2.「それは一滴」


其処は、高く険しい山脈の合間にある小さな楽園だった。


岩と石と砂しかないからからに乾いた道を、布に巻かれた子供が軽やかに進んでいく。太陽が昇る前の薄暗い靄の中、偶に吹く突風にヴェールを飛ばされないようしっかりと握りながら岩肌を駆け登ると頂上へ沿うように螺旋を描いた回廊が現れた。もう数え切れないぐらい通ってきた道だというのに、この回廊が現れるとどうしてもほっと息が漏れる。ヴェールの中に抱え込んだ荷物をそっと確認して子供は弾む足で回廊に入っていった。


切り立った崖の隙間を縫うように足場が置かれ、柱が建てられ、天井が造られた質素な回廊を進むと、草木の殆ど生えていなかった今までの道が嘘のように土と草の匂いが広がってくる。


この山は杯を逆さにしたような形をしているのだと、年嵩の者に聞いたのを思い出す。杯の持ち手の部分、一度括れてから花のように岩がせり出した中央は平らで、周りを囲む岩が影となり草木が育ちやすい状態になっているのだとか。子供にはいまいち理解ができなかったが、外とは違い柔らかな時間が流れる此処が存在しているのだからそれだけで良かった。仕組みを理解するより在るものを在ると認めることの方が子供には容易かったのだ。


螺旋回廊を登りきると、大きな目玉のような紋様が描かれた布が子供を睥睨する。ここには扉などはなく、すべてが分厚い布で仕切られている。いわゆる玄関に相当するこの目玉布は三枚ほど連なっていて、潜り抜けると色鮮やかな薄布の群れと出くわした。色によって行き先が異なるのだが茶色と黒の殺風景な風景の中に居た子供は、毎回ここで立ち止まってしまう。


「…あか」


しばらく目を閉じて仕上げとばかりにヴェールで瞼をこすった子供は、一定間隔で垂れたひと際濃い赤色の薄布を追っていく。他の薄布の先では女たちが静かに朝の支度をしていた。いつもより妙に騒がしいのを気にしながら、豪奢な刺繍のされた赤い布の前で立ち止まると砂埃に汚れたヴェールを脱ぐ。いつの間にか太陽が昇ったのか、薄布の向こうに人影が透けて見えていた。


「いらっしゃい、エノー」


薄布をくぐると縫いこまれた鈴がしゃらしゃらと鳴る。柔らかい声で子供、エノーに語りかけたのは宝石の眼と艶やかな鱗を持つドラゴン属ヴィーヴル妖精竜の女である。傍で給仕をするのは鬣の美しいベヒモス属キマイラ獅子頭の女で、少し離れたところで荷造りをしているのが色鮮やかな羽を持つジズ属ハルピュイア天鳥の女だ。


「…おはようございます、リィラ様」


ヴィーヴルの女、リィラに跪いて朝の挨拶をするエノーの顔に光が射し深緑の鱗がきらりと輝く。


「おはよう、さぁこっちへ来て」


まだ幼いエノーは椅子に座ったリィラでも見上げなければならない。そしてエノーは見る度に思う。リィラの宝石の眼、白目などないルビーの瞳は夜闇の中でも美しいが朝日を浴びて輝く時が一番綺麗だと。差し出された深紅の鱗が並ぶたおやかな手に、似て非なる鱗を持つ手が重ねられる。


朝日を背に、赤い竜の女は微笑んだ。


水を汲みに断崖を下り、木の実を採りに絶壁を登り、獣を狩りに岩場を跳ねまわる。

昼間は日差しが肌を焼き、夜間は風が肌を刺す。この楽園はか弱い人間が住めるような場所ではない。此処は人外の楽園。人間など一人もいない、俗に魔界と呼ばれる世界において女ばかりが住む楽園である。



****




「お知らせがあります」


ヴェールを脱ぎ抱えていた荷物を横に置いて朝食のご相伴に与っていたエノーにキマイラの女、ナナイルが語りかける。椅子に座ったエノーの前に膝をつくとナナイルは尻尾のドラゴンが咥えていた書類を取り目の前に広げて見せた。


