あにと、いもうと

「典礼、かく成就せり! 勝者、刃蘭・アイオリア! ますらおに誉れあれかし!」

 ――誉れあれかし!

  ――誉れあれかし!


 もういい。やめろ。降参しろ。帰って来い。

 狼淵は声を枯らして、何度もそう叫んだ。

 だが、寂紅はこちらの声が聞こえていないようだった。

 刃蘭の手に蒼い輝きが宿ったかと思えた瞬間、奴はそれを軽く振り下ろした。

 と同時に、そこから三歩以上は離れた所にいたはずの、寂紅が、血煙に、覆われて、

 ……何が起こったのか、離れた位置で見ていた狼淵にはよくわからなかった。

 もたらされた結果だけは明白だ。

 取り返しのつかない、結果だった。

「……な~んかァ? 悲壮な決意ぃ? 固めちゃってたみたいですけどぉ?」

 うつむき、肩を震わせながら、刃蘭・アイオリアはひとりごちる。

 足元に、が、あった。

 左手は砕け、顎は割れ、右腕は上腕から切断され、とどめに正中線を真っ二つに断ち割られ、脳漿と臓物が野放図にはみ出していた。

 がばりと顔を上げる刃蘭。

「全ッッッッ部、無駄でしたアアアアアァァァァァァアアァァァァァッハッハッハッヘッヘッヘヘヘヘハアハアハアハアハハハハヒヒヒヘェェェェェェエエエエエェェェェェェェヘッヘッヘッヘッヘェッッ!!」

 天に舌を伸ばし、頭を振りたくって、哄笑を撒き散らす。

 涙と洟と涎が周囲に散った。

「アアアアアアアアアアアアアアアアア!! ひどい奴だ!! なんてひどい奴なんだオレっち!! 人でなしだ!! 人間のやることじゃない!!」

 狼淵は、全身が瘧のように震え始めるのを感じた。

 頭は、ひどく冷静だった。

 腹の底は、煮え繰り返っていたけれど。

 ゆっくりと、至聖祭壇に上がる。

「いったい正義を貫くっていうのはこんな犠牲を払うほどの価値があるんだろーか!? 弱い奴の涙を踏みにじってまで正義を貫いて、それで後に何が残るって言うんだよぉぉぉぉぉぉぉ!! オレっちは偽善者だ!! 偽善者だァ!! ア、ぎっぜんしゃだぁ~い!!!! うへへ」

 床に散乱する、彼女へと歩み寄る。

 血と臓物の臭気が、むっと押し寄せてくる。

 かつて愛らしかった顔は、縦に割られ、骨格はひしゃげ、皮膚は引き伸ばされ、引き千切れ、眼球は飛び出し、視神経が引きずり出され、歯は折れ砕け、赤い肉が断面より覗き、脳がずるりとこぼれ出ていた。

 ――これだ。

 二つに分かたれた上半身を、抱え上げる。ぐっしょりと湿った感触が広がる。

 ――

 今まで自分がいかに甘ったれていたかを思い知らされる。

 美しい死など、存在しない。そんな当たり前のことを、狼淵はまったくわかっていなかった。

 性根腐り果てた人間は醜く死に、心の美しい人間は美しく死ぬ。

 そんなわけが、ないのに。

 心のどこかで、甘えていたのだ。寂紅がたとえ負けるとしても、その最期は尊厳あるものであり、美しい記憶として自分の中に残るのだろうと。

「でもでもでもでもォ、オレっちを殺そうとするってことはぁ、オレっちがこれから救うであろうめっちゃ沢山の罪なき人たちを殺すってことになるわけでぇ、悲しいけどそんなことしようとする奴は悲しいけどブチ殺すしかないよねぇ! 悲しいけど! ア、かっなしぃ~けっどねぇ~!」

