3.「それは縦糸」


(そういえばわたくし、男の子でした…)


右を見ても左を見ても女しかいない楽園で10年も育てられたことと、前の記憶、性差の判りにくい幼さと相まってエノーは自分の性別をすっかり忘れていた。種族的に雄雌判別し難いというのもあるだろう。××は女子校という所に通っていたらしく集落にいない“男”がどんなものか識ろうとしても全く参考にならなかった。


「…リィラ様、ナナ様、ユーユ姉様。質問をよろしいでしょうか?」


集落を出されるということとその理由に衝撃を受けて暫く放心していたエノーはふと疑問を感じ、朝食の片付けをしていた面々に片手を上げて注目を集める。


「…攫いに来るのは王様ですのに、わたくしが学院へ預けられるのは何故ですか?」


南端魔術生態研究学院の本拠地はその名の通り南端にあるが、距離の問題ではないだろう。学生として在籍するのか人知れず潜り込むのかはさて置き、一つの所に落ち着いてしまうのは上策だとは思えない。男だということを利用してこの集落と無関係を装ったとしてエノーは特徴的な種族だ。調べればすぐに関係性がわかってしまう。


「ごめんなさい、まだそこまで教えていませんでしたね」


作業の手を止めた彼女ら三人は一度顔を見合わせ、歴史担当のリィラが微笑む。


「この国が議会制なのはこの前教えたと思います。王と言えど、持てる権力はそんなに大きくないことも」

「…はい、リィラ様」

「領主、属長、元老院、民意の投票によって決定される王は、稀にどうしようもない者が選ばれる時があります。種族によって魅了が強い者や時の運や様々な思惑が絡まりあって担ぎ出される者も居ますからね。過去の実際の具体例を上げて説明したいところですが…時間が無いので止めましょうね」


歴史狂いのリィラが本筋から逸れて語り始める前に、ナナイルの視線が彼女を止めた。生きる歴史書とまで言われる歴史好きのリィラは語り始めると区切りがつくまで止まらなくなる。


「権力がそう大きくないとは言えそれなりにはあるので、王の暴挙を議会が止められない場合も存在します。その時に王を止めるのが王立騎士団、通称“西の騎士”と南端魔術生態研究学院、通称“南の学院”です。順を追って騎士団の方から説明しましょう」


滔々と歌うように滑らかに語りながらリィラは、ナナイルがエノーの向かいに移動させてきた椅子に腰を掛けた。


「エノー、騎士のお仕事は何だと思いますか?」

「…?王の警護でしょうか?」

「いいえ、その逆です」

「…逆?」

「言葉で諌められない王を武力行使で止める、それが彼らの存在意義。俗に、民意の剣とも呼ばれています。通常は各地の自警団のような仕事をしていて、王の警護は軍の仕事の範疇ですね」

「…みんいの、つるぎ」


それはとても物騒な俗称だった。武力行使で王を諌めると聞いたエノーの頭の中に椅子に座る王様に集団で剣を向ける男たちの図がポンッと浮かぶ。


「騎士団に入団する時、属類、種族のどちらからも外れることを誓約します。王に刃向かう時は自らの属類の指示ではなく、種族の利益のためではなく、国の、民の、世界のためであると約束するのです。あぁそう、家名も捨てますね」

「…お家を捨てる」

「ちゃんと魔術で誓約しますから、破ったりすると酷い目に遭いますよ」


どう酷い目に遭うのかは具体的に告げなかったがリィラは可憐に微笑んで言い足す。想像していくにつれ、エノーの中での騎士団はどんどん荒っぽい物になっていった。


「さて、これで騎士団と王の関係は解ったかしら?」

「…はい、リィラ様」

「次は南端魔術生態研究学院ね」


そこでリィラは一度言葉を止める。言い難いことを伝えるために言葉を選んでいるような素振りで瞼を伏せた。


「南の学院は…」


そしてそのまま、溜息を吐いて語り始める。


「南の学院は基本的には名前の通り学ぶための場所です。ありとあらゆる知識がここに集まるといっても過言ではないわ。それだけに色んな欲に晒され狙われ続けているのだけれど、此処が国として建つ前から存在されている方々の棲み処でもあるから誰も手が出せない場所」

