墜落の、

五六

1.「それは楽園」


夜明け。

お情け程度に小さな、けれどあちこちに空いた空気穴から格子に区切られた朝日が柔らかな手を伸ばしてくる。明るい時間は短く、闇が長い。そんな場所に寝起きしているというのに、否そんな場所に居るからだろうか、差し込む朝日から逃れるように檻の中に押し込められた獣たちは蠢き出した。細く狭く区切られた一人づつの檻の中、いくら浄化の石が置いてあっても牢の隅にある汚物入れからは異臭がするし清潔とは言えない囚人たちが身動きすれば消しきれない据えた臭いがエノーの僅かな眠りを妨げる。顔の下にある石畳からは染みついた血と汗の臭い、少し体を動かせば手と足を繋ぐ枷と鎖から金属と錆の臭い。血で張り付いた瞼を無理に開けずとも光量を上げていく日差しは感じられた。仄かな温かさに周囲から吐息が漏れる。けれどエノーにはただ夜露に冷え切った石畳が段々と温まっていくのが気持ち悪いとしか思えなかった。温もりに安らぎを見出すような感情はとうに目減りしてしまっている。


「おちび、ちいさいの、起きてるか。起きれるか」


囚人を連行する時のことも計算に入れているのだろう、それなりの広さの通路を挟んだ向かい側から枯れた声が細々と掛けられる。自然とその声を皮切りにざわりざわりと波紋が広がっていった。エノーはそこで、“ちいさいの”と呼ばれている。昨日居た隣人がその日中に居なくなるなんてことが頻繁に起こる中で自己紹介なんて、名前なんて意味をなさない。四方に部屋が分かれた牢の階。他の牢のことなど解らないが、北の牢で一番小さい癖に居なくならないエノーはいつの間にかそう呼ばれていた。ここでは地位も金も関係ない。長く居た者が力を持つ。“北の”と呼ばれるこの男は北の牢では一番長く居る灰色の毛並みを持つ二足歩行の狼、ベヒモス属ウェアウルフ人狼で、一般的なウェアウルフらしく小さく弱いものにも気を配る。その男が北の牢を“群れ”と言い張りエノーや他の幼いものを気遣うので、この牢では彼らが他の囚人の八つ当たりなどで消耗することはなかった。他の牢では痛む体を抱えて眠れもせず、食事もできず、弱いものがひっそりと衰弱死していることがよくあるのだと牢番が話しているのを聞いたことがある。何もかもが制限された空間では言葉の刃が何より一番鋭い。


「ちいさいの、」

「…はい」

「生きてるな、起きれるか」

「無理させちゃいけねぇよ北の、寝かせとけ」

「だがもうすぐ食事の時間だ、起きなければ貰えない」

「そしたら俺のをやるさ、寝れねぇのはつらい」


大丈夫さ、寝てろ。そう言ってエノーの右隣の男は小さく笑った。自分の分の食事を横流しすると言ったエノーの右隣、牡鹿の頭に青い翼を持つジズ属ペリュトン影喰いの男は立派な角の片方が根元から折れてしまっているため“欠け角”と呼ばれている。北の牢の収容されてる有象無象を“群れ”と言い張りまとめ上げる“北の”に意見するくらい世話焼きな男で、エノーがここに収容されてから幾度か牢の中で場所が変わったが遠くにあっても何度かこういった手助けを提案されていた。


あれをしたい、これをしたいという欲求が薄れて、しなければと思うようになったのはいつからだろう。寝なければならない、食べなければならない、そう思わないと動けなくなってしまった。起きなければ、そう思ってエノーは言うことを聞かない体を指先から征服していく。ここの食事は朝と夕に二度。それも牢番たちが来る時間に起きていなければ貰えない。簡素な食事だが無いよりマシだ。力を蓄えなければ生き延びられないここでは特に。だからエノーは断ろうと思った。断らなければならなかった。彼を消費して生かされる謂れは、甘やかされる謂れは無いのだ。ようやく意思を反映するようになった手のひらに力を入れて、石畳から頬を離す。乾いて引き攣れる唇を動かすと皮が裂けて血が滴り落ちた。


