僕たちの喪われた救い
弟が、生まれた日のことだ。
村に駐在していた餓天法師を中心に、近所の女たちが総出で狼淵の母の世話をした。
皆、日に焼けて痩せこけた顔に汗を浮かべ、生まれいずる新たな命のために忙しく立ち回っていた。
狼淵は、父とともにそわそわしながら遠巻きに見つめている。
――産まれてくるのは、どんな奴なのだろう。
弟だろうか。妹だろうか。
きっと生意気なんだろうな。でもまぁ、兄貴だし? 守ってやんねえとな。
とりとめも、益体もないことを考えながら、狼淵は一心不乱にひとだかりを見ていた。
父は、何も言わなかった。
ただ、産湯から出てきたばかりの弟を受け取ると、無表情のまま村はずれの山中に姿を消した。
戻ってきたとき、父は一人だった。
弟はどうしたのかと問う狼淵に、疲れた顔の男は誤魔化しも慰めも込めずに事実だけを告げた。
――早くでかくなって、食い扶持を稼げるようになれ。そうなれば、こんなことをせずとも良くなる。
その時は、意味が全く分からなかった。
理解した時、狼淵はしばらく両親と会話できなかった。
憎かったからではない。恐ろしかったからでもない。黒く冷たいものが、喉を塞いでしまったからだ。
何年かして、狼淵も農奴としての仕事を手伝うようになった。働き手が増えたことで、たくわえにもそれなりに余裕が生まれるようになっていった。
そんなある日、母が身ごもった。
両親は、しばらく冷静に話し合っていた。やがて微笑んで、涙を流しながら抱き合った。
そのさまを盗み見て、狼淵は安堵した。
自分の子供を捨てたことに、何も感じていないわけがなかったのだ。
前のときだって、一番辛かったのは父と母なのだ。ただ気丈に哀しみを押し殺していただけで。
だけど、もうそんな必要はない。一家が力を合わせれば、もうひとりぐらいなんとかなる。
気張るぜ。三倍働くぜ。
そして手が空いたら、ちっこいのを肩車して野山を駆け回るのだ。
やがて日は移ろい、母は子を産んだ。
妹だった。
右手の指が六本あった。
妹はその場で叩き殺された。
変異血脈根絶法。その、まるで意味のわからない言葉が、誰かの口から聞こえてきた。
それ以降、村は狼淵の一家を爪はじきにした。奇形を生んだ胤と胎――そう囁き合いながら。
毎日のように黙殺と嫌がらせが続いた。
両親は、首を吊った。
別れの言葉もなかった。
●
――この世はクソだ。豚のクソだ。
狼淵・ザラガの胸には、常にその言葉が吹き荒れている。
法は弱者を守らない。
ただ理由なき差別を助長し、密告を推奨するばかり。
人々は互いを信用できず、厳格な身分制度はあらゆる可能性を潰し去り、七人の
連れ去られた人々は、異律者たちの根拠地で男女かまわず強姦され、繁殖の苗床となって尊厳も何もかも踏みにじられたおぞましい最期を迎える。
幸福という言葉の意味を、誰一人として理解できなくなって久しい世界。
だが、それでも。
――俺たちは、泣くためだけに生まれてきたわけじゃ、なかったはずだ。
奥歯を噛み締めながら、狼淵は自分に言い聞かせる。
狼淵はまだ、十七歳。世の悲惨のすべての味わったわけではない。だがそれでも、「この世界は間違っている」という確信を得るに十分な目に遭ってきた。
自分の生きているうちに、すべてが良い方に変わるなどとは思っていないし、理想郷が欲しいわけでもない。だが、いくらなんでもこれはひどい。こんな現状をうつむいて耐え忍ぶのが正しいこととは、どうしても思えなかった。
だからこそ、〈帝国〉の高圧的な秩序に戦いを挑んだ。「等族」と呼ばれる最高位の貴族を討ち取りさえした。当然のように、ここ皇立監獄都市アギュギテムに落とされ――
――そして、「八鱗覇濤」に参加した。
極罪を犯した十六人の囚人よって競われる、勝ち抜き方式の獄中武術大会。
人として最低最悪の罪を重ねたクズの中のクズどもによる、潰し合いだ。
――まぁ、中には例外もいるけどな。
狼淵は肩をすくめながら、闘技場の回廊で佇む小柄な影を見やった。前帝国様式の円柱に半ば隠れるようにして、壁に背を預けている。
「よう、何やってんだ?」
歯を見せて笑いながら、狼淵は声を掛けた。
