ポリコレだのツイフェミだのに思うこと

 最近だと、ツイフェミとしてギャーギャー言ってたのにいつの間にかポリコレでギャーギャー言う人にジョブチェンジしてた、みたいな印象がすごく強いんだよね。


 なんかさ、あの人らにとってイデオロギーってのは身を守る盾であって、無手で向かうと負けるから、盾コン出来る武器として重宝がっている、という風に見えるのね。


 殴られる覚悟なんか持ちたくなくて、自分が一方的に殴れるよう、常に後ろに隠れることが出来る頑丈で大きな盾、としてのイデオロギーね。


 臆病者というより、卑怯者というマインド。


 でも、それは一般的なザコ敵のマインドでさ、喩えるなら英雄譚に見られる小市民が駆り出された時のモブ兵士の姿で、大半の普通の人間の、当たり前の姿を映してんだろう、とも思うのよな。普通の人間ならそういうスタンスになる、というさ。


 でも、この見え方ってのは日本人の視点だから、かも知れないわけよ。


 日本の場合はトレードオフで防御を棄てて攻撃に全振りした民族だから。「当たらねば良いのだ」精神よな。だから研鑽に研鑽を積むし、技術には異常なほど執着する。それが土台になっての戦闘スタイルだから。自業自得という言葉もこの精神が発したものだろうし、で。


 民族の特徴にまで昇華されるほどの長い歴史を持っているから、余計に特殊性が際立つし、それは逆に言えば他者を見損ないがち、てことでもあるだろうと。自分と同じじゃないっての、日本は近代ですごく意識的になってきたけど、それはグローバル化にいち早く順応してるからと思うんだ。戦闘スタイルがそうだから。


 それで言うと、似たような精神性でロシアとドイツも日本の精神性に通じる部分があると思う。三者共通なのは忍耐力で、ロシアとドイツは知らんけど日本はそれこそ和を以て貴しとなすの精神そのものが、戦争前夜の根回しとか事前交渉とかの労力に相当してて、そっちをものすごく重視する、ていうさ。たぶんロシア、ドイツも似た傾向あると思う。戦闘前のジッとしてる時間の忍耐、ね。



 欧米に多いポリコレマインドは、あんまりアジアじゃ聞かないなというのもあるんだよね。聞こえてこないだけかも知れないけど、あの世界一に近い人口抱えた中国はシラーッとしたもんで、まったくその手の話題が聞こえないじゃん。まぁ、その前に当局の検閲と戦うのが先決ってこともあるだろうけど。


 たぶん、マインド的に響かないんだろうと思うんよ。日本人に響かないのと同じ。


 日本の武術スタイルがルーツ的には源流が中国なのは明らかで、中国も最初は「片手剣スタイル」だったと思うんよ、古代では。盾と剣のセット。それはシルクロードから伝来したスタイルでもあったろうし、そのマインドは西洋と同じトコが出発点じゃないかとも思うし。


 ところが、中国もカスタマイズしてくじゃん、歴史の中で。日本がサムライソードにカスタマイズしてったのと同じで。


 中国は長もの一択な感じになってるよね、そんでやっぱり盾は棄ててんだわ。これは中国独特の合理主義が選択した結果で、距離を採用して防御を棄ててるわけじゃん。広大な敷地で人海戦術が採れるという立地条件を加味した結果だよね。


 振り返って欧米だと、盾と剣のセットだったのが長く続いて、急に銃器になる。いや、ボウガンが先だったかな。それで急激に盾も鎧も廃れたんだったよね。


 現在、銃とセットになるのはバリケードじゃん、て。距離を置いて、至近距離に至る前に仕留めるスタンス。近付かせない限り安全というマインド。だから戦車が登場してさ。


 欧米はなんか、まず盾ありきに思えるよね、こう考えてくと。


 なんでかなと思うと、個人主義的なモンが関わってんのかと思えてくる。中世では人質ビジネス的な考え方で戦争やってて、戦場で死ぬなんてのは想定してなかったとかいう話を耳にした時は、やっぱりね、と思ったもん。


 これが、中央アジア各民族となると、どっちかというと社会主義的なんだよね。全体をまず考えてるから個々の命は相対的に低くなる、というか。


 そうすると、物事、特に戦闘というものの見え方が決定的に違ってくるよね、なんだっけ、トルコだっけ、モンゴル帝国だっけ、欧州に攻め入った時に生物兵器の投入をして阿鼻叫喚を生んだ……そこらのマインドはまるで違ってたよね、と。


 これも自然発生の社会主義的マインドと、革命者が作った人工物でのマインドでは違ってて、決定的なのはトップ連中のマインドがまったく構造が違うことでさ。


 日本の「お家主義」ってトップから下々まで例外なく、自己を滅せよ、だもんね。



 なんか、ポリコレ連中のマインドは、物語におけるザコ敵マインドが主軸に見える。それは弱い者ゆえの必然なのかも知れないし、スローガン見てるとそこの自覚はあるのかとか思えるけどなんか奇妙で、数の暴力も実は自覚してそうだなと思う。


 ある種の開き直りで、弱い私たちは個人個人じゃなく団結して戦おう、みたいな。


 キレイゴト言ってるけど、数の暴力に訴えます、と言ってんのを言葉だけ塗り替えて見栄え良くしたただけだわな。だから反発されてんのに、頭が悪いからか解らんらしいくてさ。もうはっきり地頭の問題だろうと睨んでるよ、うん。


 しかも数の暴力って、リクツも何も要らないとか、世界中の国々で本当に長い間苦労して理不尽と戦った先人たちが勝ち取ってきた、「多数決で決められた不条理」の是正をさ、やっとこ悪認定したものを、逆行させる考え方だっていうのにさ。自覚ないのかな、本当に。


 自分たちも何かがしたい、という原動力だけでむやみやたらと暴走する前に、勉強したら?と思うんだ。ウンザリだ、と言ってる人のホンネってたぶん、「頭が悪い奴には何を言っても通じないから嫌になるね、」だよ、たぶんね。皆同じこと思ってる。頭が悪いなぁ、と。



 これ、ネット社会の弊害だよね。比較対象が自分と同レベルばかりになってしまいがちでさ、それに気付かないで近場ばかり見てたら、なんか自分のレベルまで見誤るっていうさ。


 そういう仕組みがネットにあるってことをちゃんと理解してる、ネイティブのSNS世代である若い人たちの世代になるほど、ポリコレとかの連中は減るじゃん。


 ネット環境って自覚的でない人間は勘違いを起こしやすい、てのに尽きるのかね。


 まぁ、どのみちね、

 小市民から脱することがない程度という意味になることは間違い無い、てことで、この平均的レベルの集団というのを生み出してるのは、その国の教育レベル、てことで。


 でも日本の教育レベル、別に高くないよね。むしろ文化資産からきてる自主性かもね。オタク大国の名はダテじゃねぇ、てことか。


 何でも出来る表現の自由が、オタク気質の自主性を保護、推進してるから、多種多様な文化が育まれ、切磋琢磨の自由経済圏を成立させている、という公式だよね。


 それを欧米は、小市民のうすっぺらい感情に過ぎないようなモンを、数が多いというアホウな理由で考えナシに優先するから、無産階級の全能感満たしてやった見返りとして全産業衰退、てヤツに陥ってるんだよな。

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