 眼に、焼き付ける。

 寂紅・ウルクスがどのような仕打ちを受け、どのような最期を迎えたかを。

 ――泣くな。

 狼淵は、自分にそう言い聞かせた。

 ――俺に、泣く資格はねえ。

 絶対に救えない命、というわけではなかったはずだ。

 もしも自分が至聖祭壇に乱入し、決闘典礼を台無しにしていれば、あるいは寂紅は死なずに済んだかもしれない。

 寂紅本人からは恨まれるかもしれないが、それでも、やるべきではなかったか。

「嗚呼、さようなら寂紅・ウルクス……キミを殺した罪を背負って、オレっちまたひとつ大きくなったよ。この胸に生きるキミの〈魂〉に対して誓おう……オレっちは残る一生を、正義のために生きるって!! ……うっひょぉ、カッケー!! オレっち超カッケー!! 惚れるなよ!?」

 ――いや……

 狼淵は胸中に毒をにじませながら、自嘲する。

 ――俺は、やらなかっただろう。

 決闘典礼への乱入妨害は、第七炎生礼賛経典儀テスタメントゥム・デュエリウムの聖三約第一条に抵触する。

 餓天法師たちは、草の根分けてでも狼淵を探し出し、すべての権利・名誉を剥奪してから誅殺するだろう。

 赦しはなく、時効もなく、慈悲もない。

 狼淵は人類全体の心の支柱たる宗教権威をすべて敵に回すことになる。

 どこにも逃げ場はない。絶対に、生き残れない。

 ――認めろよ。

「俺は、こいつを、我が身可愛さに、見殺しにした……」

 歯を食いしばって、惰弱な液体を垂れ流そうとする目頭を押さえつけた。

 失ってはならないひとを、自分の目的のために見捨てた。

 そういうことを、したのだ。

 狼淵は、自らを、嫌悪した。

 そして、恐怖した。


 ●


「あっれぇ? ちょっと待って、なになになになになぁに?」

 刃蘭・アイオリアは普段はごく普通の異性愛者である。

 だが、興が乗れば男だろうが死体だろうが平気で犯す。

 その目が、真っ二つになった死体の、衣服の切れ目から覗く、膨らみかけた胸を捉えた。

「え、うっそ、ええええ、ちょっとちょっとちょっとちょっと、マジで? え、女の子? え、うそ、ガチ女の子ですか?」

 死体を抱えて身を震わせている少年の横にしゃがみ込み、覗き込む。

「もー、ちょっとぉ、もー、先に言ってよねそういうことはー! 困るなぁ、マジ。犯せねえじゃんこれ、どーすんだよオイオイ」

 さすがに、正中線から両断された死体を犯すのは物理的に難しい。

 そこで、はたと自らの顎を掴んで考える。

「いや……でも、ここらで不可能に挑戦しとくって選択肢もアリなんじゃないの? イケんじゃね? 死体押さえてヤれば一発ぐらいなんとかなんじゃね? ってわけでそこの英雄に協力的な感じのする善意に溢れた少年! そう! キミ! 半泣きのキミ! ちょっと今からオレっちこの死体犯すからさ、頭の方バラけないように押さえててくんない? 腰のあたりは自分で押さえとくから」

「てめえ……いい加減にしろよ……!」

 なぜか肩を震わせ、赤い目で睨みつけてくる。

「うん?」

 刃蘭は首を傾げた。なぜこの少年が怒ってるのか、よく理解できなかった。

「……あっ、わかった! キミ、このオボコ狙ってた系ですな? いっやー、ゴメンゴメン。オレっち先越しちゃうねー……っと」

 二人の間で甲高い音が鳴った。

 突き出されてきたチョキを、手の甲で打ち払ったのだ。

「は? え? なに? オレっち謝ってんじゃん? なんでそういうことすんの?」

「ふざけるなよ……ふざけるなよ、てめえ……」

「ふざけてねーよ。なんなのこいつ。マジ意味わかんねえ」

 刃蘭にとり、敗者を強姦することは、危機管理の上で重要な意味を持つ。

 真の勝利とは、相手の命を奪うことではない。相手の心を折ることだ。そうでなくては、相手に再起の可能性が残ってしまう。たとえ本人が死んでいようとも、そいつの志を受け継ぐ誰かが奮起し、こちらに復讐しようなどとバカ丸出しなことを考えたりしてしまうのだ。

 そいつらをいちいちブチ殺すのは面倒くさいし、刃蘭は決して自らの実力を過大評価してはいない。天下に恐れるものなしと自負してはいるが、いかなる時でも常に無敵でいられるかと言えばそんなことはない。

