第6話〈つかの間の平和〉

朝。それは、陽が昇ってから正午までのある一定の時間帯を指す。


朝は、キリスト教では1日の出来事にまだ心を煩わされない、心の最も鋭敏な時間であり、神と交わる最上の時である、という定義になっている。


その最上の時間帯に、愚かしくも犯罪に手を染めようとする不遜な輩がいた。


漣 暁人さざなみ あきとその人である。



「ゲヘヘヘヘ…………」



2人をベッドに並べ、その美しい裸体を拝もうとせっせと勤しんでいる。


まず、状況を説明しておこう。と言っても、大した事は無い。


ただ、起きたら両隣に美少女が寝ていて襲いたくなった、という至極当然で誰にでも起こりうる衝動を具体的に行動に移しているだけである。



「くそっ、カメラが無いのが残念だが……この至高の一瞬はしっかりと心に焼き写してやるぜ……!」



朝から元気な男である。この、何というか浴衣風の寝間着から覗く絶対領域。見えそうで見えない奥ゆかしさを、白日の下へさらけ出す禁断的な快感。


そして、視線を上へ向けるとしっとりと湿った唇に、透き通るような肌。


それを今、まさに教授しようとしている。


そして、ここは異世界。


兄妹であんな事やこんな事をしてはいけませんっ!何ていうお邪魔な法も存在しない。いや、存在はするかも知れないが、知らないのだからしょうがない。


カナタ、そしてサチコはその純潔を脳筋の毒牙によって失おうとしていた。いや、そこまでするつもりは無いかも知れないが。



「……まずはカナ…………」



アキトの声が唐突に、不自然に途切れる。


アキトに、異常が発生した。


先に言っておくと、この時アキトに起こった事は今後、アキトの心に大きな影響、つまるところトラウマを生んだ。

さらに言えば、軽く女性恐怖症にもなりかける程の衝撃を与えた。


効果音で表すと、ボベッ……という感じだろう。


鳴ってはいけない音が、鳴ってはならない場所で鳴る。


そんな恐怖がこの世にあるだろうか。


何が起きたかを一言で端的に説明すると、アキトの男はここで終わった。



「お兄ちゃん、おはよう。」



ニッコリと天使の笑みを浮かべるその美少女は、アキトには悪魔に見えた事だろう。


膝。


仰向けのカナタを押し倒すような構図で覆い被さっていたアキトに、具体的にはアキトの息子に、カナタの膝が突き刺さる。



「がっ……」



アキトは一瞬で崩れ落ち、アソコを抑えて悶絶する。



「うぐぐぐぐ…………」



もうそれはそれは必死の形相で歯をくいしばるアキト。

今、アキトは今後の人生を大きく左右する瀬戸際にいた。



「ん……アキト……?おはよう……」


「サチ、コ…………」


「ん?どうしたの?」



上体を起こし、首を傾げるサチコを見てアキトは気合をいれる。ふんっ、と下腹部に力を入れ、何とか窮地を逃れる。



「あ、危なかった…………」


「サチコさん、気にしないで下さい。」


「ん?うん。」



朝からこんな下らない事をやっているが、別に異世界に来ている事を忘れているわけでは無い。異世界だからこそ、アキトはいつも通りの暮らしをしようと心がけているだけなのだ。本能の赴くまま、陵辱を開始しようなど、そのような事情が無ければアキトがする筈が無いのだ!



