が霊格を問え」

 そして、振り下ろした。

「――はじめ」

 瞬間、《罪業の惨禍》は弾かれたように二対四本の腕を振りかざし、すべての腕でじゃんけんの手を突き出した。

 右の第一腕にはパー。第二腕にはグー。

 左の第一腕にはチョキ。第二腕にはグー。

 対する夜翅の手は――パーのみ。

 ――これは……どうなる!?

 その答えが明確になる前に、《罪業の惨禍》の左第一腕に装着された太極爪が、そのまま唸りを上げて叩き込まれた。

 轟音。至聖祭壇の石畳が粉砕され、もうもうと粉塵が上がる。

 じゃんけんの動作が、そのまま物理攻撃に繋がっている。狡猾な技だ。

 夜翅は――紙一重でかわしていた。一歩横に退くだけの最小限の動きで。

「えっ!?」

 維沙が声を上げる。

「どしたよ?」

「あれ……今、確かに……あれ?」

「なんなんだ?」

「い、いや、なんでも、ない……見間違い、だと思う」

 なんだかよくわからない。

「ふむ、興味深いですね。四本の腕を持つ存在によるじゃんけんというのは、考えたことのない命題――」

 刈舞の言葉を遮るように、固いものと柔らかいものがまとめて砕かれるような、不穏な音が鳴り響いた。

 見ると、《罪業の惨禍》の頭が、いびつに変形している。目と鼻と口と耳から血が流れ落ち――内圧に耐えかねたかのように破裂した。

 大量の脳漿が、血膿と共に撒き散らされる。

 刈舞は単眼鏡を動かして目を凝らす。

「ほう……」

 餓天使は一瞬迷うように体勢をゆらめかせ――ひどくゆっくりと、その場に崩れ落ちた。

 地響きが広がる。石畳が何枚か破損した。

 腕に装着された太極爪が、宿主の死とともに液状化し、夜翅の肉体に飛び込んでゆく。ついで、餓天使に宿っていたもうひとつの拷問具もまた藍緑の奔流となって後を追った。

「典礼、かく成就せり! 勝者、夜翅・アウスフォレス! ますらおに誉れあれかし!」

  ――誉れあれかし!

   ――誉れあれかし!

 秒殺、である。典礼開始から五秒も経っていない。

 夜翅は黒き刀を体の中に収めると、踵を返し、歩み去ってゆく。

 恐らくは初めて見るであろう人外の脅威に対し、眉ひとつ動かさず、ただの一手で即死せしめ、一言も発さぬまま去ってゆく。

 それは一体――なんだ。

 どういう精神構造ならば、そのような振る舞いが可能となるのか。狼淵は、あの全身を包帯で包んだ黒ずくめの男との間に、計り知れない断絶を見た。

 異質さ――などという生易しいものではなく、夜翅からは

 餓天使の巨大な屍が、わらわらと壇上に上がってきた数十人の人足の手で引きずられてゆく。

 右脇腹の娘たちは、餓天使の巨体に押し潰されていた。

 左脇腹と背中の少女らは、相変わらず慈愛に満ちた笑顔で比翼を広げ、賛美歌を奏でている。

 一体、あいつらはこれからどうなるのだろうと思案しかけ――暗い気分になったのでやめた。

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