 憎しみの連鎖は、断ち切らなければならないのだ。

 ではどうするか。いかにして相手の心を砕き折り、抵抗の意志を萎えさせるか。

 刃蘭が選んだ方法は、敗者の尊厳を徹底的に貶めることであった。

 殺害と救済の収支がマイナスとなる悪党を見つければ、まず拷問し、次に強姦し、そして惨殺し、とどめに屍姦する。

 男も女も老人も子供も例外なく、やる。

 その風聞は〈帝国〉を駆け抜け、人々を恐怖で縛り上げるのだ。

 余計な恨みを買うだけではないかという危惧もあったが、実践してみたら予想以上の効果があった。復讐を囀りながら向かってくる阿呆の数が、明らかに激減したのである。もちろん、中には刃蘭が殺した悪党に対する情が深すぎるあまり、恐怖を憎悪でねじ伏せて挑んでくる奴も少数ながらいたが――そういう連中はどうせただ殺すだけだったとしても関係なく挑んでくるに決まっているのであり、拷問強姦惨殺屍姦の行動指針を変える理由にはならない。

 ゆえに、刃蘭は断固たる決意を持って、寂紅・ウルクスの惨殺死体を犯すつもりだった。

「……おい少年? 今のチョキはちょっとしたおイタってことで見逃してやるよ。そこ、どけや。ちょう拷問してちょう強姦してちょうブッ殺してもっかいちょう強姦しますよ?」

「やってみろクソ野郎。切り落として豚の餌にしてやるよ……!」

「へぇ、そゆこと言っちゃうんだぁ」

 刃蘭は、口の端を吊り上げて、心機を充実させた。

 瞬間。

 その喉元に、優美な曲線を描く刃が突きつけられる。

 戦慄を覚えるほどなめらかな造形美を湛えた、それは大鎌であった。すでに死文字となって久しい象形言語がびっしりと刻み込まれ、極端に戯画化された神話的怪物たちが互いを相喰らい合う様子が、偏執的なまでの細やかさで造形されている。

 その材質は、翠色の結晶体。

 刃蘭の背後から柄が伸びてきて、直角に伸びる刃が喉仏に触れている。

 明らかに、尋常な武具ではない。

「――そのあたりにしておきなさい、刃蘭・アイオリア。いかに決闘典礼の勝者とはいえ、目に余ります」

 低く澄んだ声。

 刃蘭には、聞き覚えのある声だった。

刈舞カルヴ・ウィンザルフ・ザーゲイド……」

 目を細め、低く呟く。

 こめかみの血管が、身もだえしながら浮き出てくるのを感ずる。

 八鱗覇濤の参加者の一人にして、

「二度と会うのは遠慮させていただきたいと思っておりましたが、よもやこれほど早くに再会してしまうとは。我が身の不運を嘆かずにはいられません」

 喉に突きつけられた刃がわずかに動く。肩をすくめたようだ。

 刃蘭は溜息をつき、口を開く。

「お偉いお偉い司法剣死官サマがこんな掃き溜めで何をなさっておいでなのですかァ? そしてこの喉元に突きつけてるわけわからん透明の刃物っぽいなんかはどういうおつもりなのですかァ? あぁ? コラ。答えろや」

「司法剣死官……!?」

 狼淵とかいう少年が、目を剥いている。

「その肩書きは過去のもの。今はただの囚人でございます。公人ではなく、一個人として、人の情に従い行動したまでです。それ以上敗者の尊厳を貶めるつもりならば、あなたの喉元に第二の口が開きますよ」

「おもしろいこと言うねえ、おい? アンタのクソくだらねえ繰り言の中では一番ウケたわー、マジ爆笑爆笑ー」

 目を細めながら、口の端を吊り上げる。

 ――やれる。

 実質二対一だが、問題ない。刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは確かに帝国法務院プラエトリウムが誇る最精鋭であり、実際刃蘭も一度は後れを取って逮捕されてしまった。今のところ唯一の黒星である。

 しかし、あの時とは状況が違う。刃蘭にここまで接近を許した時点で、刈舞は詰んでいる。単純な戦闘能力ならば段違いで自分が上だ。そして狼淵も同様。小便臭い餓鬼のわりにはまあまあ鍛えているが、所詮こちらの敵ではない。

