【宗教】憐れみを持つ処であって、怒る処ではない。
「憐れみを持ちて」云々かんぬん。とか言う言葉が確かあったはずだ。
他人が出来ないということを怒ってしまうのはそれを知らないから。という意味。
道徳のお話になってしまうけれど、無智というものが一番の悪だと仏教でも教えている通り、知らないということは何かと罪に通じてしまうのは確かで。
知らないことで怒りが涌いてくる、それ自体が不明を恥じるべきであり、相手を責めるのはお門違いである。相手の苦労も事情も知らぬくせに自分の胸に涌いてくる、その怒りの感情はなるほどとても恥ずかしいものだと納得する。無智は罪だというのは、無智のくせに怒りを持って相手を責める行為が罪だというのだろう。
哀しみを知るべきなのだ。出来ないということは悲しいことだ。
出来ないという時のその当人の悲しみを考えれば、なぜ出来ないかという理由以上に大事なことが見えてくる。出来る出来ないはその次の話だ。
勉強だけでなく、仕事だけでもなく、なぜ犯罪を犯すかにしても「侵さずにいることが出来ない」という部分に焦点を当てて、その理由に哀しみを見いだそうとすれば、自然と周囲の絡まった事情も見えてきて、その人の囚われているしがらみが姿を現す。人が起こす問題は、その人自身よりその周囲に原因を求めた方が早いことが多い。雁字搦めになり、にっちもさっちもいかず、来たるべくして来た結末だ。
例えば、憐れみを掛けられると調子に乗ってさらに要求を増やす餓鬼がいる。さて、この餓鬼という哀れな存在には求めるだけを与えるべきなのか? 違うだろう。
餌を欲しがったなら、本当に必要なのはその餌ではないもので、まずはそちらをこちらが見定めてやらねばならない。餓鬼は餓えすぎていて目先しか見えていないだとかの問題を抱えていて、山ほど餌を抱えてもまだよこせと言うばかりの状態の者を指すのだから。本当に与えるべき必要なものは当人の求めているものではないということはよくあると、心によくよく刻んでおかねばならない。
相手をよく見ていないから、額面通りの餌を与えては自己満足で終わるのだ。それは相手を同じ人とは見做していないことと同じだ。傲慢な心持ちでいる哀れな自分をまず気付かなければいけない。自分自身が哀れな存在だ。
学校で教えるべきはこれで、道徳の時間に話す事柄と言えばこれで、世にある娯楽に含まれる教訓の如きの根差すところもすべてこれのはずだ。
人の無智なるところの罪と哀しみを、まずは知らねば話にならない。
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