「…王様も?」

「ええ、王も議会も騎士団も」


解りやすく言うなら、リィラは呟くとそっと瞼を上げてエノーを見た。


「全てを受け入れる代わりに、自由を奪われる場所」

「…!」

「あなたをあそこへ預けるのは王の権力外にいるから。それと、信頼できる人がいるから。あなたはいずれ此処を出なければならない身。この機会に見聞を広めて来るといいわ」

「…信頼できる方?」


傷ついた女たちに囲まれて育ったせいか、生い立ちが関係してるのかエノーは他人に馴染まない。懐いた者たちには呆れるほど従順だというのに、彼女たちが間に入って存在に馴れさせなければ壁を作ってそのままだ。巣立ちまでにその癖を直そうと奮闘していたが、悠長なことは言っていられない。リィラはエノーの問いかけに頷きを返した。


「南端を駐屯地にしている王立騎士団の方があなたの身元引受人となります。入学手続きはその方が」

「…入学、なんですね」

「ええ、しっかり学んできなさい」


少し寂しそうにリィラはエノーに身を寄せてその頬を撫でる。捨てられる訳でも一人ぼっちにされる訳でもないと分かったエノーは安心してリィラの手に擦り寄った。未知の学院や騎士団への不安はあるが、いつか此処を出なければいけないのは覚悟していたことだった。それが少し早まっただけ。楽園の住人たちと二度と会えないわけではない。そう思ってぎゅっと目を瞑る。


「預けられるからと言って騎士団に属そうとは思わなくていい。保護者が一時的にわたしたちからあの男に代わるだけですから」


話の途中からエノーの背後に立ち彼の真っ直ぐな黒髪を編みこんでいたナナイルが、リィラの言葉が終わるのを待って告げる。三つ編みを団子状にして布で留めているようだ。腰まであるエノーの硬質な髪は彼女の器用な手によって高い位置で纏められ、剥き出しの鎖骨に淡い紫の薄布が垂れた。


「…お知り合いなのですか?」

「ナナの友人ですよ。わたくしも何回かお会いしたことがあります」

「…ナナ様の!」

「頭は固いが、実直で頼りがいのある奴です。きっとエノーの助けになってくれるでしょう」

「…わたくしは、騎士団でどのような扱いになるのですか?」

「わたしの友人の三番隊副隊長の縁者、という扱いになりますね。種族的に珍しいので保護も兼ねて学院に学びに来た、という設定です」


真面目な顔で設定を告げるナナイルは髪を留める飾り布を縛ると、序でとばかりに少しずれていたエノーの帯を綺麗に巻き直していく。確かに種族は珍しい。エノーの種族は同族に会えたら奇跡と言われる程に希少価値が高いと聞く。そして珍しい種族は狙われやすいから幼い頃は隠されて育つ者が多い。保護者となる者の知り合いに知られてなくても無理のない設定だ。けれどエノーには初めから不安な点がある。


「…わたくし…男の子のように振る舞えません」


複雑に編みこまれた髪を薄布で飾り、膝下まである襟口の大きく開いた上衣の胸の下あたりで帯を巻かれ、背中で蝶々結びに結ばれた姿。上衣の下に裾を足首で留めるタイプのズボンを穿いているが、その姿で男と言われても説得力に欠けている。エノーは胸の前で両手を握り小さく眉を寄せて、俯いた。


「…女の子の振りをして騙すのも心苦しいですし…」


可愛らしい幼子を着せ替えするのが楽しくて、リィラたちが追々教えていこうと思って先延ばしにしていたツケがこんなところで問題になっていた。


「そのままで良いのではないか?」


唐突に、リィラでもナナイルでもユーユでも、エノーの物でもないゆったりした声が響く。声の発生源を辿ると退廃的な色気を漂わせる背の高い女が、誰にも気づかれずに椅子の一つを占拠していた。青白い肌と白目が黒く反転した赤い目を持つデイモン属ヴァンパイア吸血種の女、エリである。


「今日は早いのね、エリ」


知らぬ間に部屋の中にいるのはヴァンパイアのお家芸みたいなもので、エリが唐突に部屋に佇んでいようと此処の住人はあまり気にしていない。むしろ朝の早い時間に起きていることの方に驚いていた。魔素の濃い魔界では、太陽の下であろうと魔力で保護できるので支障はないが基本的に彼女の種族は夜型である。