 この場の全員をブチ殺して、その死体をブチ犯して、悠々と去る。

 自分にはそれができる。あまりにもたやすく、できる。

 が――

 刃蘭は溜息をつき、肩をすくめた。

「……わかったよ。あんたはいい人だ。しかもこれからたくさんの人を救うんだろーね。そゆ奴を殺すのは、主義に反する。オレっち正義だから。正義だからいい人はなるべく殺さないから。この場は司法剣死官サマの顔を立てるよ。じゃーね、動くよ? このヘンテコ刃物は動かさないでよ?」

「歩み寄っていただき恐悦です。どうぞ、お下がりください。妙な真似をなさらない限り、私は動きません」

「はいはいよー」

 その場で左旋回。そして一歩二歩と歩みを進め、半透明の刃から逃れると、そのまま刈舞の方を向く。

 刃蘭よりも一回り年嵩だろうか。少壮の紳士がそこにいた。

 灰色の髪を後ろにきっちりと撫でつけ、植物の蔓を思わせる意匠の単眼鏡モノクルをかけている。

 無機質、そして鋭角的な顔容。しかし灰茶色の瞳は不思議に柔らかい光を湛えている。

 身に纏うのは、黒い下地に欝金の縁取りが施された帝国法務院プラエトリウムの制式執行服。餓天法師の如法衣に近い印象だが、こちらはより不吉で近代的だ。

 〈帝国〉を構成する領邦単位の権力構造の中でも、例外的な治外法権を持つ、汎人類的官僚機関――帝国法務院プラエトリウム

 その執行者たる司法剣死官の出で立ちは、かつて餓天宗に根絶された土着信仰における〈死神〉を想起させる。

「なんだよそのカッコ、思いっきり公務中じゃん。ただの囚人が聞いてあきれるねぇ」

「建前は、大事でございます。今の私は不敬罪によって権力の座から滑り落ちた迂闊な男であり、その行動に帝国法務院プラエトリウムは一切関与していないと、そうご理解ください」

「おー、コワイコワイ」

 手袋をつけながら、刃蘭は歩み始めた。

 一回戦は突破したので、明後日まで特にすることもない。

 一杯引っ掛けて、おんな買って寝るかねえ――などと考えていると。

「おい」

 後ろから、刃物のような声が飛んでくる。狼淵の声だ。

「んあ?」

 肩越しに振り返る。チョキが突きつけられているかも、などとは思わない。この瞬間に狼淵がチョキを突き出した場合、刈舞まで巻き込むことは確実だ。ゆえに、いきなりのチョキはない。そういう位置関係になるよう、微妙に歩みを調節していた。危機管理は常に行う。

