30年前の書き方本の矛盾

 いやねぇ、例の書き方教本でさぁ、矛盾したこと書かれてんのよ、しかもそれが、現在でもまだ生きてるっぽいんだわ、矛盾してんのに。(笑


 そこでは例題として文豪の文章を持ってきて、くだくだ書かれた文章を評して、、と書いているんだよ。


 いや……その文章、


 だけどさ、削った結果にことが現代の選評なんかではクドイほど言われてるわけでしょ。ことが問題なのだよ、ことが知られているよ。


 読者一人ひとり、ぜんぜんレベルが違うってこと。「哀しい」ことを書かれた一行の文章で、どれだけの想像力を働かせられるかは


 さらに、クドクド書かれた文章はまだるっこしくて読みたくないという読者が、その望みに沿って簡略化された文章から想像力を働かせることが出来るのかといえば、ということが解かってるんだよ。彼らは単にないものねだりなだけ。読みたくない、想像力もない、だけど感動はしたい、なの。


 この、作者の「削らねば」てのは、こういう読者に沿うという部分があるから、だから矛盾が生まれるの。削れば削るほど良い、とこの本には書かれていたんだけども、現状を見ればこの著者は考えを改めるだろうよ、と思ったわ。読者といっても千差万別、全員が納得のいく書き方はないのだよね。


 ある読者から見たらスカスカな文章の作品が、ある読者には絶賛されるわけです。その中間で書けば両者に届くのかといえば、両者ともが物足りないと評します。


 今って、文壇がターニングポイントにあるんだろうなと思った次第。削れば削るほど良い、の神話が崩れたのよ。(削る、のイミがもっと限定的になった?)


 読者は軽妙に書かれていれば軽妙に読むし、じっくり書かれていればじっくり読むわけで、昔の人とは怖れがあるってことです。だって、あのクドクドしい文章を書評家はシンプルと評したんだもん。感覚がたぶん違う。今シンプルとされている文章は、当時なら「なんじゃこりゃ」ですよ、たぶん。「削りすぎて何も想像できない」と言われるでしょう。シンプルの規定が違う。

 おそらく、昔はから。統一基準的な「小説の文章はこう」てのが枠組みとしてあったけど、今は完全崩壊してる。Webなんか見れば顕著だよね。文章密度みたいなものが、濃淡にしてもここからここまで的な規格はあったんだと思うし、それは現代では完全に無くなっていると感じるもの。


 だけど、読者の読んだ時の作用ってのまでが劇的に変化したか、てのは別。


 だから、今の小説界ではシンプルの基準は下がってしまっているから、昔のよーに単純に「削ればよろし」とはならないはずだよね。イルカさんの「なごり雪」だってという話だったからね。(読み取れない読み方は果たして読まれたうちに入るのか?)



 公募に出した作品は、実は一つ書き方で実験的なことをしていて、ある種の誘導が必要だろうと思って、一つ仕掛けを入れたわけです。(ネタバレだ、ヤベェヤベェ、で一部削除)一部をクドく書けば、自動で深読みモードに入る、的な。


 そういう仕掛け、メフィストの選考さんは読み取ってくれて、どう評してくれるのかなぁとか思ってたから、この「削れば削るほど」てのはちと迷惑だなぁと思った。



 バランスよな。盛れば盛るほどクドくなり、削れば削るほどスカスカになる。ちょうどいいように微調整。この世は何事も、マニュアル通りには行かないように出来てると思うとちょうどよい。絶対、マニュアル通りにいかない、テコでも。(笑


 だから、小説を書く時に大事なのは、受け売りだけど、「ケースバイケース、ある一人の人間の場合に限定して書く」のが重要とされているよね。皆と括るのは危険。




 それから、喜怒哀楽の感情を喚起させたいなら嫌でも多少はクドくなるし、ワクワクさせたいだけなら展開スピードである程度は誤魔化せてしまう、というのもアリ。


 文章密度は使い分け大事だね。

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