「うむ、何やら胸騒ぎがしての。久々に早起きしてもうたわ」

「エリ、そのままで良いとは?」


そのまま世間話が始まりそうなのでナナイルが先を促す。リィラは話が流れに乗ってしまうと止まらなくなるし、エリは聞き上手なのだ。この二人を一緒にしておくと下手すれば二日はそのまま話し込んでいる。いくら食事を取らずとも魔素を取りこんである程度は生きていける魔人であっても度が過ぎていた。


「そう急くな。女子おなごの様であろうと男子おのこの様であろうと、それがエノーの個性であろ。無理に変えずとも、己に合っていなければ何れ変わるのではないか、とな」


テーブルの上にあったお茶を何処からか取りだしたカップに勝手に注ぎながら飄々と呟く。その意見に言いたいことは有るけれど上手い言い方が見つからないと、うずうずしていたユーユが賛同した。座っていた椅子から身を乗り出して勢いよく口を開く。


「そうそう!エリ姐さんの言う通り!無理するのあたし反対!そう育てちゃったあたしたちが言うのも変だけどさ、違和感無いじゃない?それって、今の状態が一番合っているってことだと思うの!」

「男子らしいエノーも可愛らしゅうて良いが、心に背くのは良くないの」

「外の人に色々言われて恥ずかしいとか嫌だって、思っちゃったら仕方ないけど…」


言っているうちに色々言われるエノーの姿を想像したのか、先ほどまでの勢いが嘘のようにユーユは落ち込んでいく。彼女が俯くのに従って触角のように髪に紛れて生えている二本の羽根も心なしか萎れているように見えた。手の伸ばせる範囲にいたエリはユーユの想像力と素直さに苦笑しながら優しく頭を撫でる。撫でながら、ゆったりと言葉を紡いだ。


「さて、聞こう。ナナ殿の知己は他人の個性も認められぬほど器の狭い輩かえ?」


最後に挑発するように微笑んで、口を挟まず聞いていたナナイルの方をちらりと見やった。挑発されたナナイルは瞬き一つでそれをかわし、友人を思い出しているのか小ささく首を傾げて口を開く。


「器は広いか狭いかで言ったら狭いでしょうが…文句は言われても、認めないということは無いでしょうね」


文句を言うのも知らせなかったわたしに対してでしょうし、と付け加えてナナイルはエリの意見に頷いた。リィラの方を見れば意見に相違はないのかにこにこと笑顔を浮かべて首肯している。


「…さて、姐どもはこう言うが…ぬしはどうしたい?己の事だ、己で決めると良い」


切れ長の瞳をさらに細めて微笑みながら、自分のことながら蚊帳の外にいたエノーにエリは尋ねる。決めるのは簡単な事だと言うような軽い調子で。


「…わたくしは、」


今日に至るまで性差を意識せずに生きて来たエノーにとって、その問いは重かった。エノーの一部である××は女の子で、周囲も女ばかりで、エノーがお手本にするのは女ばかりであった。しかし、男であろうと思えばそのようにも振る舞えたはずなのだ。集落には男装している者も少なからず存在したことだし。


答えあぐねて紡ぐべき言葉を見失った唇は空しく空気を食む。

そんなエノーを手助けしようとユーユがもう一度口を開いた直後。


≪———————————————≫


突然、甲高い鳥の声がまるで耳元で鳴いたかのように不自然な距離で響き渡る。

ハルピュイアの鳴き声だ。


「ユーユ」

「領主街に“転移門”出現。先遣隊、おおよそ三時間で麓の町に到着!」


ハルピュイアの鳴き声を読み取れるのは同じジズ属の者だけ。リィラに促されユーユが読み取った内容をそのまま告げる。読み取る内に内容に慄いたのか、だんだんと声が上擦っていった。


「王軍数二百!内、国軍五十名、先遣隊はグリフォンです!」

「“転移門”を使うには議会の承認が要る筈。どうやら乱用したようですね」


ナナイルは苦々しく呟く。相当苛々しているのか食いしばった歯の隙間から炎がちろちろと顔を覗かせていた。すると、目を閉じて少し考え込んでいたリィラが静かに立ち上がる。ナナイルの目を見て頷き、ユーユの目を見て部屋の隅を指さした。