「甘えとけ甘えとけ。いくら魔眼持ちでもオレのをやるわけにいかないからなぁ」


呼び掛けられた声に、発するはずだった言葉を飲み込んでそちらへ顔を向ける。血で張り付いた瞼を力を込めて開けば、エノーの左向かい。“北の”の隣。下顎を無くしてしまった白い骨、デイモン属スケルトン命ある骸の“顎無し”が昨日の食事だった宝石ジュエルを玩びながら笑っていた。デイモン属、スピリット属は肉体を持たないので物を噛み砕いて飲み込み血肉とすることはなく、魔力のある何かを摂取して生きている。通常なら空気中の魔素を取り込むだけでも維持できるのだがここは牢。“現状維持以外の魔素を拒絶する”という複雑な志向を持った魔石ジェムが組み込まれているため、“補給”に志向が定められた魔石を食事として摂取していた。


天然石の中でも、内部に水のように魔力が溜まっている状態の石を魔石と呼ぶ。魔界に充満する魔力が凝って天然石に宿ったもので、おまじない程度の効果の薄い物から街一つ焼き尽くせる程の効果を発揮する物までピンキリで存在している。石によって魔力の方向性が自然と定まっており、さらにそれを加工することによって石の持つ付加効果が明確になる補助アイテムだ。消耗品ではあるが誰でも一つは必ず持っている普及度の高いアイテムで、魔石の中の魔力は使うごとに減っていき、無くなればそれは魔石ではなく宝石と呼ばれた。硬度が高いほど溜まっている魔力の質は高く量も多いので効果も高い。硬度七以下を半貴石セミ・プレシャス、硬度七以上を貴石プレシャスと呼ぶ。いくら貴石を支給されたとしても“補給”に志向が縛られている魔石など肉体に縛られるベヒモス属やジズ属には腹の足しにならない。


「ばか、見るからにベヒモス属かドラゴン属だろーよ」

「そうだなぁ魔眼持ちの鱗ある種なんて、それくらいしかいないもんなぁ」


“欠け角”と“顎無し”がエノーの汚れてくたびれてしまった魔眼封じの装飾と、投げ出された肢体のそこかしこに見える緑の鱗を見てそう語る。


“魔眼持ち”とは眼球を核として視線で魔術を使う種族の別称で余程のことがない限り彼らは“魔眼封じの布”を目元に巻いている。常時自動展開されている視線による魔術を停止、遮断させる陣が織り込んであり親類一同、もしくは一族総出で作るという。誕生と同時に製作が始まり成人前に渡され結婚などの節目でしか作り替えない厳かなもの。彼らの魔眼は目蓋を閉じない限り自分の意志で止めることはできないので、集団の中で生きていくには必要不可欠な存在だ。この布を着けていれば布の下で目を開けても視線が魔術を展開させることもないし、ベヒモス属アラクネ織蜘蛛の糸を使って作られている布は向こうからは見えないがこちらから見ることができる。牢に入る際に所持品は全て没収されて管理され、衣服は簡素な生成りの貫頭衣となるがこの布だけは所持を認められた。牢によっては妙な仕込みがされていることを警戒して専用の封じ布が用意されているところもあるのだそうだが、エノーは愛しい人たちが縫ったそれをそのまま着けている。


エノーの物はリボンの様に長いがリボンより幅広い、紺色の糸で中央に一つ目の刺繍がされた綺麗な灰色の布だった。付けた時邪魔にならないようにだろうか、付けられた色とりどりの装飾された小さな石たちは布からはみ出さない様になっている。刺繍も結びやすいように頭の後ろで結ぶ部分にはされて無く、身動ぎすれば布の終わりの部分に付けられた石がしゃらしゃらと鳴った。