人影はビクッ、と飛び上がると、慌てて髪を手櫛で梳り、柱の影から出てきた。
「な、なんだキサマ。ふん、勝ちおったか。あ、悪運の強い奴め」
嬉しそうなしかめっ面で、目の前に立つ。
簡素な道服を着こなした、狼淵より少し年下の少年だ。
後ろで纏めた長い黒髪。華奢な肩。潤んだ眼。薄い唇。白く小さな手が、胸の前でぎゅっとにぎりしめられていた。
少年……である。少なくとも本人はそう主張している。
そのなりで男と言い張るのはちょっと無理がないかと常々思うのだが、口に出して言うと怒るのでとりあえず少年ということにしておく。
狼淵と同じく、八鱗覇濤の参加者だ。一体どんな罪で投獄されたのかは知らないが――こんな小さななりで、クズの掃き溜めである監獄都市アギュギテムを生き残っているのだから、その武錬の冴えは推して測るべしであろう。
ちょっとしたきっかけで知り合い、なぜか一方的に好敵手認定され、ことあるごとに付きまとってくる。
「その、け、怪我はないのか? おれと当たる前に負傷などされては迷惑だからな」
狼淵の周りをうろうろしながら、ぺたぺたと触ってくる。
「あぁ、別にねえよ。楽勝だ。心配すんな」
「心配などしておらん!」
――実際問題。
楽勝、というわけにはいかなかった。
対戦相手の淆鵺・ホーデドリウスは、罪状を聞いただけで吐き気を催すような最低のクソ野郎であったが、恐るべき殺人者には違いなかった。さっきの典礼は運良く無傷で勝ち上がれたものの、実際には紙一重の戦いであったと言える。
生死の流転を司る祭儀、ザン=クェンの恐ろしさ。
「あっ!」
寂紅は声を上げ、狼淵の腕を持ち上げた。
「傷があるではないか!」
「あれ、そうか? まぁ気付かなかったってことはたいした怪我でもねーだろ」
淆鵺の振るった、特殊な『祭具』によるものだろうか。
紙一重で避けたと思っていたが、少しばかりかすっていたようだ。
「まったくキサマという奴はもー……ただでさえこの
寂紅はそばに置いていた函から水筒を取り出すと、傷口を洗い、酒精の染みた布で消毒しはじめる。
「あてて」
「我慢せい。男であろうが」
「へいへい」
それから乾いた包帯を巻きつけて患部を覆った。
慣れた手際である。
「こんなものか」
「ありがとよ。お前、いい嫁さんになるな」
「そ、そうかな?」
「あぁ。なんで男のなりをしてるんだ?」
「いや、うむ、そのあたりについてはあまり聞かないでもらえると……って、違う! 『なんで』とか意味がわからないぞ! 男が男のなりをして何がおかしいんだ! まったくキサマはたまにわけのわからないことを言うな!」
顔を真っ赤にしてにぎりこぶしを振り上げる。
「あーわかったわかった。お前は男だよ。どこからどうみても立派なますらおだ」
「むぅ……まぁいい」
寂紅はむくれながら睨みつけてくるが、やがて咳払いをして居住まいを正した。
「……次は、おれだ」
そう言われて、狼淵はこの八鱗覇濤の組み合わせ表を思い出す。
一回戦 第一典礼
対
一回戦 第二典礼
対
一回戦 第三典礼
対
一回戦 第四典礼
対
餓天使《罪業の惨禍》
一回戦 第五典礼
対
一回戦 第六典礼
対
一回戦 第七典礼
対
一回戦 第八典礼
対
異律者「トコツヤミ」
「……そうか、次の典礼は、お前か」
「あぁ。だがまぁ、それはおれの問題だ。言いたいのはその後のことについてだ」
「後?」
「もしおれが勝ち上がると、二回戦ではキサマと当たることになる」
「そうなるな」
寂紅が何を言いたいのか、察しをつける。
だから、努めて明るく言った。
「まぁ、そのときは命のやり取りはなしにしようぜ。お前は他のクソどもとは違う。手袋つけてザン=クェンして、勝ったほうが三回戦に進むってことでいいだろ」
ザン=クェンは、掌の中に何かを握っていたり、手袋をつけていたりすると、ただそれだけで殺傷の霊威が働かなくなる。
ゆえに普段はすべての人間が手袋をつけている。
人前で素手になるのは「これからお前を殺す」という意志表示に他ならない。
即座に警吏が飛んで来て捕縛されても文句は言えないのだ。
万民が簡単に他人を殺められる力を持っているがゆえの、それは絶対の法であった。