「ナナ、荷物をまとめてちょうだい。ユーユは準備を」


立ちあがって指示を出す彼女の鋭い声にナナイルとユーユは部屋の奥へと駆けて行く。次にリィラは未だ優雅に椅子に座ってお茶を飲むエリに声をかけた。


「エリ、お使いを頼まれてくれるかしら」

「構わんよ、皆に伝えれば良いのだろう?」

「ええ、一週間後の出発の予定を繰り上げて本日にします。一時間後にそれぞれの出発位置に集合してください。伝えたらあなたも準備を」

「承知した」


そう言って立ち上がるとエノーと似たような服装をしたエリの裾が翻り、翻った裾が解けて一匹の黒い蝙蝠になる。動く度に体が解け、増えた蝙蝠がエリの周りを漂った。デイモン属のヴァンパイアはベヒモス属と違い、肉体に縛られない。彼女らにとって体を幾匹もの蝙蝠に変化させて、目的の人物にそれぞれ伝言を伝えるなんてことは容易かった。


「エノー」


エリは沢山の蝙蝠を纏い、袖から蝙蝠を生やした両手でエノーの頬を包み込む。


「…はい、エリ様」

「問いの答えは再会の折に聞こう」


はらり、はらりと、風に吹かれて木の葉が舞い散るようにエリの体が少しずつ解けていく。


「…健やかにあれ、愛し仔よ」


エノーの眉間にそっと口づけを落とすと、エリは無数の蝙蝠となって部屋を出て行った。無数の蝙蝠が出て行った後は群れが移動した名残で風が巻き起こる。


「エノー、これを持って」


エリが出て行った風で翻る扉の布を見ていたエノーに、ナナイルは肩から下げる布製の鞄をかけた。茶色のそれは触ると硬く、回廊の入口にある目の刺繍がされた布と同じ布だということが分かった。次いで深緑の外套を着せるとナナイルは、小さな石の飾りがついた灰色の布を握らせる。


「鞄の中にはお金と簡易食糧、薬袋、切符が入っています。この切符を見せれば何処の駅からでも汽車に乗って南端へ行けますので失くさない様に」

「…はい、ナナ様」

「南端へ着いたら駅員に騎士団へ連絡を取ってもらいなさい。ジョゼという男にキマイラの紹介で来たと言えば迎えが来るでしょう。念のため、この書類も持って行きましょうか」


エノーが読めなかった書類を四つ折りに畳んでカバンの底に押し込めた。


「それと、この布は魔眼封じです」

「…魔眼封じ、ですか?」

「視線による魔術を使えなくする陣が織り込んであるんです。あなたはまだ使えませんがバジリスクやゴルゴンなどの視線で魔術を使う種族は、外を出歩く時はコレを着けるのがマナー。此処の者たち総出で作り、ターシャが装飾したんですよ」


持ち上げれば布の終わりの部分に付けられた石がしゃらしゃらと鳴る。ターシャらしい綺麗な奇麗な、封じ布だった。


「付けても前が見えないなんてことはありません。視界はそのままです。この指は何本に見えますか?」


結いあげた髪を崩さない様に髪に結わえた薄布に封じ布を絡めて結び、位置を確認するとナナイルはエノーの目の前で指を立てた。


「…三本に見えます」

「なら大丈夫ですね」


驚いたことに目の周りを確かに布で覆っているのに視界は変わらなかった。不思議に思ってきょろきょろと周りを見て見えるかどうか確認していると、急に視界が一色になる。どうやらエノーはナナイルに抱き締められているようだ。大柄で筋肉質だがナナイルは豊満な体つきをしている。弾力のある柔らかな胸に顔を押し付けられ旋毛のあたりにナナイルの吐息を感じた。


「…ナナ様」

「あなたは毛繕いのし甲斐がなくて寂しい」


常の、背筋が伸びるような凛とした声からは想像もできない甘い声音でナナイルは呟く。一瞬、エノーの息が止まるほど強く抱きしめてから体を離し、ナナイルはエノーの頬に自分の頬をこすりつけた。