四方を金箔で縁取りした豪華なその書類はまだ文字を習得中の子供に見せるには達筆すぎる筆跡で記されており、エノーが読めたのは宛名の所にあるリィラの名前と送り主の名前である南端魔術生態研究学院と書かれた文字だけ。生憎、南端魔術生態研究学院と書かれた横にある学院長の名前は判別できなかった。


「…ナナ様、学校の先生がやって来るのですか?」

「いいえ、エノー。あなたが学院へ行くのです」

「…わたくしが?」


読めない文字をなぞって首を傾げた子供にナナイルはきっぱりと告げる。いつの間に荷造りを終えたのか驚きに硬直するエノーを後ろからハルピュイアの女、ユーユが抱きしめた。ふわふわの羽根の感触がとても気持ち良く、いつもなら振り返って抱きしめ返すエノーは書類に手を触れさせたまま大きな目を瞬かせている。何を言われているのかうまく処理できなかった。言葉はだいぶ覚えたとはいえ、未だに話すのも聞き取るのも他より少し遅れるエノーだったから聞き間違いかもしれないと何度もナナイルの言葉を反芻する。


「…わたくし、何か粗相でも…?」


聞き間違いではなかったら、と反芻するたびに泣きそうな気持ちが込み上げてきてエノーの眼が潤み始めた。黄緑の大きな目から涙がこぼれおちる前に赤い手が指の背でエノーの頬から目尻を撫で上げる。お互いの鱗が擦れてしゃり、と涼やかな音が鳴った。気が付くと目の前に膝をついていたはずのナナイルが脇にずれ、俯くエノーの前にはリィラが屈んでいた。


「よく聞いてエノー。わたくしたちは此処を捨て西へ行きます。あの汚らわしい獣が追ってくるので、ほとぼりが冷めるまで西へ行き、南へ行き、北に逗留しようと思っています」


雌しか存在しないヴィーヴルの中でも特に美しいと評判のリィラは、眼球が宝石ということもあって強欲な男たちからしばしば狙われていた。そのため標高の高い険しい山に住み、同じように追われてきた女たちやリィラに惹かれてやってきた女たちと暮らしていたのだ。まれに男がやってきても、雌の方が強い種族のキマイラにおいて五指に入るというナナイルに追い返されていたようだ。


今までは。


リィラの言う獣とは魔王のことだ。そろそろ退位するとかしないとかで、少し前に沢山の手紙と使者が来て騒がしかったからエノーはよく覚えている。エノーが生まれるずうっと前から王として在る年老いた彼はヴァンパイアで、女だけの集落というのが好色な王の目に止まり年老りの最後の我儘とでもいうのか、全員まとめて城に来るよう要請されたのだが当然リィラは断った。


結果、近々実力行使で攫いに来るらしい。この集落を攫うのをよく思わない筋からの密告だった。


いくら強者のナナイルなどが居たところで城勤めの強者に数で来られたら守るものの多いこちらが不利となる。幸い、戦闘能力はないが足の速い者たちはたくさんいる。逃げるだけなら勝機はあった。しかし、懸念が一つ。


「逃げるため、男子禁制の場所に行くこともあるでしょう」

「そうしたらエノー、旅の途中であなたを置いていくことになっちゃうの」

「そんなことをするくらいなら最初から信頼のできるところに預けましょう、と言うことになりました」


リィラは頬を包み、ユーユは抱き締め、ナナイルは手を握ってエノーにゆっくり語りかける。楽園における唯ひとりの幼子、唯ひとりの男子に向かって。


エノーはこの楽園にただひとり存在する男であった。周りの女たちによる教育のせいか、環境のせいか、エノー自身すっかり忘れていたのだが。



****



エノーは孤児だった。

小さな町の薄暗い路地裏で、楽園の住人に拾われた幸運な捨て子だった。

エノーを拾った半人半獣、ベヒモス属スフィンクス哲学する獣の女はその時のことを思い出してよくこう言う。


「奇麗な石を見つけたと思ったら、飢えた子どもだった」


人間に換算すると2歳か3歳ほどの当時のエノーは汚れに汚れ肌と髪の区別もつかないほどに真っ黒で、唯一色のあった瞳は飢餓状態だったからかあまり動かず石のように見えたらしい。買い出しのため山から下りて町を歩いていたスフィンクスの女ターシャは石だと思った子供を買う予定だった物の代わりに抱えて山へと戻った。