「いや、そうじゃない。そうじゃなくてだな」
寂紅はぱたぱたと手を振る。もちろん、手袋をはめている。
「その勝負は、キサマに譲ろうと思う。おれは二回戦は棄権する」
「……どういうつもりだよ? お前、ここを出たくはないのか?」
八鱗覇濤の優勝者には、
硬直化した身分制度の、唯一の風穴。極端な崇武の気風ゆえの奇跡だ。
それは当然、監獄都市アギュギテムから出る権利を自動的に与えられるに等しい。
すべての囚人にとって、喉から手が出るほど――などという修辞では到底表しきれない、血のごとき渇望を向けられる恩賞である。
だが。
「おれにとって重要なのは、最初の対戦相手――
瞬間――
狼淵は軽く息を呑んだ。
眦を決し、口を引き結び、ここではないどこかを睨みつけている。
「おれの人生は、刃蘭・アイオリアを殺すためにあった。組み合わせ表を見たとき、確信したね。
「お前……」
狼淵は。
この少女の生い立ちを知らない。刃蘭・アイオリアとの間に何があったのかも知らない。
これまでは、うるさいが愉快な奴、としか思っていなかったが――
――憎しみ。
純粋で、透明で、静謐なまでの。
幸福という言葉の意味を、見失って久しい世界。望みを抱き、そのために奮闘するという生き方が、決して許されない世界。
人々は皆、心を殺して生きている。
異律者との戦いで膨れ上がる産業への需要を支えるため、終わりなき過酷な労役に耐える。
そのためには、人らしい感性など邪魔なだけなのだ。
ゆえに、〈帝国〉の一般的な臣民は、どこか生ける屍のような立ち振る舞いである。反応や動作が妙に鈍く、どれだけ理不尽に踏みにじられても黙って耐える習性が身についている。狼淵の両親のように。
だが。
彼女は、そうではないようだ。不条理に対して怒りを表明し、戦う。そういう瑞々しい感性を、まだ失っていない。
狼淵は、目を細めた。
眩しかった。
「だから、せいぜいおれの勝利を祈るがいい。お前は労せずして二回戦を勝ちあがれるだろう」
「お前……よく見ると綺麗だな」
「ぇっ?」
瞳が、まん丸く見開かれる。
「愛嬌もあるし、そこまで曇りのない復讐心を抱けるんなら、きっと情けも深いんだろうな」
「は、ぇ……?」
「いい女だよ、お前は。もうちっと胸と尻に肉がついてりゃほっとかないんだがなぁ」
からからと笑う。
見る見るうちに、寂紅の白い頬に朱が差してゆく。
「ばっばっばっばっばっばっばっ」
「落ち着け」
「ばっ、ばっ、ば、ばばば、ばかかっ! お前っ、その、お前っ! ば、ばかか! なんでそうなるんだっ! ぜんぜん意味がわからないぞ!!」
「しかもかわいいな」
「ふわああっ、ばかばかばかっ! そんなこと言うなっ! ばかっ、この、ばかっ!」
目をぎゅっとつむり、親指を握り込んだちいさなこぶしでぽかぽかと殴りかかってくる。
苦笑しながら殴られていると、ふいに攻撃が止む。
「そんなこと、急に言われても、おれ困る……」
見ると、寂紅はもじもじと俯きながら顔を背けていた。耳まで真っ赤になっている。
「ばか」
ぷい、と踵を返し、逃げるように走り去っていった。
その背中を、見送る。
わずかな哀しみを込めて。
――俺たちは、修羅の時を生きる。
次に会えるかどうかは、わからない。皇立監獄都市アギュギテムとはそういう場所で、八鱗覇濤とはそういう式典だ。
人の命が、あきれるほど軽い。
だから、他人に抱いた想いは、その場ですぐに言うことにしていた。
多くを失ってきた少年の、それは生き方であった。
――あぁ、きっと。
あの愉快な少女と言葉を交わせるのは、今ので最後なのだろう。
刃蘭・アイオリア。
その名は狼淵も知っていた。恐らく、〈帝国〉中で知らぬ者はおるまい。
小耳に挟んだ噂話のうち半分が誇張であったとしても――正真正銘の怪物と呼ぶに相応しい男である。
〈
外界にいた数年の間に、刃蘭が撒き散らした惨劇の数々は、もはやひとつの歴史と称しても良いほどの分量であった。
「寂紅……」
唇に、その名を乗せる。
せめて彼女の最期が、武人として誇りあるものとなるよう、
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