ゴルゴン石蛇だと良いなぁ」

「ああ、そうだな」

「ゴルゴンなら、迎えが来る」


エノーが何も語らずにいる内に、確証もなしに二人は話を進めていく。ベヒモス属ゴルゴン石蛇は身内に対する執着心がとても強い種族で、一族の、それも幼子が牢に居ると知れるや否や取り戻そうと蠢き始めるだろう。機動力は無いが持久力はある種族なので“お披露目”の前に情報が届けばエノーがどんな姿になっても大事に抱き込んでくれる。ましてや王都だ。ゴルゴンの一人や二人、必ず居るだろう。


「詮索か?」


ふいに、“北の”が呟いた。

重さを伴った剣のような音が言葉と成る、そんな錯覚をエノーたちは受け取る。皺枯れて、大きくもなく通る声でもないのに空間を切り裂くように不思議と牢の中に響いた。それまであった騒めきも切り殺されたように静まり、“欠け角”と“顎無し”は向けられた声に同時に息を飲む。喉元に爪先が触れたような気さえしていた。


「いや、北の旦那ちがうってぇ」


次に声を出したのは“顎無し”だった。少し焦ったような明るい声が一気に下がった牢の中の気温を緩める。肉の顔も、顎の骨も無いので表情が読めない筈なのに声の調子で感情がわかる、起伏に富んだ男だった。エノーは知らず止めていた息を吐く。


「そんなんじゃねぇよ、詮索しないのがここの掟だろ?ただの食事の心配さぁ」


詮索は無用、それが“北の”が“北の”になる前から受け継がれてるルールなのだとここに入る囚人は最初に聞かされる。親類、友人、知り合いに会っても知らぬふりをしろと言われ、違えば“北の”がそれを戒めた。けれど一日過ごせばそれが理に適ったものだと皆、理解する。


「そうか、ちいさいの。起きれるか」

「おい、北の」

「欠け角、わたしはちいさいのに話しかけている」


“北の”は“顎無し”の言葉を受け入れたのかルールについては何も言うことなく、顔を上げたままのエノーを見て再び声をかけた。心配性な“欠け角”が苛立った声を上げるが、それを途中で遮り暗闇に光る狼の目でじっとエノーを見つめる。牢が小さく見えるほど大きな人狼が己の手のひらで掬えるほどの幼い少年に、彼だけに語り掛けた。


「ちいさいの」

「…はい」


弱音を吐いたらいい、許してもらえると誰かが脳髄を撫でる。頑張っても先が見えないと誰かが喉の奥で泣き崩れる。エノーはぼんやりとしてすぐ逃避する意識を痛みで押し留めて擦れて瘡蓋だらけの手のひらを石畳に押し付けた。憎しみも、悲しみも、不透明な霧の向こう。今はどこか他人事で、命を維持することで精一杯だった。


「お前はわたしの群れだ。わたしは群れの長だ」

「…はい」


唇の小さな傷から血が溢れて返事をするほど裂傷を広げていく。足に力を入れれば伸びた爪が石畳の目に食い込んだ。ここに来るときに履いていた靴はどこへやったのだろうと、また意識が逸れる。


「わたしはお前に起きれるかと尋ねた」

「…はい」


その隙をついてエノーの中から、哀れなこの身を癒すべきだとエノーを楽な方へと導く手が伸びた。この体は限界で、すぐにでも休息が必要だった。だがその手に身を委ねればエノーは愛しい人たちが褒めてくれたエノーからズレてしまう。ほんの少しのズレも受け入れたくなかった。体は崩れる寸前で、心は今にも腐り落ちそうでも、在り方だけは変えたくなかった。


「ちいさいの、お前はどう答える?」

「…起きれます」

「そうか、強い仔だ」


真っ直ぐで在りたいと、駄々をこねるこの小さな矜持を手放すべきではないのだと狼の目が言う。じゃらり、しゃらりと鎖と石に周囲で音を踊らせてエノーは上半身を起こした。長い黒髪が肩からずるりと滑り落ちる。身を起こしたことで唇から首を伝っていく血液が鬱陶しかった。


