HiGH&LOW 仕掛けの構造分析

 ストーリーやらに関するトコは幾らでもファンによる詳しいのがあるんで、ここでは物語構造そのものを分析してみたいと思います。つまりエンタメとしての分析。


 これ、ドラマ第一期は世界観の紹介とかキャラの紹介に徹してるトコがあって、終始「こういう世界観ですよ~、」て感じに進む。それでいて、ちゃんと一つひとつエピソードが完結したドラマでもあるから、ただのキャラ紹介ではない。


 で、ドラマ第二期は実は映画との連動で前フリである。長々十話をかけて、映画の下準備をしたのだ。映画三本が本番になっている。だからカッチリ綺麗な作りだ。


 現実舞台での架空の街、という設定はなかなかハードルが色々とあって、やっぱ完全架空のファンタジーのが都合が良い部分はたくさんある。

 比較としてドラゴンボールを持ってきていうなら、強さのインフレという問題が一つ言えるものとしてあり、シリーズ追うごとに敵は強大になってくが、それに対抗する味方側の設定上の制約ってのが「生身の人間・リアル世界観」での問題なわけ。

 ドラゴンボールなら、主人公は宇宙人なのでどんだけ生物的に強さを増しても宇宙人だから、で済む。地球人はそうはいかないのである。ここを解決するのに、ハイローは群像劇という手法を取った。


 物語は、進展するごとに大きくか深くか、逆のことは出来ない。止まっていることも出来ない。特にこういう設定を持つケースでは時間経過と共にどんどん膨らんでゆかねば停滞と取られてしまう。戦闘シーンが重要な役割を持つ物語は、常に戦闘力のインフレという問題を抱える。


 もう一つ、ゲームの龍が如くでもインフレってのは起きていたが、ドラゴンボールにおける解決法が主人公の天井知らずな強化であったのに対し、こっちは数での強化が主になっていた。桐生ちゃんにどんどん友軍がくっ付いていくという手法だ。

 で、ハイローではどうだったかと言えば、敵に強いのが出てくるたびに、味方にも強いのが登場して、そして龍が如くとの違いとして、主役の役割が小さくなっていくという点がある。群像劇になっていくのだ。群像劇というのは非常に広がりが良い。


 そうすると、シリーズ通しての視点主であるコブラは完全に、個人的な力のインフレを起こさずに済む。桐生ちゃんですらが、シリーズのうちには四代目就任とか復帰とかでインフレは起こしているのだが、通常、現実の人間の戦闘力は、こういう物語形式においては最強の時点から語られるので、やすやすと強化されてはならない。

 桐生ちゃんの強化は組織内での立場の強化を利用して、個人の戦闘力を上げずにカバーしたわけだ。だから根源的な矛盾になってはいない。


 漫画のワンピース、あれもいちおうは人間ということになってるが、ファンタジーである。魔法だの悪魔の実というファクターによって、彼らは人間の範囲を超えての強化が理由付けられる。それはもう現実世界の物語ではないので、だからあれらはファンタジーなのだ。ファンタジーの境界ってのも難しいが、完全にアッチ側だという判断は力のインフレの解決法でも見てとれる。

 ファンタジーであれば、現実のしがらみからは開放されるので制約というものは考えなくていい。ハイローはそうでない、現実にもありそう、という路線で展開されるからこその、訴える力というものがあり、それが基底にあるからこそファンタジーで済ませることは出来ないという構造を持っている。


 ファンタジーな物語ではそぐわないテーマというものをハイローは掲げているので、だからファンタジーを選択出来なかったというリクツが通っている。

 ファンタジーな物語で現実的な問題提起をしても滑稽にしかならないので注意しなければならない。それがひいてはセカイ系へと繋がっていき、どこか乖離した、説得力のない主張にもなりかねない。セカイ系の主張はよくよく考えると説得力に欠ける、これは構造的に導き出されてしまう欠陥である。セカイ系やファンタジーは、普遍のテーマには相応しいが、時代性やらからくる現実的問題提起には向かない。


 群像劇、という括りでいえばドラゴンボールもワンピースも友軍がくっ付いていくのはハイローと同じだが、主役との分担割合が違う。ハイローは最終では全部等しくなってしまうが、他は主役があくまで主役だ。

 これで何が構造的に変わるかといえば、完全群像劇化したハイローは個人全員がスポットを浴びる主役と認識され、それぞれに物語の存在が期待される。他はそうではないのだ。主役はあくまで主役、これのもたらす構造における縛りは大きい。他は脇役であるから、よほどでなければ物語の期待はされない。


 そこから、仕掛け人側からの提供での幅に差が生じてくることにもなる。視聴者のもつ期待値に大きく差がついてしまっているからだ。

 ハイローは味方陣営五つの地区と雨宮兄弟、ムゲンの二人に、敵陣営の方でさえ物語を期待されてしまうのに比べて考えるといい。同じような構造としては、ゲームのFateがある。あれもアニメ版はすべて期待値からの物語であり、本番はゲームだったはずだ。かように、群像劇形式は個々のキャラにまで拡散するが、その分、主役の吸引力は低くなる、その弱点をハイロー第一期ではコブラを中心に物語を回すことで回避したとも言える。


 時代性というのは、個人の魅力をも凌駕する吸引力を誇る。自分を取り巻く諸問題であるからこそ、誰もそっぽを向くことは出来ない問題で、それをテーマに据えた物語が構造的強度を持つのは当然の話である。

 現実のいつかの時代に、現実にあったかも知れない物語、その時代が現代に近ければ近いほど、恐ろしいほどの吸引力を発揮するのだ。名作と呼ばれる物語の多くはこの時代性というものを備えており、その時代だからこそ成立するという側面を持つ。これを簡単には別時代に移し変えることなど出来ないし無意味だ。





 アニメ版バナナフィッシュ、てめーのことだよ。金田一だってリメイクされ続けているが、時代を変えたりはしない。評判のほどは後でじっくりみさせてもらおうと思う。

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