彼女をよく知る者たちはそれは慈善だとかではなく買い出しが面倒だったから、しなくて済む理由になる子供を拾ったのだろうと口を揃えて言う。実際ターシャは怠惰な面のある女で、基本的にいつでも眠っていた。食事も忘れるほど睡眠が好きなターシャだが、睡眠のため以外に能動的になる理由があとひとつだけある。彼女は玉石問わず奇麗な石が好きで気に入ったのなら道端の石でも持ち帰るのだ。持ち帰った石は綺麗に磨いて加工したり、そのまま飾ったりと彼女の部屋はいつでも綺羅綺羅しい。道端の石を加工した装飾品が高く売れることもあるのだから、誰も彼女止められずターシャが外を歩く時は地面を見て歩くのが常だった。ターシャでなければ路地裏で蹲っていたエノーを見つけることはできなかっただろう。


エノーは幸運な捨て子だった。


楽園へ連れてこられ丸洗いされた時に性別は判明したものの栄養状態の悪さや言葉が話せないこと、種族の希少度から集落で保護されることになる。似たようなことは楽園では何度もあったからか、男だというだけで擲つような者は一人もいなかった。どこからか捨て子を拾って来たり、楽園へ来た女が子連れだったり、孕んでいたり、理由は様々だが女たちは子供の世話に慣れている。自分から望んで集落に来たとは言え山での生活は少々退屈。一通り遊びつくしてもう手が無いと頭を抱えていた時にやってきた無垢な子供。エノーは彼女たちの間延びする時間に降って湧いた刺激物だった。


言葉や世界のことを教える者が決まってしまうとあぶれた女たちは裁縫や料理、狩りや、歌、男のあしらい方など自分が得意なことをエノーに教えていく。子供を喪って、あるいは子供を産めずに集落に来た者もいる。そういった者たちはより熱心に自分たちの知るすべてを教え込んだ。もはや誰もエノーが男児だということ、いずれ去るということを気にも留めていなかった。丁度その時集落にエノーほどの年の者が居なかったこともあり表情も無く話もしない、骨と皮だけの幼子を女たちはこぞって構っていく。


楽園へ来て10年。誰が教えたのか一人称は「わたくし」で語調は柔らかく、物腰は丁寧。料理は未だ修業の身だが刺繍は一人前で、狩りの腕は集落でも上位に入る。整頓好き、綺麗好きで掃除は細やか。日の出前に起床し、リィラの趣味の薬草園へ世話をしに出かけ、朝食を食べてからは夕暮れまで女たちに教育されつつ間が空けば色々と手伝いを申し出る毎日。


いつの間にか、何処に出しても恥ずかしくない淑女が出来上がっていた。


狩りを教えるユーユが、


「エノー、誰のお嫁さんになるの?」


と、本気で聞いてしまうくらいには性別を忘れ去られていた。文字担当のナナイルは思わず嫁にはやらん!と口に出しそうになったが、そもそも嫁に行く方ではなく嫁を取る方だと寸前で思い出した。あの白くて丸い頬やまだ柔らかい鱗、大きく円らな瞳が硬く鋭く成長するだなんて信じられないが、エノーの性別は男だった。あまり表情には出ないけれど纏う雰囲気で感情が丸わかりの、ふんわりおっとりした可憐な癒し系だというのに、いずれ集落を離れる男だった。


幼いうちは良い。しかし大人になってもこの中で暮らすのは認められない。成人を機にここを去ることは決められているし、ずっとそうしてきた。例外を作ることは不和の元になり、リィラもエノーも誰しも泣くことになるだろうから。


「お嫁さんにはなりませんよ」


いっそ女だったら良かったのにと、可哀想なことを思いながらナナイルは首を傾げるユーユの頭を撫でた。視線の先にはリィラと刺繍に励むエノーの姿。小さな手で一生懸命細かい図案を描いているのが周囲の女たちの胸をときめかせる。


(あんなに可愛らしいのに外に出さないといけないなんて)


ナナイルはこの時、護身のために基本的な種族の急所を教えようと決めた。エノーは大体12、3歳。早くてもあと3年は置いておける。幼児期の栄養状態が影響しているのかエノーの成長は遅いから、5年か6年か。それぐらいあれば町で生きていくくらいは仕込めるだろうと。


