一人称→三人称→一人称
一人称が書けないからとしばらく三人称を続けていたわけだが、なんとか踏ん切りがついて一人称をボチボチ書き始めていますわ。
一人称にすると自分の容姿をほぼほぼ言及できないのが第一の関門で、これはまぁ、鏡を覗かせるとかでクリアしまして、次の関門が、他者の容姿を気にする奴なぞおらん、という点ね。
頭と靴はちゃんとしろ、という格言はありますものの、それをいちいち思考に上せることはほぼないわけでさ。風景、容姿、概念、こういったものはやはり三人称でないとスムーズには出ないねぇ、と。
不自然なのだ、思考が。(笑
小説ってのは、漫画とかなら非常に簡単な『見るともなく見ている情報』というものの取り扱いが非常に難しい分野なわけだよね。この情報の処理をどうするかで、なんともヘンテコリンな違和感満載の一人称小説ってのが出来上がるわけよ。
なので、まず第一稿は逆らわず、風景も容姿も概念も飛ばして書いてみて、足りないトコをなんとか必然になる工夫を凝らしてね、後から付け足していく作戦。
これやると勢いが削がれかねないんで、そこを調整しながらって感じになりますな。ネタの中核アイデアはすぐ出てくるものの、その周りに針金を渡して骨組みを作って、今は粘土を塊状で仮置きって感じ。推敲はこれをヘラとかで細かに細工していく工程だと思ってもらえればヨロシ。
こう書くと、小説もまた芸術の一環っての、自然に理解できるね。工程が同じだ。
一人称の違和感は、たいがい「誰に向けて喋ってるんだ?」にあるので、まずは手紙の形式で「アナタ」という相手がいる感じで書くのがいいのかと思っている。
これは、結局のところでは有耶無耶で、独白であるのか相手がいての告白であるのか、て感じでどっちを取るかでも大きく異なるし、結論もない。
さりとて、この根源の部分がはっきりしてくれないことには、土台がグラグラでは何を作ろうとしても、その設計図における中心が取れない状態なのだよなぁ。これが、多く「書けない」と思う人々を悩ませるものだと思っている。
論文ってのが、真面目さんほどどこから手を付けて書けばいいか解らないとなるのと同じで、小説の文章というものも、テキトーに考えている人ばかりがホイホイと手を出して、真面目に考える人は手が出ないものだと思うのでした。
文章による解説文があり、その解説通りに図面を引こうとしたら、アヤフヤすぎてどこからも手を出せなくて、真っ白なまま、そういう状態だという意味ね。
なんとなく手を出して、薄ボンヤリな中でそこから中心核を求めようとすると、中心というか、起点が「ない」ということに気付くのだけど、たぶん最初から「書けない」と言っている人は、その事実がなんとなく見えていたんだろう、ということ。
軽く考える奴ほど手が出やすいわけだ、そんで深くやりたいとなった時には途方に暮れるのだ、中心が「ない」と知れて。
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