 案の定、狼淵は陰鬱に据わった目でこちらを睨んでいるだけだった。

「明後日は、俺とテメーが当たる」

「そだねー」

「俺は人殺しの罪で投獄された。そして人の命を助けたことは、今までない」

「へーそーなんだー」

 口の端が吊りあがる。

「じゃ遠慮いらねえな」

 くけけ、と哂い、刃蘭は今度こそ至聖祭壇から去っていった。


 ●


「人殺しは、クソだ。理由なんて関係ない。殺した時点で、そいつは生きる価値がなくなる。死んだほうがいいんだ。俺も、あいつも……」

 狼淵は、俯く。

「それでも、善行を積んではならない理由にはなりません。さしあたっては、この少女の死に尊厳を回復させねばならない。いつまでも衆目に晒したままではあまりに哀れです」

 布が風に翻る音。

 顔を上げると、刈舞・ウンンザルフ・ザーゲイドが黒金の上着を寂紅の遺体にかけ、くるんでいる所であった。

 自身の地位と名誉の象徴たる制式執行服を、あっさりと骸布として使い始めたのだ。

「狼淵・ザラガ。あなたはこの少女と縁故があったようですね。ではあなたの手で運んであげなさい。いいですね?」

「あ、あぁ……」

 腕を差し込み、抱え上げる。

 あんなに細っこい奴だったのに、遺体は驚くほど重かった。

「ん……?」

 。確かにその感触があった。

 一瞬目を見開いたが、すぐに事情を理解する。

 ――これは。

 心当たりならあった。一回戦第一典礼にて、淆鵺・ホーデドリウスを殺した後にも、同様の現象は起きていた。

 見ると、骸布が少しはだけ、中から白い半透明のモノが触手のように伸びてきている。

 やがて、狼淵の腕に触れた。

 ちくりとした痛みとともに、そこから体内に何かが入ってくる感触があった。

 ――神聖八鱗拷問具アルマ・メディオクリタスは、宿主が死ぬと外に這い出てきて、新たな使い手を捜し求める。

 ほとんどの場合、宿主を殺した者を新たな主人とするらしい。

 忘却剣オブリヴィオはウルクス家の者にしか柄を預けようとしないが、寂紅の死によってその血統は断絶してしまった。

 この白き八鱗が今後どうするのかは不明だが、ひとまずの宿主として狼淵を選んだようだ。

「ふむ、本来ならば刃蘭・アイオリアが忘却剣の新たな使い手となるはずでしたが……故人の意志、というものでしょうかね」

 刈舞は横で頷いている。その手が伸びてきて、はだけた骸布を直した。

「……意味なんて、ねえだろ。俺は、こいつから何かを託されるに値する人間じゃない。単なる、偶然だ」

 神器が手に入り、有利になった。その事実に、狼淵は吐き気を覚えた。

 寂紅の死に付け込んで不当に武器を得てしまった――そういう意識から抜け出すことができなかった。

 どうしても、できなかった。


 ●


 人類史上、そこかしこで興ったあらゆる信仰の主たる目的は、死に対する不安や恐れを和らげることにある。

 餓天宗もまた例外ではなく、死後の救済を説く。

 一種、過剰なまでに。

「白き八鱗、忘却剣オブリヴィオに聖別されたる勇士、寂紅・ウルクス。その〈魂魄〉は結合より解き放たれ、〈魂〉は対手たる刃蘭・アイオリアへ、〈魄〉はこれなる肉体に残るなり――」

 餓天法師の祝詞が、朗々と響き渡る。

 狼淵・ザラガと刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイドは、寂紅の遺体を抱えて、彼女の死出の旅を見送るべく、〈転生の社〉を訪れていた。

 アギュギテムの北部。至聖祭壇を囲む神殿の裏にそびえ立つ、形容しがたい異臭と熱気の根源へと。

 そこはもうもうと煙を吐き出す、あまりにも巨大な魔妖のごとき建造物であった。土と、木と、布と、鉄と、大小さまざまな歯車、蒸気、せわしく動き回る節足のような梃子、まるで世界全てをひっくり返さんばかりの轟音を立てて上下する踏鞴、そしてそれを懸命に踏み動かす女や子供たち。

 皆、脂汗を浮かべ、苦悶をかみ殺しながら、掛け声とともに、一斉に。

「これより、肉体のくびきに取り残されたる寂紅・ウルクスの〈魄〉を、玉鋼の灼熱に還し、天界アイテールの煌めきを湛えたる武具として再生せしむなり――」

 恐らく、これほどの威容を誇る製鉄炉は、〈帝国〉全土を探しても見つかるまい。

 全容を見上げるだけで、視界に入るあまりの情報量の多さに、大抵の者は眩暈を起こしてしまう。

 至聖祭壇に次ぐ神聖さを持つ、宇宙蛇アンギス・カエレスティスの御業の現れであった。

 からくりの一部となって働かされている弱者の苦鳴が、耳にこびりついた。彼らの中に老人はいない。そんな歳を迎える遥か手前で死ぬからだ。

 彼らは、この苦行を強いられているわけではない。やめたいと思えば、いつなりとここを離れ、街の好きな場所に向かえばよい。誰一人それを止める者はいない。アギュギテムから脱獄しようなどと愚かなことを考えない限り、その行動も、生業も、住処も、完全に自由だ。