「起きれないならそう答えろ。誰も怒りはしない。ただ問われたら、言葉で返せ。いいな?」

「…はい」

「ああ、皆。食事の時間だ」


エノーが震えながらでも起き上がったのを確認した“北の”は頷くと、三角耳を片方だけ違う方向へ向ける。少しして、言葉通りに牢番たちが食事を運んできた。


牢が開かれてからもうすぐ五年。そろそろ選定が始まる。


****


此処は王都の外れ。左端の王冠。

王冠のように円を描く六つの塔とそれを繋ぐ回廊、その真ん中。六つの塔より高さの低い、砂時計のような形をした塔を中心とした地面の下にエノーたちは居る。


七重奏塔セプテットと呼ばれる、ある一定期間にしか使われない特殊な場所。長く行われてなかった古めかしい儀式のための、誰もが忘れ去っていた忘却の塔。


周囲には何も無く荒野が続き、半円状の侵入を拒む結界が囲んだ中には七つの塔だけ。中心の塔とそれを見下ろすような六つの塔の間には魔の茨が生い茂り、外からの行き来はできないようになっている。中央の砂府時計のような塔の側面には地下から頂上まで繋ぐ階段が二つあり、螺旋のように塔に這っていた。


そこは退位を考えた王が次代を選定するために候補者を集める場所で、彼らのための武器を集める場所。親が子のために馴染みの武器屋に良品を選んでくれるように伝えるような気軽さでエノーたちはそこへ押し込められた。同意も恭順もなく、抵抗も意味なく無造作にそれまでの世界から切り離されて、王軍に齎された血と脂と炎が彼らの故郷を蹂躙した時、生き残った者、守られた者だけが。そうして集められた囚人たちは老いた王によって見繕われた候補者に与えられるご褒美兼刺客だ。全てが王に恨みを持つ者、王に連なるすべてを破壊したいと、同じ苦しみを味合わせたいと望む者。それを従えるか殺されるかは、候補者の素質次第。


王は一人。六人の候補者のための六つの塔。二百を超える囚人たちから十二人を選び抜くための四つの牢屋と砂時計の塔。囚人たちが逃げないで大人しく牢の中にいるのは目的のためだ。牢が開かれてから五年後、候補者と共に王の眼前に上がるその時を待って“王を殺す”その為だけに此処にいる。七日に一度、各牢ごとに行われる殺し合いで同じ目的を持つ者をその手にかけ砂時計のように命を消費しながら時を待っていた。かと言ってそれまでに脱走者が現れないというわけでもなく、その為に“現状維持以外の魔素を拒絶する”という複雑な志向を持った魔石が地下の牢屋にいくつも配置されていた。このために何人のカーバンクル歩く宝石が狩られたのだろう。


スピリット属カーバンクル歩く宝石は形の無い魔物である。少女の姿や少年の姿をしていることが多いがそれは擬態に過ぎず、その実態は額の宝石とその周囲を漂う白い靄。人目に触れず、誰にも使役されず、ただただ魔力を蓄積し研磨していった魔石が蓄えた純度の高い魔力で自身に触れた生き物を殺した時に誕生する存在である。真水に魚が住めないように不純物欲求を含まない魔力の中では魔界の住人は呼吸ができない。しかし自身の魔力量が魔石に蓄積された純魔力ヴィスを上回れば魔石は触れた生き物を殺すこと無くただの方向性の定まって無いまっさらな魔石となる。魔石は存在した場所によってある程度力の方向性が定まってしまうので、何の色もついていない石はとても価値が高い。失敗すれば死ぬと解っていても一攫千金や力を欲する者たちは後を絶たないのだ。そしてもう一つ。カーバンクルを捕らえ持たせたい志向の魔術陣をその体に押し込めてしまえば、それはもうカーバンクルではなく望んだ志向を持った魔石になる。そうそう無色の魔石が存在するわけでもないから、きっとそう言うことなのだろう。エノーと相対した者たちの中にもカーバンクルは居た。


「おちび、ちいさいの、起きれるか」


“北の”の不思議に響く声が、食事が終わったあと気を失うように眠りに落ちたエノーの覚醒を促す。この牢に居るものは皆殺し合わなければならないのにこの男はこれを群れだという。詮索を禁じる癖に、守るべき群れだと。