「サチコ……何というかさ。」


「うん?」


「その格好、エロいな。」



肌色成分多めの格好。その双丘は立派な谷間を形成し、アキトの目を惹きつけ、その絶対領域はアキトの探究心をくすぐる。



「アキト、恥ずかしいよ……」



胸を腕で隠し、恥ずかしそうに目を伏せる姿は、男の心をくすぐるだけだ。



「食べちゃいたい。」


「ホント?ホントに?」



アキトの言葉に急に反応して顔を近づけてくる。



「あ、あぁ。」


「じゃあ、召し上がれ……」


「ちょっとサチコさんっ!」



目を閉じ、艶かしい声で肩を露出し始めるサチコに、カナタが突っ込みをいれる。



「あ、ダメだった?」


「ダメ!ですよ!全く……」


「テヘペロ☆」


「可愛いから許す。」



何とも呑気な面々である。



「さぁて、カナタ。行くぞ。」



アキトは先程までの愚行を綺麗さっぱり忘れ、ベッドから降りて大きく伸びをし、カナタに言う。



「できるかな?」


「うーん、あるんじゃないかな。多分。」



アキトは思考を切り替え、今日やるべき事を考える。まずは、これだ。


毎日の習慣。朝稽古。


剣道部に入っているカナタだが、朝稽古の内容は剣道ではない。もっと、別のもの。流派、と言えばいいのだろうか。とにかく、カナタはその流派の修行も行っていて、毎日の朝稽古にアキトが付き合っているのである。



扉を開け、3人は廊下に出る。


と、窓から何やら声が聞こえてきた。



「せいやぁっ!でやぁっ!」



窓から覗くと、そこには裏庭で真剣を振るアレクスがいた。



「真剣、だな。」


「真剣、だね。」



アレクスが備え付けられていた木の棒を真っ二つにしたのを見、2人が神妙に呟く。


日本では、こうした真剣を触る機会というのは非常に少ない。そう言った意味で、こうした真剣が振られるのを見るのは新鮮とも言えたし、異世界に来たという実感が湧くのに十分とも言えた。


アレクスが剣を振り終わり、こちらを見上げる。



「やぁ!おはよう皆!」


「おはようございまーす!今からそっち行くんで!」



3人は階段を降り、裏庭に出る。



「おはようございます。アキト様、カナタ様、サチコ様。」


「おはようございます。あの、練習用の剣、ってありますか?」



木刀、そもそも刀があるのか分からないが、取り敢えず木刀、と聞いてみる。流石に竹刀は無いだろうという判断からだ。



「はい、ございますよ。刃先が丸まっていて人が斬れないものでいいでしょうか?」


「それでいいです。ありがとうございます。」



ヤエサルが屋敷の中へ入っていく。やはり、木刀や竹刀は無いようだ。まぁ初めからあるとは思っていなかったが。



「カナタさん、朝稽古、毎日やっているのかい?」


「はい、そうなんです。」


「2本、という事は……アキト君もやるのかい?」


「はい、まぁ俺はカナタに付き合ってるだけですけど。」


「ふむ……」



ここでヤエサルが戻ってくる。その手には、2本の練習剣。装飾などは無く、実際には刃先も丸まっていて人は斬れないのだが、それでも金属製というのは竹刀などよりよっぽど迫力がある。