 だが、彼らはここ以外に行く所がない。武芸の才がなく、体格も腕力も乏しい彼らは、餓天宗が下す重労働をこなす他に生きていく方法がないのだ。

 八つの《幇会》の庇護を受けられれば、比較的豊かな暮らしが送れるが、自分に利用価値があることを示しつづけねばならない。

 春をひさぐ道もあるが、そういう連中が長生きしたと言う話は聞いたことがない。

「実に――無力感を覚える光景です。この世界は、どこもかしこも苦悶に溢れている」

 餓天法師の祝詞が粛々と流れる中、刈舞はそう呟いた。目を細め、感情の読み取れない佇まいだ。

 乾いた眼つき。司法剣死官は法の番人であって、正義の味方ではない。どうしようもないことは、どうもしない。そう割り切っているのだろう。

 わけもなく、反感を覚える。

「へ、こんな世の中を作ったのは、アンタら貴族だろ。私財をなげうってこいつらを救うつもりもないくせに、口先だけで哀れんで見せたって無意味だぜ」

 言ってから、狼淵はかすかに後悔する。刈舞は寂紅の尊厳を守ってくれた恩人だ。ここまで言うつもりはなかったのだが、口をついて出てしまった。

 それほどまでに、狼淵の中では貴族階級に対する不信と失望と反感は根強い。

 刈舞は――肩をすくめて、微笑んだ。

「苦しい境遇にある者に対して、哀れみの感情を覚えることが偽善だというのなら、私は誇りをもって偽善を貫きます」

 とっさには、言い返せなかった。

「二人とも、〈転生の秘蹟〉の最中だ。子供ではないのだから静かにしてくれないか」

 不意に、聞き覚えのない声がした。

 幼く、甲高い声だ。しかし、その口調はあまりに鬱積し、まるで喉元を掴まれて壁に押し付けられているような声だった。

 刈舞ではない。餓天法師は今も意に介さず祝詞を続けている。

「これは……失礼しました」

 刈舞は居住まいを正し、寂紅の入った棺に目を戻す。

 狼淵は、いつの間にか自分の隣に並んでいたその人物を見やった。

 子供だ。十歳ほどだろうか。背丈はこちらのみぞおちあたりまでしかない。

 襤褸切れを長衣トーガのように纏い、全身が煤けている。痛々しい裸足。むっと押し寄せる浮浪者の匂い。しかし手袋だけは不相応に質の良い皮手袋をはめていた。恐らく盗品だろう。鼠色の頭髪はざんばらに伸び、ほとんど目元を覆わんばかりだ。

 そして、その隻眼。

 あまりにも惨いものを見すぎて、世界を正視するのが億劫になってしまった者特有の、睨みつけるような半眼。鬱屈と、憎しみと、悲哀が渾然と煮えたぎる、気の滅入るような目つきだった。

 異相の、少年。

 その目が、こちらを咎めるように睨み付けてきた。片方だけだ。左眼は襤褸切れで作られた粗末な眼帯で隠されている。

「あ、おう……」

 狼淵は視線を寂紅の遺体のほうに戻した。

「案ずることなかれ。恐るることなかれ。悲しむことなかれ。しかして、忘るることなかれ。宇宙蛇アンギス・カエレスティスはすべてを見ている。聖三約を遵守せし寂紅・ウルクスの〈魂魄〉は、すでにして救済を約束されり――」

 〈転生の秘蹟〉は、佳境に入っていた。

 二人の餓天法師が進み出て、寂紅の棺を担ぎ上げた。床に設えられた鉄扉が軋みを上げて開き、もうもうと煙が吹き上がる。

 精錬中の鉄が吐き出す噴煙だ。

 鉄鉱石を鋼鉄へと精錬する過程で、武芸に秀でたる戦士の亡骸を投じると、出来上がる鋼材の質に劇的な変化をもたらすという。靭性に優れ、折れず曲がらず決して錆び付かず、霊験灼かな武具に生まれ変わる。

 ゆえに、溶鋼葬に附されることは、本来ならば貴族にのみ許された栄誉ある葬られ方である。

 ――寂紅。

 何か、言葉をかけてやりたかった。

 ――おまえの〈魄〉は、これで救われるかもしれねえ。

 人間の霊を構成するのは〈魂魄〉である。人間が死ぬと〈魂〉と〈魄〉に分離する。

 〈魄〉は遺体に残り、〈転生の秘蹟〉を経て武具に宿る。

 だけど、〈魂〉は。

 ――あいつの中に、囚われちまった……

 刃蘭・アイオリアの中に。

 決闘典礼による、〈魂〉の委譲と融合。

 これこそが、餓天宗の教理の根幹である。第七炎生礼賛経典儀テスタメントゥム・デュエリウムに記された聖三約を遵守しながら決闘に決着をつけると、敗者の〈魂〉は勝者の〈魂魄〉に吸収され、より格の高い強靭な霊となる。