「…はい」


この男の前の“北の”は壮年のスピリット属デュラハン首無し騎士で、それまでこの灰色狼は“気狂い”と呼ばれていた。平然とした顔で平然と違う種族の見知らぬ男へ、ウェアウルフの同胞のような扱いをするのだ。この前教えただろう、どうしてわからない?と教えられたこともないことを脈絡なく問いかけてくる。答えられなくても怒られはしないが、ただ群れの秩序を乱す行動をとったものは“北の”の鋭すぎる気迫に晒されて憔悴して、次の選抜で脱落していく。殺し合いの舞台である頂上へ辿り着くには塔の側面の階段を上らなければならない。心身ともに弱った状態で吹きすさぶ風の中、手摺もない長い階段を上ることが出来ない者も沢山いた。


「籤が決まった。今日はお前と“赤獅子”だ」

「…はい」


幼いエノーが今現在まで生き残れているのは牢に来た時期が遅かったのと、“北の”が弱った個体をエノーに宛がっていたからだ。籤で決めていると、皆は言うが籤を引いている姿をエノーは見たことがない。


七日に一度の殺し合い、東、西、南、北の順番で行われるそれは少しづつ時間をずらして行われる都合上、前の組が長引けば七日後に繰り下げられることもある。今日は朝一で北の選抜が行われるらしい。エノーは“北の”の宣告に頷きながら、寄りかかっていた壁からゆっくり身を起こして牢番が来るのを待つ。


「良かったな、ちいさいの。飯食っといてよぉ」


エノーの左向かいの男は笑う。デイモン属はベヒモス属などとは違い肉体に縛られない。無くした部位など治そうと思えばすぐにでも再生するというのに彼の下顎は、肋は、指先は、無くしたまま。


「赤獅子か、あいつまだ生きていたのかい」


エノーの右隣の男は笑う。気泡のような水音を混ぜ込んで、見知った男の生存を楽し気に笑った。折れた自らの角の欠片を息子だと言って大事に腹の中へ仕舞い込んで、身動きする度に臓腑を傷つけるのも構わず愛おしそうに撫でる。ペリュトンは雌雄はっきりと区別された種で雄体の“欠け角”が孕むことは有り得ないというのにも拘らず。腹の中の存在に今日の殺し合いについて語り掛けながら、もうすぐ生まれると血を吐きながら笑うのだ。


“赤獅子”はベヒモス属キマイラ獅子頭で、比較的理性的な男だったが尾のドラゴンが切り飛ばされてからひたすら眠るようになってしまい、起きている時は起きている時でずっと自身の鬣を毟っていた。かつてエノーの隣になった時に自慢なのだと言っていた見事な夕日色の鬣はもうすっかり見る影もない。


皆、少しずつ狂っている。同じ恨みを抱いて同じ空間を過ごす者同士で殺し合う、不条理と怨嗟を煮込んで血で薄めたような場所だ。此処はこの空間に長く居るものほど壊れていく。詮索を禁じるのは徒党を組まれないようにと王側が提示したルールなのかもしれないが、今では囚人の精神を保つために必要なものとなっていた。お互いの境遇に心を寄せて同じ目標を掲げた次の日に殺し合わなければならない、親愛の情を覚えた相手が親切にしてくれた者に殺される、そんなことが幾度も起これば只でさえ酷使された心は疲弊しきって内側から死んでいく。


此処へ放り込まれてもう二年。初期に集められた囚人はほぼ死に絶えたと聞く。それでもエノーは変わるわけにいかなかった。あの楽園を忘れることなど出来なかった。罅割れた唇を二股の舌で舐めて湿らせる。何度味わっても血の味は慣れないままだ。


「…出ろ」


エノーの牢の前に、顔が見えないように目深にフードを被ったローブを着た男が立つ。牢の外へ出たエノーの鎖を持つ手が石のようなので、ドラゴン属ガーゴイル石竜あたりだろうと想像している。顔は見えないが背丈の低いエノーの位置から見えた彼の首元には、枷のような首輪があった。


「…行って参ります」


要は駒だ。皆等しく。

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