「エノー、わたしたちの大事な仔。どこにいても、私たちはあなたを想っていることを忘れないで」


最後にエノーの封じ布の縁をなぞると、エノーから離れて部屋の奥へ入って行く。竜の尾が名残惜しげに何度もエノーを振り返っていた。


「よく似合っていますね」

「…リィラ様」


外套を着て封じ布を着けたエノーを上から下まで見回すと、リィラはナナイルと同じようにエノーを抱き締めた。ナナイルとは違い肉の薄い体がエノーを包む。リィラならエノーは背中に手を回すことができるので、手を伸ばしてしっかりとリィラの背中側の布を掴んだ。


「可愛い子、愛しいエノー。これから恐ろしい目にも嫌な目にも合うでしょう。でも恨むなら、こんな中途半端に放り出すわたくしたちを恨んでちょうだい」

「…大好きなリィラ様たちにそんなこと致しません!」


心外なことを言われて声を荒げるエノーにリィラは小さく笑う。

可愛い子、もう一度エノーをそう呼んだ。


「愛しているわ、あなたが何を選択しても」

「…リィラ様?」


抱き締められたままでリィラの顔は見えないが、妙に震える彼女の声音にエノーは訝しげに声をかける。しかしそれには答えず、ただエノーの体を離しリィラは立ち上がった。


「エノー、しばしのお別れです」


エノーの外套のフードを被らせると、肩を抱いて扉の方へ誘導する。


「ユーユがあなたを街まで連れて行きます」


そこには普段とは違う、狩りに行く時の様な体に沿った衣服に胸当てを着け、鉤爪の鋭い鳥の足に脚甲をつけたユーユがいた。



****



リィラは薄紅色のヴェールや裾を風に煽られながら眼下に迫る、王の軍勢を睥睨する。首を伸ばした竜のように空中にせり出した岩の先に立つ彼女は、紫の薄布に包まれた子供を抱き抱えていた。


「後悔しているか?リィラ嬢」


抱えられた子供が老獪な響きを持つ声音でリィラへ話しかける。姿は稚い少女であるのに、語る音は老婆のそれであった。灰色の髪に薄赤い肌を持つ彼女はスピリット属アルラウネの女、名前をシャンという。シャンは思うように動かない腕を上げて、採られてしまった宝石いしのように固まって感情を表さないリィラに触れる。


「…後悔はしていません。これがあの子たちにとって一番良い」

「そう言ったのはわしだがなぁ、あんたにゃあツライだろ」

「わたくしの思いなどより、あの子たちが生きることのが大事」

「…そうかい」


人間界の絞首台の下で命を得、未来と秘密を視る半人半草の種族アルラウネ。シャンも人間界で生まれ、すぐに儚く枯れてしまう種族にしては珍しく長い時を人間に大事にされて生き、気紛れなデイモン属に攫われて魔界へとやってきた。いくら魔界には魔素が充満しているとはいえ、この齢になると予言すると一月は体が動かなくなってしまう。それが今はもどかしい。


「わしは常に思うよ。予言などしなければ良かったなぁ、と」


アルラウネのシャン予言のできる草が言う。


——共に逃げれば必ず死ぬ、共に残れば必ず狂う。

——運び手をつけるなら鳥。けれど独りで逃がすが最善。

——それでも独りで逃げた後に見えるのは、

——常に命の危険に曝されて満身創痍で生きる道か、

——囲い飼われ安全な檻の中で緩やかに死んでいく道。


どちらを選ぶのかは本人次第だと、エノーの未来を謳う。


「予言をすれば道が定まる。不確定な道を往くより識っている分だけ良い選択ができるだろう。でも…わしはよく思うんだ。不確定な道の方が、その子を活かす選択があるのではないか」


冷たい空気に晒されて痛いくらいに冷えたリィラの目もとの鱗を撫でながら、慈しむ様に、憐れむ様に、シャンは微笑む。同じくらい長生きしているというのにいつまで経っても何もかも背負いこもうとするこの哀れな生き物が愛おしい。


「わしは予言すると言って幾つもある道を塞いでいるだけなんじゃないかと…なぁ」


それだけ言って、疲れ切ったようにシャンは眠りに就いた。リィラは重さを増した彼女を抱え直す。細腕でも竜なので、子供一人分の体重くらい長時間抱え上げていても苦ではなかった。


「…リィラ」


かつん、と脚甲を着けたブーツの音を響かせてナナイルがリィラに近づく。手に槍を持ち、腰には幾つもの短剣、そして全身、尻尾の竜まで簡素な鎧を着けていた。麗しい女の顔のままなのが違和感を覚える完全武装である。