 これを何世代にもわたって繰り返し続けると、一個人に宿る〈魂〉の総量は増大し、やがて宇宙蛇アンギス・カエレスティスの依代となるに相応しい霊格を宿した救世主が誕生する――

 らしい。

 その時こそ、世界は真に救済されるのだそうだ。

 ――だけどな……

 狼淵は拳を握り締める。

 ――寂紅は……寂紅の〈魂〉は……

 刃蘭――あの化け物に取り込まれることが、寂紅にとっての救済とは、どうしても思えなかった。

「取り戻してやる……」

 金網に乗せられ、ゆっくりと降下してゆく棺を眺めながら、ひとりごちる。

「俺が、絶対、取り戻してやる……」

 左右の二人が、驚いてこちらを一瞥するのがわかった。

 確かに、異端すれすれの考え方である。餓天法師に聞かれたら、ただでは済むまい。

 だが、それでも。

 刃蘭・アイオリアに勝つ。そして寂紅の〈魂〉を解放する。

 心胆の置き所を、定めた。


 棺は、ゆっくりと、溶鉄の中へと沈み込んでいった。


 ●


 左右に雑居長屋インスラが聳え立つ狭い路を、三人は歩いていた。

「寂紅・ウルクスには、生前一度だけ世話になった。治療費は出世払いでいいと言われたが……払う機会はなくなってしまったな」

 眼帯をした少年は、ぽつぽつと語った。

「正直言って、しがみつく意味があるとも思えない人生ではあるけれど……それでも、たった一度だけ他人に優しくしてもらったこの思い出を、穢すような生き方はしたくない」

 うつむきながら、搾り出すように言う。

「彼女に助けてもらったこの命、せめて善いことに、使いたい」

「そうか……」

 狼淵は、相槌を打つことしかできなかった。

 あるいは、こいつは寂紅に想いを寄せていたのかもしれない。

 ならば、自分とは競争者にでもなっていたのかもしれない。

「そうなってたら、どんなに良かったろうな……」

 たまらないものがこみあげる。

 胸が震え始めるのを歯を食いしばって耐えると、この少年の名を聞こうと顔を上げた。

「僕は維沙イズナ・ライビシュナッハだ」

「……え?」

「あなたの名は知っているから名乗らなくてもいい」

 ……まぁ、会話の流れからして名を尋ねられそうだなという推測は成り立つだろうが……それにしても迷いのない口調だった。

「おやおや」

 後ろから、刈舞が会話に入ってくる。

「参加者の方でしたか。しかも、私と一回戦で当たる名とは」

 狼淵は、目を見開く。そういえばそうだ。組み合わせ表にはそう書いてあった。

 維沙・ライビシュナッハと、刈舞・ウィンザルフ・ザーゲイド。

 これは、まずいのではないか。聞けば、八鱗覇濤は餓天法師の見ていないところでの闇討ちや妨害工作が横行しているらしい。

 よりにもよって一回戦で当たる者同士が遭遇するなど――

「そう。で、どうするの。僕をここで殺す?」

「さて、悪くない案ではありますが、私この都市には人殺しをしに来たのではありませんので」

「じゃあ、なにをしに」

「それを言ってしまうと、聞いた相手を始末せねばならなくなるので、ご勘弁を」

「おいおい……」

 法務院の密命なのか。明らかに意図して胡散臭さを演出している。

「じゃあどうすんだよ。一回戦で維沙と当たったとき」

「そうですねえ、困りましたね。殺すのも殺されるのも大嫌いでございますゆえ……その場で棄権でもいたしましょうかねえ」

「……信用できない」

 維沙が刈舞を睨みつける。

「ご安心を」

 司法剣死官は、あえかな微笑を浮かべた。

「必ず信用させてご覧に入れますゆえ」


 その瞬間――

 一回戦第三典礼の開始を告げる鐘が、大気を震わせた。

「おや、急ぎましょうか」

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