しかしその決意はわずか一月で覆されてしまうことになる。


エノーがある程度育ったら集落を出されるのは、初めから決定していたことだった。

楽園に暮らす女たちの誰もが、もっと後のことだと思っていたのだけれども。




****




エノーの始まりの記憶は灰色の赤。

上野××の終わりの記憶は銀色の黒。


エノーはかつて、上野××だったことがある。

灰色の町で灰色の靄の中。

真っ赤な花を咲かせた顔の無い女の隣でエノーが瞬きをする前。

銀色の街で銀色の光の中。真っ黒な何かが視界を覆い、上野××は瞬きを止めた。


女子高生で、三姉妹の真ん中で、机に向かっているより体を動かす方が好きだった××の記憶を何故、幼い男児で、一人ぼっちで、“好き”とは何かも知らないエノーが持っているのかは解らない。ただ、エノーの纏うぼろ布に隣の女の血が浸み込んでくるように××の記憶がエノーの中に広がっていった。


記憶はエノーをとてもよく助け、同時に足を引っ張った。体が震えるのは寒いからでゴミを巻きつけ熱が逃げるのを防いだ。固形物はまだ食べられないが水を飲めばある程度は生きられる。隣の女が動かないのは頭が潰れているからで長いこと近くにいると病気になるかもしれない。その記憶が浮かんだ時にエノーは女の傍を離れた。何日かして様子を見に行くと、顔の無い女は鼠や虫に群がられていた。顔の無い女の血が乾いて剥がれていくように、エノーの中の記憶もだんだんと乾いて消えていってしまっていた。一人ぼっちになった時は大人に助けを求めるものだと消えゆく記憶は告げていたが、言葉を話す角のある人のような生き物を、獣のような足をした人のような生き物をいまだ浸み込んでいる記憶は恐れた。


「名前は?」


幾日か後。雨も降らず、飲み水にも苦労して力尽きて地面に横たわっていたエノーの頭を、四足の女が鷲掴んで尋ねた。恐ろしいと泣いた××の記憶は乾いて消えてしまっていて、エノーはただ、金色の髪が綺麗だなとしか思えなかった。


「お前さん、名前はあるかい?」


金色の女がまた口を開いた。


エノーになる前、××ではなかった幼子には名前が無かった。あったのかもしれないが幼子は知らなかった。××の浸み込んできた記憶で名前が無いのはおかしいことだと識った幼子は、××の名前を名乗ることにした。××の記憶のように誰かと、“お話”をしてみたいと思ったのだ。幼子は彼女ではないが、彼女である部分もある。××は確か、黒に塗りつぶされる前に誰かに呼ばれていた。


「…エノー」


もう一つの名前は乾いて消えてしまったから、××を最後に呼んだこの音にした。


首を鷲掴みされて山道を運ばれたあの日から、幼子はエノーとなる。


楽園へ迎え入れられて××の識る世界には当てはまらない世界を知ったエノーはまず、異端を恐れる記憶の通りに××の事を聞くのを止めた。すぐにその記憶は消えてしまったのだけれど、記憶の通りに忌まれて追い出されでもしたらと思うと怖くて口を噤む。もっとも、当時のエノーはこの世界の言葉をほとんど理解できず紡げなかったからどの道何も言えなかったのだけれど。


何も持たないエノーが唯一自分だけのものと主張できるのは××の記憶だけだった。

誰にも知られずさらさらと乾いて消えていく記憶が悲しくて愛おしくて少しでも残ればいいと、眠る前は××の記憶をなぞるのが習慣となった。血が浸み込んだ布は乾いても跡が残る。みすぼらしくても汚らしくても何でもいいから、跡が残ったらいい。一人ぼっちのエノーは繰り返し記憶をなぞった。


言葉を話すのは人間以外ありえない世界に生まれ育ち息絶えた××は女子高生で、人間だった。人間が一人もいない世界に生まれ捨てられ拾われたエノーは男で、ベヒモス属バジリスク毒蛇の幼子である。特殊な環境下でしか生まれず親のどちらにも似ない、誰にも繋がらない異質な毒蛇だった。孤独など感じたことも無く育った少女から孤独に生まれた男児となり、落差に怯える彼が一人ぼっちでなくなるのはこれからのことである。

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