「よっしゃカナタ。お前の実力を見せてやれ!」


「うぅ……お兄ちゃんの意地悪……」


「はっはっは!いつも通りな。」


「分かった。」



カナタが一本を両手で持ち、剣先をアキトに向けて構える。


アキトは右手だけで剣を持つ。


持った感じの感触を確かめ、カナタは頷き、アキトは首を傾げる。


身長の低いカナタが持つとそれなりの大きさに感じたが、アキトが持つとただのチャンバラごっこのような見た目だ。

だが、見た目以上に重いので当たればそれなりには痛い筈だ。



「……軽いな。」



カナタが両手で持って少し重いと感じるそれを、アキトは片手で持って軽いと感じる。


余談だが、ヤエサルは2人の体格に合うものを持ってきている。もちろん、アキトの方が大きくて重いが、それでも脳筋アキトには軽かったようだ。



「じゃあお兄ちゃん、いくよっ!」



カナタが声をかけると同時に踏み込んでくる。



「せいやぁっっ‼︎」



威勢の良い声とともに突きが放たれる。

アキトはそれに刀身を軽く当て、横に受け流す。


続いてカナタは剣を引き戻し、一回転して横一閃。それもアキトは身体を曲げて回避。



「はぁっ!」



気合と共に、目にも留まらぬ速さで剣が振られる。


縦横無尽に駆け巡る刃は、しかし正確に見切られ、弾かれていた。



「はっはっは。俺を誰だと思ってるんだ。何て言ったって、カナタのお兄ちゃんなんだぞ!」



馬鹿が言うには、お兄ちゃんは何年も妹の相手を続けていた為、妹の太刀筋は目を瞑っていても分かる、という事だった。因みに、普通のお兄ちゃんはそんな事は無い。


だが、馬鹿は馬鹿でもこの馬鹿は筋肉馬鹿。アキトとカナタでは、持久力も筋力も比較にすらならない。


それをカナタは、経験と動体視力、そして反射神経てもって奮戦する。


カナタの繰り返される連撃をことごとく打ち返し、ことごとく受け流すアキトを見て、アレクスが感心する。



「ほぅ……これは、なかなかだが……」


「アキト様はどうして反撃しないのでしょう?」



そう。稽古が、稽古というにはあまりにも実戦的だが……それが始まってから、アキトは一度も攻撃を返していない。あくまで、アキトはカナタの攻撃を受けているだけ。


カナタの一撃を受け流し、カナタの体勢を崩す。



「ふんっ!」



遂にアキトが動いた。体勢が崩れたカナタの脇腹にアキトの剣が吸い込まれていく。


カナタには、先程から隙があった。だが、毎朝欠かさずに行っているこの稽古でアキトは嫌という程学んでいた。

カナタは、こういう体勢が崩れた状態からの反撃を得意とする。


今までも、そういう手は何度も体験していた。そして、ここ最近ではアキトはその更に一歩踏み込んだ動作をできるようになっていた。


なっていたのだが…………アキトもまた、並大抵ではない反射神経を持っている。それは、いかに頭では分かっていても身体が勝手に動いてしまう。


いつもならそのような事は起こらない。だが、ここが異世界だからか。それとも、昨日の疲れが残っていたのか。



ガキンッ



剣と剣がぶつかり、金属同士がぶつかる音がし、カナタが弾き飛ばされる。



「うっ?」



と、思ったがカナタは弾き飛ばされずにアキトの懐に潜り込む。


カナタの体勢の崩れはやはりフェイク。カナタはアキトの剣を身体だけで避け、剣を撫でるようにして空振りさせる事でアキトの体勢を逆に崩す。


アキトは前のめりになり、腹がガラ空きになる。これは、実戦なら決まりだろう。カナタの剣がアキトの腹へ真っ直ぐに振られる。



「ぐっ……」



肘。アキトは咄嗟に肘を引き戻し、剣と腹の間にいれる。鈍い音が響くが、アキトは驚異的な体幹によってバランスを保ち、一旦カナタとの距離を取る。



「お兄ちゃん?」



当てられるとは思っていなかったようで、当てられたアキトよりも当てたカナタの方が驚いている。



「うぐっ……?」


「お兄ちゃん?どうしたの?」


「何か……胸が……」


「お兄ちゃん?お兄ちゃん!」



急に、アキトが胸を押さえてうずくまる。カナタが打ったのは肘で、胸ではない。これは、明らかに只事ではなかった。


視界がグルグル回り始める。この感覚……これは、昨日学校の校庭、左腕が噛み切られた後の感覚に似ている。何故だ。何故、剣を振っただけでこんな事が起こる。


まさか……



「恋?」


「どうしよう!お兄ちゃんが遂に頭おかしくなっちゃった!」



この馬鹿は一回マジでボコボコにしておいた方が今後の為のような気がするが、そうも言っていられない。本当に苦しそうだ。


アキトは堪らずに剣を落とす。



「どうしたんだい⁉︎大丈夫かい⁉︎」



すぐにアレクス達が駆け寄ってくるが……



「あ、れ……?」



胸の痛みは、何故だか治ってしまっていた。



「大丈夫、みたいです……。すみません。」


「いや、大丈夫ならいいんだ。こっちも良いものを見せてもらったよ。さぁ、朝ごはんにしようか?」


「はい。」



その胸の痛みは、どこか懐かしいような、切ないような余韻を残し、静かに消えていった。

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オーリンズの剣 鼈甲飴。 @bekko

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