「…首尾は」

「アデラ、ホリー、クレアがエノーの扮装をして三隊に分かれて出発し、攪乱しています。その隙に他の者は無事に町を抜けました」


名前の呼ばれた三名はそれぞれスピリット属ドライアド、ファタ属レッドキャップ、ドラゴン属ガーゴイルのことである。どの女も成体になっても体格が小さい者たちで、子供が着るような服を着て外套をすっぽり被れば傍目からは子供に見えるだろう。


リィラを狙って“此処”へ来ると思っていたエノー。リィラ達がそう思わせていたのだが、本来の王の目的は異端エノーである。王位継承争いのための駒。異端を目印に襲い来る悪しき風習。何処で存在を知り、なぜ今になって選定の儀式などすることにしたのかはわからなかったが、渡す気など毛頭なかった。大人しくエノーを渡すなら皆纏めて城で保護するとも言われていたが、誰が行くかとも思う。外の世界男のいる世界で生きられないからこんな所に住んでいるというのに。


「…懐かしいわね、ナナ」


着実に近づいてくる軍勢に固まっていた表情を緩めてリィラは苦笑する。もうすぐ互いの顔が解る距離まで来るだろう。こんな状況にリィラは覚えがあった。まだお互いが成体になりたての若かりし頃、ただ手を取って反撃もできず逃げ回っていたあの頃。どんな姿になっても命さえあれば良いと、手が離れてもいつか抱きしめられれば良いと、形振り構わずお互いの温もりだけを目印に走り続けたあの日を思い出す。


けれどあの頃に比べて今は、守る物が沢山在る。


ナナイルの腕の中なら死んでもいいと、その温もり以外の何も持たなかったか弱い竜ではない。並み居る軍勢を前にしても一歩も引く訳にはいかない理由がリィラにはあった。そしてその理由が在ることがとても嬉しい。静かに硬質な光を放っていた宝石ひとみが、意思を受けてぎらりと輝きだす。


「確約を取り付けるまでは死ねないわ」

「違うでしょう、リィラ」

「え?」

「エノーたちに会うまでは、でしょう?」


隣に立つナナイルが少し屈んで、リィラの顔を覗き込んで微笑む。


「迎えに行ってあげないと、ユーユに泣かれますよ」


生い立ちのせいで警戒心が強いが、懐に入れた者にはとことん尽くす情の深い少女の泣き顔が脳裏を過ぎる。エノーを駅まで届けた後は独りで逃げろと言ったが、ちゃんと逃げてくれているだろうか。今更心配になる。


「…あぁ、あの子たちに泣かれるのは…つらいわ…」


ナナイルが鍛えているから余程の実力者でない限り、立ち向かおうとしなければ逃げ切れるだろう。それが解っているのに一抹の不安が残るのは彼女の性質ゆえか。ナナイルが抱き寄せるままに二人は暫く無言で寄り添っていた。


「…リィラ、後ろに」


近づく軍靴の音に、リィラを背後にそっと押しやる。先を見据えるナナイルの顔がぐにゃりと揺らいだ。瞬きを二つばかりする間に高潔な騎士を思わせた女の相貌は牡獅子へと変貌し、牙の隙間からちろりと炎が覗く。


リィラは来たる闘争に気を高ぶらせるナナイルの背中に額を一瞬押しあてると、ヴェールを翻して集落の奥へと進む。岩の間に巧妙に隠された小部屋の中央でシャンを抱えたまま床へ座りこんだ。


やがて来る掠奪者にどんな口火を切ろうかと仄暗い思考に浸りながら、あの子たちに二度と会えないなんて信じない、そう、リィラは思う。シャンは予言を後悔しているようだが、リィラは感謝していた。リィラにとって先が見えないことほど恐ろしいことは無い。どんな結果であれ生きているなら、シャンの予言通りになったとして、どちらを選んでもどんな姿になっても愛している。絶対的な別れさえなければいつか会えると、そう言える。リィラは腕の中のシャンを強く抱きしめた。


ナナイルの眼前に、武装した兵士が迫る。


「————————————————!!!」


腰を落とし槍を構え、キマイラの女は低く、それでいて高く咆哮を上げた。

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墜落の、 五六 @itumu

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